第10話 無属性の異能
フェリカ薬草研究院での日々が二月ほど過ぎた頃には、ミリィアはすっかりこの辺境の研究棟に馴染んでいた。
馴染んでいた、というよりも、周囲の方が彼女の異常さに慣れさせられていた、という方が正確かもしれない。
「ミリィア。前に君が借りていた『北方毒草図鑑』まだ手元にあるかな?」
研究員のトビアスが、作業室に顔を出してそう尋ねた。
「もう書庫へお返ししました。五日ほど前に」
「あ、そうなんだ。それで、その、ちょっとできるだけ早く確認したいことがあって……第七章の、確かに真ん中あたりに載っていた根の断面図なんだけどさ……」
「ヒロズキンの根ですね。断面は同心円状で、外側から四層目に薄い黄色の環があります。あれは含有される毒素成分が、乾燥の過程で結晶化したもので――図鑑に記載ある概要通りだと、毒性の強さの目安になるとされていましたが、個人的には、あの記述はやや簡略化しすぎているなあという印象です。だって、実際の断面は、環の数が統一されていませんしね」
ミリィアがかなりの早口で滔々と並べた言葉に対し、トビアスはしばらく口を半開きにしたまま固まっていた。
「本当に相変わらず、物凄い記憶力だなあ」
「一度見れば、大体覚えていますので」
「大体、というレベルではない気がするけどさ」
ミリィアはきょとんとした顔で、首を傾げた。
「そういうものではないのですか?」
「違う。断じて違う。人間やめますか、図鑑になりますかってレベルの話」
トビアスはそう言い残し、何やら青ざめた顔で作業室を後にした。
その様子を、少し離れた場所で書類仕事をしていたアッシュが、呆れたように眺めていた。
こういうことは、これが初めてではない。
つい昨日も、ベルタが古い納品記録を探して部屋中をひっくり返していた時、ミリィアが「ヒソップの納品数が記載された欄の右下に記録が――メモ書き程度でしたけど、あったはずです」と、日付から数量、果ては紙の染みの位置まで正確に言い当てて、ベルタを絶句させたことがあった。
人の顔についても同様だ。
一度だけ町で見かけた行商人を、次に会った時には名前こそ思い出せないまでも「以前、左手の薬指に古い切り傷があり、上着の第二ボタンの糸がほつれていた方ですね」と、些細な特徴まで言い当ててみせたこともある。
しかしながら、本人にその自覚はまるでない。
「私……見たものを、忘れないだけなんです」
誰かに指摘されるたび、ミリィアはそう言って軽く受け流す。
まるで、それが誰にでもできることであるかのように。
「いや、普通の人間は『見たものを忘れない』なんて芸当、できない」
アッシュがそう口を挟んだのは、ちょうどその日の午後、彼女がまた別の研究員を絶句させた直後のことだった。
「そうでしょうか。単に、少しばかり記憶力が良いだけかと」
「良い、というレベルの話じゃないだろ、それは」
「悪い記憶力の人と比べたことがないので、その辺りの判断が難しいです」
「一般的な記憶力ってのは、過去に一度読んだ本の断面図を、細部までそらで再現できるようなもんじゃない」
ミリィアは心底不思議そうな顔をしていた。
演技ではなく、本当に分かっていない様子だった。
アッシュはしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて、それ以上の追及をやめた。
(彼女は、魔力属性の判定を受けたことは、あるのだろうか)
貴族の子女であれば、通常は幼い頃に魔力属性の判定を受ける。
だが、ミリィアの家格――男爵家、しかも早くに両親を亡くし、決して裕福とは言えない環境――を考えれば、正式な判定を受けていない、あるいは受けたが『無属性』という結果だけを聞いて、それ以上深く調べられなかった可能性は十分にあった。
この世界の魔力は、五大属性に大別される。
そして『無属性』というのは、多くの場合、目に見えて分かりやすい力を持たない者を指す「ハズレ」枠として扱われる。
派手な炎も、鋭い風も操れない。
だからこそ、これほど顕著な異能の兆候があっても、本人はおろか周囲でさえ、それを『属性由来の力』とは結びつけずに、単なる「物覚えの良い変わり者」として片付けてしまうのだろう。
『無属性魔力』には、ごく稀に例外が存在する。
建国伝承に語られる、生命を芽吹かせる『聖女』などもその一つだ。
アッシュ自身は、極めて希少な『光属性』を持っている。
だからこそ余計に、ミリィアの異常な力と、その自覚のなさが引っかかった。
受動的で、ただ『完璧に記憶する』だけの、異質な力。
(それはただの無属性、か?)
