第31話 母の遺品
王都での用事を終えた後、アッシュはひとまず残ることになった。
「少しこちらで調べたいことがあるんだ」
「わかりました。あまり無理はなさらないでください」
その言葉にいつもの飄々とした笑みで応じたアッシュを見送り、ミリィアは一足先に薬草園へと戻ることとなった。
ミリィアは温室の隅、いつもアッシュが作業をしている机の上に、見慣れない包みが置かれていることに気づいた。
古びた、丁寧な作りの布袋。
焦茶色の生地には、銀糸で細かく縁取られた紋様が控えめに刺繍されている。
持ち主が余程大切に扱ってきたのだろう。
生地の傷み具合の割に、紋様の部分だけは驚くほど色褪せていない。
「アッシュさんの忘れ物でしょうか」
王都に発つ前、慌ただしく荷造りをしていた際にうっかり置いていったのかもしれない。
ミリィアはそう当たりをつけながら、その紋様をしげしげと眺めた。
植物を模したような、どこか幾何学的な要素も混じった独特の紋様。
貴族の家紋にしては、いささか古めかしい様式に見える。
ミリィアはその紋様を隅々までじっと見つめた。
(この紋様……確かに見たことがあります)
いつ、どこで目にしたものかははっきりと分かっていた。
貴族名鑑の片隅。
当時のミリィアには深く記憶に留めるだけの興味がなかったため、当主の名や血筋の繋がりといった詳細までは引き出せない。
彼女の異能は見たものをそのまま写し取るだけで、意識を向けなかった文字情報の先を補ってはくれないのだ。
だが、紋様の形と家名だけは、他の記憶と同じように色褪せることなく頭の中に残り続けている。
(アウテレジア家の紋、ですね)
中身を確認すれば、現在の彼に繋がる何かが分かるかもしれない。
迷いながらも、ミリィアは『忘れ物の持ち主を確かめる』という口実でそっと袋の結び目を解いた。
中に入っていたのは、くすんだ銀の指輪と小さく折り畳まれた古い絵姿だった。
(アッシュさんについて、私は随分と多くを知らないままでいるようです)
アウテレジア家の紋章が入った袋を、なぜ彼が大切に持っているのか。
ミリィアは取り出した指輪と絵をそっと袋に戻し、結び目を丁寧に元通りにした。
中身を見てしまったことは正直に伝えよう。
そして、この紋様についてそれとなく尋ねてみようか。
そう考えながらも、ミリィアの胸の奥には、なぜかそれを急いで確かめたくないという彼女らしくない奇妙な躊躇いも燻っていた。
★
母の遺品は、王宮の奥深く、限られた者しか立ち入れない一室にひっそりと保管されていた。
「またおいでになられたのですね」
管理を任されていた老女官が、鍵を差し出しながら呟く。
アッシュがこの部屋を訪れるのは、これが初めてではない。
母の死の真相を探るため、これまでにも何度か足を運び、遺品を調べたことがあった。
だが、何が手がかりになるのか確証を得られないまま、いつも徒労に終わっていたのだ。
木箱の蓋を開けると、色褪せた衣装や装飾品の数々が横たわっている。
アッシュは迷いのない手つきでそれらを一つ一つ検分していった。
ミリィアと共に辿り着いた、飾り紋様にしかみえない旧ラサレイアの反転陣。
それが母の死に関わっているのなら、必ず身近な品の中に媒介となる陣が隠されているはずだ。
やがて底の方から一つの品を見つけ出す。
「これか」
古びたアミュレット。
街の行商人が売っていたものとは細部の意匠こそ違うが、不要な装飾を脳内で削ぎ落として見れば、ミリィアが描き起こした『反転したラサレイアの呪術陣』と似た構造が浮かび上がってくる。
これまで何度調べても、不審な点を見つけられなかった理由は、これだ。
ずっと疑い続けていた呪術の証拠は、こんな身近な装飾品に偽装されていたのだ。
アッシュはそれを手に取り、裏側を確かめる。
そこには文字が刻まれていた。
目を凝らすと、それは母の名ではなく――先王オズワルドの名だった。
(父上から、母上への贈り物……)
なぜ、母が大切に身につけていた父からの贈り物に、滅びた国の呪術陣が刻まれているのか。
突如として突き付けられた重い事実に、アッシュはしばらく動くことができなかった。
その夜、アッシュはこの発見を持って兄である現王・アルフレッドのもとを訪れた。
「父上から母上へ贈られた品に、旧ラサレイアの呪術陣が仕込まれていました」
玉座の男は机に置かれたアミュレットを一目見るなり、苦しげに顔を歪めた。
「まさか、ご存知だったんですか」
「……見覚えがある。ラサレイアが滅びた後、あの国から逃れてきた魔術師の一部を、父上――先王オズワルドが宮廷の目の届かぬところで庇護していた時期があった。当時、私はまだ幼く深くは知らなかったが……」
アルフレッドは疲れたように目を伏せた。
「表向きは異国の文化や技術への学術的な興味だと周囲には説明されていた。だが、力を持つ異国の術師を宮廷に招き入れることが、どれほど派閥の毒牙を刺激するか……父上は正しく理解していなかったのだろう」
「ならば、母上にこれを贈ったのも」
「恐らく、父上なりの寵愛の証だったはずだ。だが、その術師たちを裏で取り込む者が居たとしたら……」
アルフレッドの声には、苦い後悔が色濃く滲んでいた。
「私は当時から、父上のその熱の入れようを危ういと感じていた。だが……止める力もなければ、止めるべきだという確信すら当時の私には持てなかった」
「兄上が、悔いる必要はありませんよ」
「いや」
王は重々しく首を振った。
「王太后もまた、当時父上の振る舞いや周囲の不穏な動きに薄々気づいていたはずだ。だが、あの人は口を出さなかった」
「なぜ、でしょうか?」
「政の均衡が、あまりに危うかったからだ」
王は絞り出すように答える。
「当時、王家の実権は我が母上の生家――セイレイン家が大きく担っていた。父上のそなたの母への寵愛が過ぎれば、セイレイン家の立場を脅かしかねない。だからこそ黙殺することを選んだのだと思う」
「それが、母を見殺しにしたとでも仰りたいのですか?」
「見て見ぬふりをすることもまた一つの罪だと、私は思っている」
痛みを伴う告白に、アッシュは唇を噛み締めた。
「今はセイレイン家に代わって、ゴーシュが金の力で宮廷の均衡を奪いつつある。かつての均衡が崩れ、また新たな均衡が生まれようとしている、その狭間で」
アルフレッドは力強く拳を握りしめる。
「そなたの母上も、それらを取り巻く者達……も。恐らく、その均衡が崩れる過程で都合よく切り捨てられた駒の一つに過ぎなかったのだろう」
その言葉の重さに、アッシュは目を閉じた。
(母上も、もしかしたらミリィアの両親も)
それぞれが命を奪われながらも、根源にあるのは同じ醜い権力闘争。
事実を改めて突きつけられた瞬間、アッシュの中で確かな怒りの熱が燃え上がった。
「兄上」
「なんだ」
「私はもう、このまま市井に紛れているだけでは終われそうにありません」
その言葉に、アルフレッドは初めて微かに笑みを浮かべる。
「ようやく、その気になったか」
「兄上が望んでいたことでしょう」
「ああ。だが、無理強いはしたくなかった。……そなた自身がそう決断するまではな」
窓の外では夜の闇が深く沈み込んでいる。
アッシュの手の中で、先王オズワルドから母への贈り物だった古いアミュレットが鈍い光を帯びていた。




