第2話 麗しの遭難者
「お嬢さん、すみません。前が詰まってるみたいで」
御者台から声がかかり、ミリィアは本から顔を上げた。
窓から覗くと、道の真ん中に一台の荷馬車が斜めに傾いた格好で止まっている。
車輪の一つが外れかけているらしい。
その脇で、一人の男が難儀そうにしゃがみ込んでいた。
旅装束にしては小綺麗すぎる格好の男だ。
腰の道具袋には見覚えのある薬草採取用の鋏がぶら下がっている。
しかし手つきは荷馬車の修理に対してはどうにも頼りなく、車輪を睨みつけたまま「これは……いや、こうか……?」とぶつぶつ呟いている姿は、お世辞にも様になっているとは言い難い。
ミリィアは馬車を降りた。
「あの、大丈夫ですか」
男が顔を上げる。
年の頃は二十代半ばだろうか。
思わず目を奪われるほどの整った顔立ちをしており、蠱惑的とすら言える笑みを浮かべているのに、どこか気の抜けたような、摑みどころのない雰囲気をまとっていた。
普通のご令嬢であれば、その甘い美貌に見惚れてしまうところだろう。
だが、ミリィアの視線は彼の顔面を1秒で通過し、背後の歪んだ車輪へと向かった。
「ああ、いや。全然大丈夫じゃないな。見ての通りだ」
思ったよりあっさりとした返事に、ミリィアは少しだけ戸惑った。
王都の貴族たちの間では、このように明け透けな物言いをする人物はあまりいない。
ミリィアの家族は別として。
ヴィスコンティ家は、貧乏男爵家のため、どちらかというと市井の人間の方が近しいから。
「車軸が歪んでしまってね。俺一人じゃどうにもならないから、次の町まで人を呼びに行こうか迷っていたところだ」
「お荷物は何ですか?」
「薬草だよ。納品物だ。……、詳しいのか?」
男の視線が、ミリィアの手元――未だに握りしめたままだった植物誌――に向けられた。
薬草。
その単語だけで、ミリィアは心躍るような気持ちになる。
好奇心を押さえきれず、積み荷を覗き込むよう背伸びをしてしまう。
「車軸そのものよりも、その傾き方が気になります。右側の車輪だけ沈んでいるということは、荷が偏って積まれているのでは」
「どういう、意味だろうか?」
「ええと、薬草は乾燥具合によって重さが変わりますから、束ね方によっては積んだ直後は均等でも、時間が経つと片側に寄ることがあります。恐らくそちらの麻袋、乾燥が進んで軽くなった分が上に来ていて――」
言いながら、ミリィアは荷台の覆い布をめくって、中を検分し始めていた。
男が「あ、おい」と声を上げるのも構わず、束ねられた薬袋の山を一つ一つ確かめていく。
「――ほら、やっぱり。これ、モイユ草ですよね。乾燥が早い分だけ、こっちの束が想定より軽くなっていて、逆にこっちのムラサキハナゼリの根は水分を含んだままだから重い。荷の配分をやり直せば車軸への負担が変わって、もしかしたら――」
「待て待て、ちょっと待て」
男が慌てて止めに入る。
「可食部との誤認を防ぐための処理はしてあると思いますが」
「いや、そこじゃない。初対面の荷馬車を勝手に開けて、その中にムラサキハナゼリを見つけて、真っ先に出てくる感想が『重さの偏り』?」
「他に何かありますか」
「いや、なんというか……普通はもう少し身構えるとか、危ないから触らないとか、あるだろう?」
「毒草は正しく扱えば道具ですよ。危険なのは扱う人間の知識不足であって、草そのものではありません」
男はしばらく無言でミリィアを見つめていたが、やがて片手で顔を覆うようにして、小さく笑い出した。
「……っ、くははっ。なるほど、君が噂の」
「噂、ですか?」
「いや、こっちの話だ」
男は誤魔化すように立ち上がると、あらためて荷台の中を覗き込み、ミリィアの指摘通りに束を組み替え始めた。
「積み直せば、車軸の負担は多少軽くなるはずです。それでも歪みは戻りませんから、次の町までは速度を落として進んだ方が」
「わかった。……助かったよ、正直なところ」
男はそう言ってから、ふと思い出したように付け加えた。
「名前を、聞いてもいいだろうか?」
