第1話 第444号・破棄同意書
婚約破棄というものは、もっと劇的なものだと思っていた。
少なくともミリィアの読んできた本の中では、大抵、婚約破棄には涙と絶叫と、割れた食器の一つや二つが付き物だった。
ところが現実はというと。
教区の縁組み事務所、その一室。
書類仕事の匂いが染み付いた狭い部屋で、机を挟んで向かい合った初老の書記官が、手元の台帳に視線を落としたまま、淡々と告げた。
「――というわけで、本日をもって、ミリィア・ヴィスコンティ嬢とバルトロメ・ゴーシュ卿との婚約は、正式に白紙に戻ることとなります。双方の家より、既に署名は済んでおります」
書記官の言葉を聞き流しながら、ミリィアの視線は机の上に広げられた書類に向けられていた。
逆さまに置かれた文字の羅列、右端に飛んだ微小なインクの染み、用紙の隅に打たれた『第444号・破棄同意書』という管理番号まで。
視界に入った瞬間、それらは一枚の絵画のようにミリィアの脳裏に焼き付き、そして即座に興味の対象外として処理された。
彼女の興味を惹いたのは、書類ではなく、目の前に座る書記官の顔色の方だ。
(……眼球の縁が少し黄色く濁っている。それに、指先の細かい震え。独特の甘酸っぱい呼気の匂いは、おそらく南部の発酵酒を日常的に嗜んでいるせいね。肝臓がかなり疲弊している。こういう時は、干したリイジャの根に、ほんの少しのヨギリを混ぜて煎じるとよく効くのだけれど……)
相手が何者であろうか、そんなことはミリィアにとってはどうでもいいこと。
重要なのは、目の前の人間の内臓がどれくらい弱っているか、そしてそこにどの薬草を当てはめるかという、極めて物理的で実用的な事実だけだ。
婚約が白紙になった。
決定的な一言が部屋に響き渡った時、ミリィアが漏らした感想はただ一つ。
(あ、これで心置きなく辺境へ行けますね)
安堵である。
歓喜ですらなく、安堵。
バルトロメ・ゴーシュという名の男は、四十を優に超えてなお独身を通し、しかも最近になって、父である大臣の後ろ盾で急に羽振りが良くなったという評判の人物だった。
ミリィアはその人物と結婚しろと言われた時、正直なところ相手の人となりよりも先に「あの家の書庫には滅亡した旧ラサレイア王国領から流れて来た毒物関連の禁書が何冊かある」という噂の真偽の方が気になっていたくらいで、恋愛感情など初めから欠片もなかった。
もっとも、これが、初めから色恋沙汰に興味のない娘だったというわけでもない。
高等学院に通っていた頃、そして王立図書館で司書として働き始めた頃、ミリィアにも、人並みに、淡い好意を寄せた相手がいたことはある。
同じ職場の、少し年上の司書の青年。
物静かで、本の話をする時だけ、少し早口になる人。
彼が、自分の毒物や薬草の知識に興味を持ってくれた時は、素直に嬉しかった。
だが、この時の感情も、長くは続かなかった。
彼が本当に見ていたのは、ミリィア自身ではなく「毒に詳しい変わった令嬢」という、話のネタとして都合の良い珍しさだったのだと、ある日、彼が別の同僚に笑いながらそう語っているのを、偶然聞いてしまったから。
それ以来、ミリィアの中で、恋愛というものへの興味は静かに喪失していった。
誰かに好意を向けられても、その先に、また同じ失望が待っているのではないかと、身構えてしまう。
叶うなら、色恋沙汰とは金輪際関わりたくないし、そのようなものに現をぬかすくらいならば、薬草や毒草の採取に明け暮れたい。
研究と実験の日々。
――なんと甘美で魅惑的な日常だろうか。
だから、白紙に戻ると言われても、涙の一つも出てくるはずもない。
「こちらに、受領のご署名を」
書記官に差し出された書類に、ミリィアは特に躊躇うこともなく、すらすらと署名を済ませた。
あまりに手続きが淡々と進むので、事務所の隅に控えていた家令が、拍子抜けしたような顔をしていたほどだ。
ただ、屋敷に戻ってからは大騒ぎである。
「ミリィア……! ミリィア、大丈夫なの、辛くない!? 抱きしめさせて!」
義母のクラウディアが、目に涙を浮かべながら飛びついてくる。
続いて義父のエルロンドも、心底うろたえた様子で書斎から飛び出してきた。
「まさか、まさかあの話が白紙になるとは……いや、それより、ミリィア、お前は大丈夫なのか。傷ついていないか。あんなに贅沢な暮らしが約束されていたのに、それを棒に振らせてしまって、済まない、本当に済まない――」