その言葉から連想される宮廷のきな臭い噂が、彼の脳裏をよぎった。
だが、今はまだ、それを本人に告げるだけの確信もなければ、告げるべき理由も見当たらなかった。
「――アッシュさん? 私の話を聞いていますか」
「……悪い、聞いてなかった。なんだって?」
「今度、王都から新しい毒草の標本が届くそうです。届いたら、一緒に成分の確認をしていただけますか?」
「ああ、もちろん」
ミリィアは満足そうに頷くと、また嬉々として作業に戻っていった。
アッシュはその無防備な背中を眺めながら、胸の内にしまった疑問を、今はまだ言葉にしないでおくことにした。
★
夢を見た。
小さな庭だった。
石を積んだだけの簡素な柵に囲まれて、雑多な薬草が思い思いの背丈で茂っている。
裕福とは言えない邸の裏手にしては、随分と手入れの行き届いた庭だった。
「ミリィア、こっちにおいで」
父の声だ。
振り返らずとも分かる、低く落ち着いた声。
宮廷医師という肩書きの割には、その日も母の丹精している庭の隅にしゃがみ込んで、何かの葉を摘んでいた。
「これは、なんという草?」
「フチイソウだよ。熱冷ましに使う。ただし煎じ方を間違えると、効き目がまるで逆になる」
「逆ってどういうこと?」
「熱を下げるどころか、上げてしまうんだ。だから薬草というのは、正しく扱えるかどうかが全てでね」
父はそう言って、小さく笑った。
幼いミリィアはその言葉の意味を半分も理解していなかったが、父の話しぶりや声の低さが好きで、いつも隣にしゃがんで、同じように葉を摘む真似をしていた。
「あなた、また難しい話をして」
垣根の向こうから、母の声がした。
籠いっぱいの摘みたての花を抱えて、少し困ったような顔をしている。
「難しくはないさ。ミリィアは、こう見えて呑み込みが早い」
「呑み込みが早くても、難しい薬草を扱うのは別の話ですよ」
母はそう言いながら庭に入ってきて、ミリィアの隣にしゃがんだ。
彼女の手が、ミリィアの手にそっと重なる。
「ミリィア、この花、覚えておきなさい。誰かが辛そうにしている時、傍に置いておくといいの」
「どうして?」
「不思議とね、気持ちが少し軽くなるのよ。これといって何かを治すわけではないのだけど」
母は自分の力について、多くを語らなかった。
ただ、母が傍にいるだけで、風邪をひいた使用人の熱の下がりが早かったり、怪我をした庭師の傷の治りが良かったりすることに、幼いミリィアはうっすらと気づいていた。
父はそれを知ってか知らずか、決まってこう言うのだった。
「お前の母上は、大した魔力を持っているわけじゃないんだが、傍にいるだけで、皆が少し楽になる。私はそういう人間を、他に知らない」
「私はただ、皆に元気でいてほしいだけですよ」
母はそう言って笑うと、摘んだ花を一輪、ミリィアの髪に挿してくれた。
「さあ、これでミリィアも一人前のレディね」
「本当?」
「ええ、本当よ」
庭に差し込む光は、いつも柔らかかった。
父の低い声と、母の静かな笑い声と、土と葉の匂い。
それだけで満たされていた、小さな庭での時間。
――その光景が、ゆっくりと霞んでいく。
目を開けると、見慣れた石造りの天井があった。
ミリィアはしばらくの間、寝台の上でぼんやりと、夢の余韻に浸っていた。
もう随分と長い間、あんなにはっきりと両親の夢を見ることはなかった。
(そういえばお義父様たちに、しばらく手紙を書いていなかったな)
婚約破棄からこちら、慌ただしい日々が続いて、すっかり後回しになっている。
心配性の義父と義母のことだ、きっとまだやきもきしているに違いない。
ミリィアは寝台から起き上がると、卓上の紙とペンを引き寄せた。
「近況報告、と……」
窓の外はまだ薄暗く、朝靄の向こうで、木々の緑がぼんやりと霞んでいる。
ペンを取ったものの、何から書いたものか少し迷いながら、ミリィアはひとまず、一行目にこう綴った。
「お義父様、お義母様。その後お変わりなく過ごされておりますか? 私は――」