「ミリィア・ヴィスコンティです」
「ミリィア嬢、か。俺はアッシュ。アッシュ・レテだ。治癒師――の、なり損ないのようなものだがね」
「なり損ない、ですか?」
自嘲めいた言い方に、ミリィアは首を傾げたが、特に追及はしなかった。
「君はこれから、どこへ?」
「フェリカ薬草研究院に赴任することになっています」
アッシュの表情が、初めて分かりやすく固まった。
「まさか、あの薬草園に来る新任研究者っていうのは……」
「私のことかと思います」
沈黙。
それから、アッシュは唸るように深く長い溜息をついた。
「……それじゃあ、これからは同僚だな。よろしく頼む」
「アッシュさんも研究院の方でしたか。こちらこそ、よろしくお願いします」
この時のミリィアには、目の前の美貌で飄々とした青年が、単なる荷馬車の遭難者以上の何かであるとは、欠片ほども想像がついていなかった。
★
フェリカ薬草研究院は、ミリィアが想像していたよりもずっと広い。
石造りの塀に囲われた敷地の中に、整然と区画分けされた畑が広がり、その奥には温室らしきガラス張りの建物と、蔦の絡まった古い研究棟が並んでいる。
空気には、乾燥した薬草特有の、土と青臭さが混ざったような匂いが満ちていた。
ミリィアはその匂いを吸い込んだ瞬間、思わず頬が緩むのを感じた。
「良い匂いですね」
隣を歩くアッシュが、荷馬車の修理を終えたあとも、なぜか当然のようにミリィアに同行していた。
理由を尋ねると「どうせ同じ方向だし、院長への顔繋ぎがてら」とのことだった。
研究棟の入り口で、恰幅の良い初老の女性が出迎えてくれる。
「よく来た……で、なんでアッシュが一緒にいるんだい」
「道中、車軸が壊れて往生しているところ、声を掛けられたんだよ。院長」
院長と呼ばれたその女性がミリィアに手紙を送ってくれたベルタその人らしい――は、片眉を上げてアッシュを見た。
「へえ。珍しい出会いだ」
「俺にとっては行幸といったことろかな」
「それはなにより」
ベルタは笑うと、あらためてミリィアに向き直った。
「ともかく、歓迎するよ。ここじゃ猫の手も借りたいくらいだからね。部屋と作業場は用意してある。案内は――」
「せっかくここまで送ってきたんだ。俺が案内しよう」
アッシュが横から申し出る。
あまりに自然な口調だったので、ミリィアもベルタも、一瞬それを疑問に思う隙すらなかった。
「……まあ、いいけどね。アッシュは暇なのかい」
「今日はちょうど、納品物を届け終わったばかりだし」
「んじゃ、よろしく頼むよ」
ミリィアが用意されていた自室へと荷物を置きに行った後、研究棟の廊下には、ベルタとアッシュの二人だけが残された。
「貴方様が自分から案内役なんて買って出るなんて」
ベルタが探るように言うと、アッシュは肩をすくめて見せた。
「ただの親切心、かな」
ベルタはそれ以上は追及せず、書類仕事に戻るために踵を返した。
その背中が完全に見えなくなったのを確かめてから、アッシュは小さく息を吐いた。
先ほどまでの、どこか気の抜けたような、甘く掴みどころのない笑みが、音もなく顔から消えていく。
(ミリィア・ヴィスコンティ)
廊下の窓から差し込む光を受けて、アッシュの目がわずかに細められる。
面白がっているようにも、値踏みしているようにも見える色だ。
荷馬車の車軸が壊れたのは、正真正銘の偶然だった。
まさかそこで出会った物好きな令嬢が、あの噂の『毒薬令嬢』その人だとは、名乗られるまで思いもしなかった。
(荷の重さの偏りにしか興味を示さない、か)
噂というのは大抵、話半分に聞いておくものだとアッシュは思っている。
だが、実際に目の当たりにしたそれは、噂よりもよほど――使い出があった。
(これはとんだ拾い物をしたかもしれない)
婚約破棄も薬草園への赴任も、彼女にとっては単なる不運な采配だろう。
彼は自分の部屋の鍵を弄びながら、部屋から出て来たミリィアに向かって、柔らかな笑みを浮かべる。
そこには、先程浮かばせた表情の欠片も残っていなかった。




