第28話 辺境への帰還
原因となっていた寝室の環境と『マリーナの蜂蜜』から遠ざけるため、王妃は気分転換という名目で王宮から移された。
移転先は、現王直轄の近衛騎士団が幾重にも警護を敷く『白亜の離宮』。
ゴーシュの息がかかった者たちでは、門を潜ることすら叶わない絶対的な安全地帯である。
環境隔離の効果は覿面だった。
王妃の顔色は、以前よりも確かに明るくなっている。
「だいぶ良くなられたようで何よりです」
「食事も随分と気持ちよく喉を通るようになりました」
寝台に半身を起こした王妃は、柔らかく微笑む。
「子も、随分と元気に動くようになった気がします」
王妃は愛おしげに、自身の腹へとそっと手を添えた。
「あなた方には、返しきれぬほどの恩がありますね……」
「宮廷医師団の皆様のお力があってこそです」
「ふふ、ミリィアさんが随分と謙遜する性分なのは、もう分かっていますよ」
王妃は悪戯っぽく笑うと、傍らに控えていた侍女に耳打ちした。
侍女はすぐに小さな包みを一つ持ってきて、ミリィアに差し出す。
「大したものではありませんが、受け取ってください」
包みの中には上等な茶葉と、王妃自らが選んだという可愛らしい意匠の栞が収められていた。
「王妃様」
「礼などいりません。ただの私の気持ちです」
ミリィアは戸惑いつつも、素直に深く頭を下げる。
「ありがたく頂戴いたします」
王妃の穏やかな笑みを見ていると、この一連の出来事が少なくとも一つの形として良い方向へ着地したことを実感する。
母体も胎児も、致命的な状態に陥る前に凶刃から引き剥がすことができたと言えよう。
だが同時に、アッシュの中にはまだ終わっていない重い問いが黒い澱のように残り続けていた。
(この毒を持ち込んだ、その『先にいる者』をどうにかしなければ、根本的な解決にはならない)
昏い思いを微塵も表情には出さず、アッシュはいつもの飄々とした笑みを浮かべたまま王妃への辞去の礼をとる。
★
王妃の容態が落ち着いたことを受けて、フェリカ薬草研究院の一行にはひとまず辺境への帰還の許しが出た。
「やっと帰れますね! まあ久しぶりの王都で楽しかったけれど」
王都を発つ馬車の中、トビアスが心底ほっとした様子で背伸びをする。
「随分と長い滞在になりましたね」
「はい。……ですが、まだ解決したわけではありません」
ミリィアが呟くと、トビアスは意外そうな顔を向けた。
「王妃様のお体は確かに落ち着かれましたが、これを引き起こした側の思惑や悪意が宮廷から消え去ったわけではありませんから」
その言葉に、向かいの席のアッシュも無言で首肯する。
「しばらくはこれまでの記録と証拠を整理する時間にしよう。急いで動いて、こちらの手の内や気づいていることを相手に悟られるのは得策じゃないしな」
「そうですね」
ミリィアは窓の外に流れる景色を眺めながら、細く息を吐き出した。
王都での日々は、想像以上に多くのものを彼女にもたらしていた。
両親の死の真相に近づく、思いがけない手がかり。
そして――いつからか、単なる同僚とは呼べないほど絶対的な信頼を置き、背中を預けつつあるアッシュという存在。
馬車は因縁渦巻く王都を離れ、見慣れた辺境の道を粛々と進んでいった。
★
フェリカの街を見下ろす小高い丘に位置する薬草研究院に着くと、ベルタがいつものように煙管を咥えた仏頂面で出迎える。
「ずいぶんと長旅だったねえ」
「ご心配をおかけしました」
「王妃様の件は聞いてるよ。よくやったじゃないか」
素っ気ない労いの言葉に、ミリィアは控えめに微笑んだ。
「ベルタ様のおかげでもあります。ジオーグ殿という、良い協力者にも恵まれましたので」
その名を聞いた瞬間、ベルタの表情が僅かに動く。
「ジオーグ、だって?」
「はい。薬品保管庫の管理官をされている方です。父の兄弟弟子だと伺いました」
ベルタはしばらく押し黙った。
「……あいつ、まだあそこにいたのかい」
その物言いには、単なる旧知の間柄以上の複雑な色が滲んでいる。
ミリィアは思わず首を傾げた。
「ご存じなかったのですか?」
「あれ以降、謹慎していたはずなんだが……謹慎がとけてどうしたんだったかな。まあ、あたしも宮廷医師を辞してこっちに来ちまったしねえ。どうもこの年になると物覚えが悪くて良くない」
その一言に、ミリィアは驚きに目を瞬かせた。
「ベルタ様も……宮廷医師だったのですか」
「今更隠すのもおかしな話だ」
その事実は、ミリィアにとって初めて明かされるものだった。
「驚きました」
「ミリィア。あんたの噂を聞いた時に、エルラインの娘だろうと直感したんだよ。目元がよく似ている」
ベルタは遠くを懐かしむように目を細めた。
「……色々と積もる話もあるけれども。とりあえず今は、旅の疲れを癒すのが先だ」
その言葉を最後に、ベルタはいつもの調子で研究棟へと踵を返す。
「手繰り寄せようと思わない間に……色々なことが本当にいつから……」
ミリィアは呟きながら、珍しく疲れたように息を漏らした。
その横で、アッシュもまた同じ思いを噛み締めている。
因縁の周りに、まるで何かの引力に引かれるように集められている。
