第3話 毒薬令嬢と色褪せない記憶 ①
ミリィアの記憶の中で、一番古い場所は、いつも同じだ。
父の書斎である。
狭い部屋の壁という壁に、天井まで届く書棚が並び、隙間なく詰め込まれた本の背表紙が、幼いミリィアの目には、それだけで一つの景色のように映っていた。
宮廷医師という肩書きの父は、屋敷にいる時のほとんどを、この部屋で過ごしていた。
「父上、これは何の本ですか?」
「薬草の図鑑だよ。読んでみるかい」
まだ文字もろくに読めない頃から、ミリィアは父の膝の上で、その図鑑を眺めるのが好きだった。
意味は分からずとも、描かれた葉の形、根の断面、色とりどりの挿絵――それらを、ただ眺めているだけで、飽きることがなかった。
「この草、母上の花壇にあるのと似てる」
「ああ、よく気づいたね。似ているが、こちらは毒がある。母上の花壇のものとは、葉の裏の筋の入り方が、少しだけ違うんだ」
父は、そう言って、二つの絵を指差し比べてみせる。
幼いミリィアには、その微細な違いなど、到底覚えきれるものではないはずだった。
だが、次に同じ図鑑を開いた時、なぜかその筋の違いだけは、はっきりと目に焼き付いたまま残っていた。
母は父とは違って、書物にはほとんど興味を示さず、その代わり、屋敷の裏庭で花を育てることにいつも没頭していた。
「ミリィア、こっちにいらっしゃい」
花壇の前にしゃがみ込んだ母は、土に汚れた手で、ミリィアの頬をそっと撫でた。
「この花、綺麗に咲いたでしょう。ま、私は特別な力なんて、何もないのだけれど」
「母上は、いつもお花上手に咲かせるけど魔法が使えないの?」
「使えないわ。ただ、花が好きなだけ」
母は、そう言って笑った。
父の書斎の、静かで少し埃っぽい空気とは違う、土と花の甘い匂いに満ちた庭。
そこで交わされる、たわいのない会話の一つ一つを、ミリィアはよく覚えていた。
覚えていた、というより――忘れることが、できなかった。
誰かの顔も、一度読んだ本の挿絵も、庭で交わした些細な言葉も、ミリィアの中では色褪せることなく、そのままの形で残り続けた。
それが、他の人には備わっていない性質なのだと、幼いミリィアはまだ知らなかった。
父の書斎の匂いと、母の庭の温もりに囲まれて過ごしたその日々だけは――たとえ他のすべてを忘れてしまったとしても、決して失われることのない、確かな記憶として今も彼女の中に残っている。
★
薬草園での生活には、思ったよりすぐに馴染めた。
与えられた作業場は狭いながらも清潔で、棚には図鑑でしか見たことのない薬草標本がずらりと並んでいる。
ミリィアは赴任初日から、その標本を一つずつ確かめるのに夢中になっている。
異変に気づいたのは、赴任して翌日のことだった。
共同の作業室で、若い研究員たちが何やらひそひそと話し込んでいるのが目に入った。
ミリィアが通りかかると、会話がぴたりと止む。
「あ、いや、その」
「今のは、その別に君の話ではなくて」
若い研究員たちは気まずそうに視線を逸らした。
ミリィアは特に気にせず通り過ぎようとしたが、そこにベルタが割って入った。
「ああ、もういいよ、あんたたち。本人に直接聞かせてやんな」
「院長!?」
「ミリィア。あんた、自分がどう呼ばれてるか、知ってるかい」
ミリィアは首を傾げた。
「呼ばれ方、ですか?」
「『毒薬令嬢』だよ」
ベルタはあっさりと言った。研究員たちが揃って気まずそうに俯く。
「ゴーシュ卿のせがれと縁談が急に白紙になった上に、あんたの実の両親が――まあ、こういう言い方は好かないが――未だ解明されていない毒で亡くなったって話もそこそこ知られた話でね。おまけに本人が毒草に妙に詳しいと来た。噂好きの連中が放っておくわけがないさ」
「……なるほど」
ミリィアは特に気分を害した様子もなく、むしろ興味深そうに頷いた。
「面白い呼び方ですよね。『毒薬令嬢』って」
「面白いって、あんたね」
「褒められているわけではないのは分かっていますが、響きはそれほど悪くないんじゃないでしょうか?」
「そもそも、あんたが大臣の家に目をつけられたのだって、王都の図書館で司書をしていた頃の評判が発端だったんだろう? まあ、私もその評判を聞きつけて、目を付けたわけだけど」
ベルタがおどけたように続けると、ミリィアは、少し懐かしむように頷いた。
「ええ。学院を出た後、司書として王立図書館に勤めておりました。……蔵書の整理をしているうちに、毒物関連の書物にも随分と目を通す機会がありまして」
「『妙に博識な司書令嬢がいる』って噂になってねえ、それを大臣がどこかで耳にしたって寸法さ」
「随分と、遠回しな縁であの縁談は決まったのですね」
「まあ、貴族の婚姻話なんて大抵そんなものだろうね」
その様子を、作業室の隅で書類仕事のふりをしていたアッシュが、黙って見ていた。
両親の死因については、ミリィアはこれまで多くを語ったことがない。
誰かに問われれば「昔のことです」とだけ答え、それ以上は踏み込ませない。
単なる「昔の悲しい出来事」ではなく、いまだ正体の分からない毒による、説明のつかない死であることを、彼女自身は誰よりもよく知っていた。
だからこそ、毒草の一本一本をこれほどまでに丹念に調べずにはいられないのだということも。
アッシュはその横顔を一瞥し、それから静かに視線を書類へと戻した。
(両親を、か――)
脳裏をよぎった可能性に、彼はまだ気づいていない振りをした。
今はまだ、それを裏付けるだけの材料が、彼の手元には何もなかったから。




