第32話 小さな不運
アッシュが王都に残ってから、はや十日ほどが過ぎていた。
「便りは、まだないのかい」
ベルタが何気ない調子でそう尋ねてきたのは、夕暮れ時、温室の片付けをしていた時のことだ。
「特には。……そこまで頻繁に連絡を取り合う間柄でもありませんので」
「ふうん」
ベルタはそれだけ言うと、それ以上は追及せず研究棟へと戻っていった。
その背中を見送りながら、ミリィアは手にした鋏をぼんやりと見つめた。
薬草園での日々は、以前と何ら変わりなく過ぎていくはずだった。
土壌の調査、標本の整理、若手研究員たちとの他愛のないやり取り。
ミリィアの生活のリズムそのものは、アッシュがいてもいなくても大きく変わることはない。
ただ、時折ふとした瞬間に、隣に彼がいないことに意識が向いてしまう。
「――あ」
畑の畝を挟んで反対側、いつもならアッシュが座っている場所に誰もいないことに気づき、ミリィアは自分の手が止まっていることを自覚した。
(別に、特別なことではありませんが)
そう自分に言い聞かせながら、作業を再開する。
だが、次に気づいた時には、また同じ場所に目をやってしまっている自分がいた。
夕食の席でも、同じようなことがあった。
「ミリィアさん、今日は随分と物静かですね」
トビアスに指摘され、ミリィアは初めて自分がいつもより口数が少なかったことに気づく。
「そう、でしょうか」
「アッシュさんがいないと、なんだか食卓も静かで。お二人の掛け合いが無いと、僕も気が抜けてしまう」
「――そう、ですね」
その言葉に、ミリィアは控えめに頷いた。
いつもなら、他愛のない毒物談義や軽口の応酬があるはずの時間。
それが今はないという事実が、思っていたよりも胸の奥に重く堪える出来事だった。
その夜、自室に戻ったミリィアはこれまでの記録を見返していた。
王妃の毒の性質、呪術陣の効果、ラサレイアという滅びた国――手に入れた情報を整理していく中で、ページの端に描かれたあの紋様のスケッチに目が留まる。
先日、彼が忘れていった袋に刺繍されていた、アウテレジア家の家紋。
(この紋様の意味を、アッシュさんが何かご存知なのだとしたら)
そこまで考えて、ミリィアは自分の思考がいつの間にか、謎そのものよりもアッシュ自身に向かっていることに気づいた。
(――らしくもない)
これまでのミリィアであれば、目の前の謎を解き明かすことに真っ直ぐ集中していたはずだ。
それなのに今、頭の中を占めているのは、彼が今頃王都で何をしているのか、無事でいるのかといった、答えの出ようのない問いばかりだった。
その自覚に、ミリィアは少し戸惑う。
(心配、しているのでしょうか。私が)
同僚への気遣いにしてはいささか様子がおかしい気がする。
それが何を意味するのか、彼女自身にも正しく言葉にすることができなかった。
窓の外、夜空には星が瞬いている。
ミリィアはしばらくその光を眺めた後、息をついて雑記帳を閉じる。
「早く、お戻りになればいいのですが」
呟きは誰に届くこともなく、しんと冷えた部屋の中に溶けていった。
数日後、ミリィアが温室で作業をしていると、見慣れない馬が薬草園の門前に到着した。
「ミリィア・ヴィスコンティ嬢に、お届け物です」
届けられたのは一通の手紙だった。
差出人の名は記されていなかったが、その筆跡には見覚えがある。
「アッシュさんから」
封を開けると、簡潔な文面が几帳面な字で綴られていた。
『王都での用事が思いのほか長引いている。落ち着き次第、必ず戻る。――アッシュ』
短い文面を、ミリィアは何度も読み返した。
まるでこちらの内心を見透かされたような一文に、ミリィアは少し落ち着かない気持ちになる。
同時に、その一言が思いのほか胸の内を軽くしてくれたことにも気づいていた。
「何、良い便りでも?」
通りかかったベルタが、茶化すように尋ねてくる。
「アッシュさんからです。用事が長引いているとのことで」
「ふぅん」
ベルタは意味深な目でミリィアを見つめたが、また研究棟へと戻っていった。
ミリィアは手紙を大切に折りたたむ。
(早く、お戻りになれば良いのですが)
先日と同じ願いを、今度は僅かな安堵を伴って胸の内で繰り返した。
薬草園の空には、変わらぬ夕陽が緩やかに沈んでいくところだった。
★
異変は、水面下で、そして遠回しに始まった。
「困ったことになった。今月分の、うちへの支援金だが」
王都から届いた書状に目を通しながら、ベルタが珍しく苦い顔をしていた。
「何か、問題でもありましたか」
「削減、だとさ。……理由は『財政の見直し』。まあ、よくある建前だね」
ミリィアが覗き込むと、そこには事務的な文言が並んでいるだけだった。
だが、ベルタの表情にはこれが単なる予算の都合ではないという確信がはっきりと浮かんでいる。
「こんな時期に、ですか」
「ああ。しかも、うちだけじゃない。似たような規模の魔術研究院やら考古院やらにも、同じ通達が回ってるらしい」
ベルタは、書状を机に叩きつけるようにして置いた。
「随分と、露骨なやり方だ。財務庁も」
それから数日、薬草園を巡る「小さな不運」は、まるで示し合わせたかのように次々と重なっていった。
いつも取引していた薬草の卸業者から、突然の値上げを通告される。
頼りにしていた運搬人足が急に他の仕事を優先すると言い出し、荷の到着が遅れる。
ギルドが定期的に受けていたはずの王都からの視察も、理由も告げられぬまま延期される。
「どれも、一つ一つは大した話じゃないんだけどねえ」
ベルタは、溜まっていく雑務の書類を前に深く溜息をついた。
「値上げも、遅延も、延期も、言われてみればまああり得る話さ。だが、これだけ立て続けに起きるとなると」
「誰かが意図的に動いているということでしょうか」
「さあね」
ミリィアは眉を寄せた。
直接的な脅しでも、暴力でもなく。
ただじわじわと、運営そのものを締め付けていくような、そんな圧力だ。
「だが、これくらいのことは想定の範囲さ。あたしも伊達に長くこの稼業をやってきたわけじゃない」
力強い言葉とは裏腹に、ベルタの目の下には以前より明らかに濃い疲労の色が滲んでいる。
資金繰りの算段、代替の取引先探し、王都への抗議の文書作成――目に見えない負担が着実に彼女の肩にのしかかっているのが分かった。
「何か、私にお手伝いできることはありますか?」
「あんたはあんたの仕事をしな。……こういう面倒な仕事は、あたしの領分だ」
ベルタは突っぱねるように言ったが、その声にいつもの覇気は薄い。
(誰かが私たちを、真綿で首を絞めるように追い詰めようとしています)
直接手を出せば、それは明確な悪意として糾弾の対象になる。
だがこれくらいの搦め手であれば、誰もはっきりと「これは嫌がらせだ」と言い切ることができない。
その狡猾さに、ミリィアは怒りを覚えた。
王妃の一件、呪術陣、そして今度は薬草園への圧力。
(アッシュさんが王都で何かを調べ始めたことと、この嫌がらせのタイミング)
だとすれば、この圧力は彼への警告――あるいは、彼を通じてこちら側に向けられた、間接的な脅しなのかもしれない。
夜が、いつもより少しだけ重く感じられた。




