第29話 旧ラサレイアの遺物
ミリィアはあの露店で見たアミュレットの模様が、どうしても頭から離れずにいた。
「少し、描き起こしてみようと思います」
作業机の隅、雑紙を広げ、記憶を頼りに刻まれていた模様を丁寧に描きはじめる。
「そんなに正確に再現できるのか……相変わらず凄まじいな」
アッシュが、驚いたようにミリィアの手元を覗き込む。
ミリィアのペン先は、迷いなく線を重ねていく。
幾何学的な図形が幾重にも入れ子になった、複雑な文様だった。
「そういえばマリーナという花。あれはこの国の固有種ではありません」
描きながら、ミリィアがふと思い出したように口を開いた。
「東方の、古い魔術研究で知られる国とは。やはり旧ラサレイアのことでしょうか」
「待て、ラサレイアって……マリーナの花がラサレイアから持ち込まれたと?」
「いえ、そういう記載は無かったのですが、東方の古い魔術研究と言いますと、ラサレイアくらいしか思い浮かばず……」
ミリィアは手を止めることなく模様を描き進めていった。
やがて、最後の一筆を引き終えた瞬間、彼女の手がぴたりと止まる。
ミリィアは視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「――これ……やっぱり……旧ラサレイアの呪術関連の書物にあった図です。詳しい内容までは当時の私には理解できませんでしたが、挿絵だけははっきりと覚えています」
ミリィアは紙の余白に、記憶の中の記述をそのまま書き起こし始めた。
「『対象の生命力を、緩やかに他へ移し替えるための呪術陣』」
その一文に、アッシュの表情が明らかに強張った。
「――生命力を、移し替える」
「『対象となる相手の生命力をごく緩やかに吸い上げ、別の何かへと移していく効果がある』」
「何か、というのは」
「そこまでは記述がありませんでした」
ミリィアは、描き上げた図と記憶の中の文献の記述を交互に見比べた。
「これが単なる装飾ではなく、本当に相応の効果を持つ呪術陣だとすれば……薬効を緩やかに効かせ続けるためにも応用できそうですね。……毒物にも、恐らく」
(生命力を、移し替える、か)
「――アッシュさん、以前、このような文様を見たことは」
「……分からない。どこかで見たことがあるような気もするんだが」
ラサレイアの呪術陣なら、彼にとっては身近な物だ。
毒物以外で緩やかに人を死に至らしめるなどといった悪意ある術は、呪術大国であったラサレイア滅亡以降、幾つも流失している。
この辺境の地あたりでも、呪い札としても見る機会はそれなりにある。
アッシュが、市井に身を隠す地として、この地を選んだのは、ラサレイアの呪術に関して研究する為でもあった。
とはいえ、少なくとも彼の知る陣と、ミリィアの描き上げた紋様と共通するものはすぐには思い浮かばない。
首を傾げるアッシュに、ミリィアはペン先で図形の一点を指し示した。
「すぐには思い当たらないのも無理はありません。露店で見たアミュレットの模様は、この陣を『鏡合わせ』に反転させたものだったんですよ」
「反転、だと?」
「はい。その上で、視覚を惑わすための無用な装飾の線が、複雑に絡み合っていました。一見しただけでは、ただの紋様にしか見えないように意図的に偽装されていたのです」
ミリィアはこともなげにそう言う。
「不要な線を省いて、核となる陣だけを抽出して反転させると、こうして古い文献の図と一致したというわけです」
「……なるほどな」
アッシュは、喉の奥で低く唸った。
(反転させ、さらに装飾で偽装されていたとしたら、いくら俺が詳しくても、一目見ただけでは気づかなかったわけだ。……それにしても、それを一瞬で脳内で解体して再構築するとは)
改めて、目の前の令嬢の持つ『記憶力』という異能の底知れなさに舌を巻く。
「うーん。もう少し詳しく調べる必要がありそうですね。ラサレイアですか……興味深い国ですよね……となると、あのアミュレットが本物であるかどうかも、確かめたいところです。行商人さんは、もう出発してしまったでしょうか」
「探してみよう」
★
行商人が街を発つ前に捕まえられるか、それは賭けに近かった。
「もう、発ってしまったかもしれませんね」
ミリィアとアッシュは、急いで街へと取って返した。
幸い、行商人はまだ市場の外れに荷馬車を止めたままだった。
次の街へ向かう支度をしている最中だったらしい。
「――おや、お二人さん」
「あのアミュレットのことで、少し伺いたいのですが」
ミリィアがそう切り出すと、行商人は意外そうな顔をした。
「ああ、あれかい」
「あれをどちらで手に入れられたのか伺えますか。出来れば譲っていただきたいのです」
行商人は少し考える素振りを見せた後、荷台の隅からあのアミュレットを取り出した。
「――正直に言うとね、詳しいことは知らないんだよ。卸元から聞いた話じゃ、ラサレイアの遺物がこういう形で色々と流れてきているから。ま本当にラサレイアのものかもわからんのだけど」
三十年ほど前、大陸東方で内乱により滅びたという古い魔術大国の名だ。
子供でも歴史の授業で一度は耳にする程度には、よく知られた国名である。
だからこそ、ミリィアもアッシュも、その名を聞いたこと自体には驚きはなかった。
「魔術に絡んだ品は特に、この手の筋で扱われることが多くてね」
「例えばなんだが――その国の生き残りについて、何か耳にされたことはあるか」
アッシュが、抑えた声で尋ねる。
行商人は顎を撫でた。
「さあ、な。ただ、その手の呪術に通じた者を、当時随分と熱心に囲い込んでいた貴族がいた、という噂だけは聞いたことがあるよ」
その一言に、二人の間に微かな緊張が走る。
「ま、老いぼれの記憶ならぬ、流れ者の記憶なぞ当てにはならない」
行商人はそう言って笑いながら、この手の品を専門に扱う王都の裏通りの骨董商についてだけは、心当たりがあると教えてくれた。
行商人からアミュレットを買い取ると、二人はしばらく無言のまま、来た道を戻り始めた。
「はあ、王都の骨董商……ですか。王都……帰ってきたばかりなのに」
ミリィアが、独り言のように呟く。
「気になるか」
「はい。あの陣が本当に何かの効果を持つものなのか。……単純に、確かめてみたいという気持ちが強いです」
未知の謎を前にした探求者として。
「ただ、正直なところ、王都までまた出向く時間が取れるかどうか」
「その点は、俺が何とか都合をつけよう」
「アッシュさんが、そこまで気にかけてくださるとは」
(ラサレイアの呪術に通じた者を囲い込んでいた貴族、か)
アッシュはこれまで、母の不審な死を『未知の呪術』によるものだと疑い、長年調べを進めては完全に行き詰まっていた。
どんな呪術の記録と照らし合わせても、決定的な証拠が見つからなかったからだ。
一方のミリィアは、両親の死を『未知の毒』だと疑い、毒草の知識を総動員しても答えが出ずに行き詰まっていたという。
もし、その二つが巧妙に組み合わさっていたのだとしたら。
主たる死因は、いかなる名医にも見抜けない、極めて致死性の低い微量な『毒』。
そして、その微弱な毒を確実に効かせ続け、静かに命を削り取るための補助として『生命力を移し替える呪術』が裏で使われていたのだとしたら。
確証は何もない。
ただの当てずっぽうの疑いに過ぎないのかもしれない。
それでも、互いに行き詰まっていた道の先を照らすかの如く、恐るべき完全犯罪の輪郭が浮かび上がったこの可能性を、アッシュはそう容易く振り払うことができずにいた。