「いいえ、お義父さま」
「お前が言い出しにくいと思って黙っていたが、正直、あの婚約話が来た時から、私はどうにも嫌な予感がしていたんだ。だが我が家の家計を考えると無下に断ることもできず……ああ、ミリィア、すまない、すまない」
義父はもう半分泣いている。
義母はミリィアの背を撫でながら「可哀想に、可哀想に」を繰り返している。
「お義姉様……っ、酷い男に捨てられちゃったの? かわいそうなお義姉様……!」
さらに義父母の足元から、小さな影が二つ飛び出してきた。
義弟のリオルと義妹のシエラだ。
まだ幼い彼等は、ミリィアのドレスの裾をきつく握りしめ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。
「リオル、シエラ。私は全く捨てられたなんて思っていないし、むしろ清々しているくらいなのだけど」
「うわぁぁん、お義姉様が無理して強がってるぅ……!」
この義理の家族たちは全員ともいい人なのだ。
良すぎるくらいに、いい人なのだ。
ミリィアはその点についてだけは、この十数年間、一度たりとも疑ったことがない。
なので、恐ろしいほど話が噛み合っていない。
(これは、説明しても無駄な感じかもしれませんね)
会話というものは、時に力業で押し切られる。
ミリィアは早々に「辛くない」と伝えることを諦め、代わりに腰に下げた小袋をごそごそと探った。
「シエラ、泣き止んで。そしてこれの匂いを嗅いでみて」
「ひっぐ……? なあに、これ。……うっ、なんか、湿った土と古い靴下を混ぜたみたいな匂いがする……」
「乾燥させたモルファの葉よ。匂いは最悪だけれど、高ぶった感情を強制的に鎮静させる作用があるの。自律神経に直接効くから。ほら、もう一度深く吸い込んで」
「すぅー……はぁー……。あれ? なんだか、急に涙が引っ込んできた……」
「ええ、いい子ね」
すんと鼻をすすり、ぽかんとしているこの家で一番幼いシエラの頭を撫でながら、ミリィアは大人たちに向き直った。
「お義父様、お義母様。私はそんなに辛くはないんです。それより、少し、ご相談したいことが。……前々から、お話をいただいていた件なのですが」
ミリィアは、ようやく静かになった空間で、懐から一通の書状を取り出した。
差出人は、辺境のフェリカ薬草研究院の院長――ベルタという名の人物だ。
「以前、王立図書館で、毒物関連の蔵書整理を担当していた際、院長のベルタ様の目に留まったようで。……人手が足りないので、興味があれば、うちで働かないか、というお誘いを、実はしばらく前から頂いておりました」
「――それは、初耳だが」
「今回のことがなければ、今しばらく、お返事を先延ばしにするつもりでした。ですが、ちょうど良い機会かと」
実のところ、ミリィアの返事は、既に固まっていた。
王都中に広まってしまった今回の一件のせいで、王都での嫁入り前の貴族令嬢としての居心地は、これから、悪くなる一方だろう。
それに何より、ベルタの誘いの文面には、辺境一帯に自生する、希少な薬草や毒草の記述が、これでもかというほど、詳細に書き連ねられていた。
(あの一帯には、王都では手に入らない薬草が、随分と自生していると聞きますし)
婚約破棄。
辺境行き。
傍目にはどう見ても不幸な話のはずなのに、ミリィアの心は、既に、その申し出への期待で、静かに弾んでいた。
「お義父様、お義母様。……この機会に、辺境の薬草園で、しばらく働かせていただこうと思います」
「フェリカは王都から馬車で五日もかかるんだぞ!? そんな、危ないところに」
「バルトロメ様のお父上であられるゴーシュ卿の目も届かない、静かな場所です。むしろ、王都からはかなり離れているくらいが、ちょうど良いかと」
その落ち着いた物言いに、義父母は、しばらく顔を見合わせていたが、やがて、力なく頷いた。
「――お前が、そこまで、決めているのなら」
「はい」
あまりにも即答したものだから、義母は逆に何やら言いたげな顔でミリィアを見つめたが、結局それ以上は何も言わなかった。
こうして男爵令嬢ミリィア・ヴィスコンティは、婚約破棄からわずか二日後、家族総出の見送りを受けながら、辺境行きの馬車に乗り込むことになった。
誰も彼女の本心には気づかないまま。
※※※
新連載はじめます。完結保障あり!
宜しければお付き合いください☆