だが、その強固な繋がりの中心に『自分自身の母の死』が横たわっていることを、アッシュはまだ隣の彼女に口にすることができずにいた。
★
事件は、些細なところから始まった。
「あ」
温室での作業中、うっかり手元を滑らせたミリィアは、調合中の薬液を自分の一張羅ともいえるローブに盛大にぶちまけてしまう。
「随分と豪快にやったな」
駆けつけたアッシュが、焦げた跡の残る布地を見て苦笑する。
「強酸性の成分が入っていましたので。……これは、もう着られませんね」
「君の持っているまともな服は、それくらいしかなかっただろ」
「そうですね。新しいものを見繕う必要があります」
王都の品はいずれも価格が高いが、辺境にあるフェリカの街ならば手頃なものを手に入れることが出来るだろう。
そんな折、ちょうどベルタが顔を出した。
「お、近くの街まで行くのかい」
「行くことになりそうです」
「ならついでに頼まれてくれないか。ギルド宛の薬包紙の在庫が切れそうでね。道具屋でまとめて仕入れてきてほしいんだよ」
こうして、ミリィアとアッシュは連れ立って街へ出向く運びとなった。
街はいつも以上に賑わっていた。
市が立つ日らしく、通りには露店がずらりと並んでいる。
「服屋は確かあの通りの奥だ」
アッシュがそう言って、自然な仕草でミリィアの歩調に合わせて隣を歩き始めた。
人混みで道が狭くなると、さりげなく身を寄せて彼女を人波から庇うように誘導する。
荷物を持とうとすれば、いつの間にか横から取り上げられている。
「アッシュさん、荷物は自分で持てます」
「重いものじゃないし、俺が持つ」
服屋での買い物を済ませ、道具屋でベルタの頼まれ物を受け取った後、二人は市の露店が並ぶ通りをぶらぶらと歩いていた。
「お嬢さん、そこの兄さん! ちょいと見ていかんかね!」
声をかけてきたのは旅装束の行商人の男。
台の上には、雑多な小物――護符、飾り石、古びた指輪などが所狭しと並べられている。
「これなんかどうだい。異国渡りの護符でね」
ミリィアの目がその中の一つに留まる。
古びた、鈍い色合いのアミュレット。
他の量産品めいた品々とは明らかに違う、重い雰囲気を纏っている。
「ああ、それかい。実はね、いわく付きの品なんだが」
行商人は声を潜め、勿体ぶった調子で語り始めた。
「なんでも昔、身分を偽っていた貴人の持ち物だったとか、なかったとか。……まあ、御伽噺みたいなもんさ。こういう露店の話は、話半分に聞いてくれりゃいい」
行商人は快活に笑い飛ばす。
だが、ミリィアがそのアミュレットに手を伸ばした瞬間。
ほんの一瞬、指先に微かな痺れのようなものが走った。
「っ」
ミリィアは手を引っ込めながら、アミュレットをじっと見下ろした。
(ただの飾り物ではない気がします。何か微弱な魔力の痕跡が)
それが単なる気のせいなのか、それとも行商人の語った「いわく」に幾ばくかの真実が含まれているのか、この場では判断がつかない。
「買うのか?」
「いえ、今日は見るだけで」
ミリィアが答えると、行商人は残念そうな顔をした。
露店を離れながら、アッシュが教会の尖塔を見やりつつ唐突に口を開く。
「そういえば、ミリィアは自分の魔力属性を判定されたことはあるか?」
「属性、ですか」
「ああ。貴族の子女であれば、通常幼い頃に判定を受けるものだろ」
ミリィアは記憶を探るように視線を宙に彷徨わせた。
「判定を受けた覚えがあります。ただ、結果は大したものではありませんでしたよ」
「無属性、ということか」
「……魔力量自体も微々たるものだったようで。それ以上詳しく調べられることもありませんでしたし。私もあまり興味が無かったので」
その答えに、アッシュは密かに頷く。
(やはり、無属性か)
水、火、土、風、光――この世界に存在する五つの属性は、いずれも高位貴族の血に多く宿るとされている。
現王は水、アッシュ自身は光というそれぞれに希少な属性を持つ身だ。
一方、無属性はそのどちらにも属さないいわば「はずれ」の分類として扱われている。
その殆どは魔力はある程度有しているというレベルだ。
ただしその中でもごく稀に、対象に新たな生命の兆しを生じさせる特別な力。
俗に聖女の慈愛と呼ばれる力を宿す者が生まれることがあった。
(だが、ミリィアの力はそれとも明らかに違う)
彼女の異能は、見たものや読んだものをそのまま写し取ったように記憶するという極めて特殊な性質のものだ。
花を蘇らせることも、傷を癒すことも彼女にはできない。
ただ、忘れない。
それだけの力。
聖女の慈愛とは根本的に異質な、しかし確かに無属性という枠の中にあるもう一つの特異な異能。
「属性というものも、奥が深いものだと感心してな」
「そうですね。私のように、これといって目立つ力のないものもいます」
ミリィアはあっさりと微笑を浮かべた。
自分の力が、実は極めて希少な部類に入るものだとは欠片も気づいていない様子である。
(いずれ、ミリィアにすべてを伝えなければならない日が来るのだろう)
だが、それは今日ではない。
そう胸の内で反芻しながら、アッシュは胡乱げな表情を隠した。




