第7話 完璧な手順書
小さな診療所に戻るなり、ミリィアは迷うことなく薬研とすり鉢が置かれた作業台を占拠した。
「お湯を沸かしてください。それから、清潔なガーゼと、中和剤として使うための灰、もしあれば白樺の樹液を」
ミリィアの指示は的確で、一切の淀みがなかった。
医師が慌てて助手を走らせる中、ミリィアは先ほど裏の林で採取してきた『シーナイ』の毒果実と、無害な『アマンの実』、そして自前の道具袋から取り出した数種類の乾燥葉を机に並べた。
「アッシュさん、そちらの乳鉢でアマンの葉をすり潰してください。繊維が完全に切れるまで、細かくしていただけますか?」
「了解した」
アッシュは言われた通りに作業を始めながら、横目でミリィアの動きを観察していた。
ここから先は、彼女の言う通り「実証実験」だ。
ミリィアが見た記憶があるという、古い書に似た症例があったとはいえ、目の前の毒草は何らかの干渉を受けて変質している可能性が高い。
手探りで解毒剤を探り当てるには、普通なら何日もかかる繊細な作業になるはずだった。
だが――。
(……なんだ、あの手つきは)
アッシュは乳棒を動かす手を止めかけ、目を細めた。
ミリィアの動きは、手探りの実験などという生易しいものではなかった。
そもそも彼女は秤を一切使っていない。
指先の感覚だけで粉末をひとつまみ取り、迷うことなく沸き立つ鍋へと放り込んでいく。
それは、長年の勘といった職人芸とも違うようだ。
彼女の目は、手元を見ておらず、虚空の一点を見つめ、まるで目の前に自分にしか見えない『完璧な手順書』が広げられていて、それをただ機械的になぞっているかのような、ひどく無機質で異常な正確さだった。
「まもなく、白樺の樹液が沸点に達しますので。そこにすり潰した葉を。一かけらも残さずにお願いします」
アッシュが声をかける間も与えず、ミリィアは鍋の中身をかき混ぜる。
緑色だった液体が、ある温度に達した瞬間、ふっと濁った紫色に変わった。
普通ならここで火から下ろすか、様子を見るところだ。
しかしミリィアは一秒の躊躇いもなく、そこに灰を削り入れた。
じゅっ、という音と共に、液体は鮮やかな透明色へと澄み切っていく。
(……あり得ない)
アッシュは内心で息を呑んだ。
知識が豊富だとか、記憶力が良いとか、そういう次元の話ではない。
彼女は今、過去の書物で読んだだけであろう文字情報を、温度、色、分量、時間の経過に至るまで、寸分違わず現実の世界に『再現』している。
それはミリィアが、無意識に振るう圧倒的な『異能』そのものに見えた。
「できましたよ」
ミリィアが額の汗を手の甲で拭い、振り返る。
その顔には、先ほどの無機質さは微塵もなく、難解なパズルを解き終えたような年相応の達成感が浮かんでいた。
「これを、匙一杯ずつ、お湯に溶かして飲ませてください。半刻もすれば痺れは引くはずです」
医師が震える手で薬を受け取り、患者たちの口へと運んでいく。
結果は、劇的だった。
青白かった患者たちの顔に少しずつ血の気が戻り、苦しそうだった呼吸が穏やかな寝息へと変わっていく。
「おお……おお……! なんという奇跡だ。ミリィア先生、あなたは神の使いか何かか!」
「神の使いだなんて。ただの薬草研究者です。それよりも、経過観察が必要ですので、今日はこのまま」
医師や家族たちから泣きながら拝まれているミリィアの姿を、アッシュは部屋の隅から静かに見つめていた。
古井戸で見つけた旧ラサレイア呪術陣が刻まれていた焦げた木札は、今、彼の上着の懐に隠してある。
あの不穏な呪術の気配に触れてなお、ミリィアはただ目の前の『毒』を解明し、無邪気に喜んでいるだけだ。
どれほど異常な才能を、惜しげもなく発揮したのかすら、自覚していない。
(……なるほど。これが『毒薬令嬢』の正体か)
アッシュの唇の端が、微かに吊り上がる。
それは、表向きの甘く飄々とした笑みではなく、得体の知れない宝玉を拾い上げてしまった男の、純粋で、ひどく独占欲に満ちた笑みだ。
「これは……本当に、とんだ拾い物をしたな」
誰にも聞こえないほどの小さな呟きは、薬研を洗う水音に紛れて、静かに診療所の空気に溶けていった。




