第27話 マリーナの蜂蜜
マリーナの蜂蜜を、王妃への献上品そのものから調達して検証するわけにはいかない。
「同じ養蜂地から出ている品を、市場で扱っている商人がいないか探してみますか」
トビアスがそう申し出て数日をかけて調べ上げた結果、高級食材取扱店で、同じ領地の名を冠した『マリーナ』の蜂蜜が実際に売られていることが分かった。
「最高級品を謳っているだけあって、かなり値が張りますが」
「構いません。買いましょう。きっと経費になります」
手に入れた小瓶を、ミリィアは温室に持ち帰り、早速検分に取り掛かる。
同じ頃、ミリィアはもう一つの手も打っていた。
「――お許しはいただけないでしょうから、こっそり失礼します」
あの結界の張られた庭にそっと忍び込み、マリーナの花から花粉を丁寧に採取する。
二度と近づくなと釘を刺されていたが、彼女が今は静養中で不在であることを幸いに、ミリィアは手早く作業を済ませた。
(後で、きちんと謝りますから……)
そう心の中で言い訳をしながら、採取した花粉を温室に持ち帰ると、ミリィアは針を取り出し、迷わず自らの指先に深く突き立てた。
小さな痛みと共に、赤い雫が滲む。
そこに、集めた花粉をごく僅かに擦り込んだ。
腫れるか、熱を持つのか、それとも――。
しばらくすると、傷口からの血がなかなか止まらないことに気づいた。
普段の小さな傷ならすぐに固まるはずの血が、じわじわといつまでも滲み続けている。
痛みも鋭いものではなく、鈍く絶え間なく続く類のものだった。
その時、様子を見に来たアッシュが、血の止まらない指先を見て血相を変えた。
「――何をしてるんだ!」
「花粉に、血液の凝固を阻害する成分が含まれている可能性を、身をもって確認していました」
「前に、俺の前では二度とするなと言ったはずだ! なぜそうやって、自分の体を粗末に扱うような真似ばかりするんだ。いい加減にしろ!」
ギリッと奥歯を噛み締めるような、激しい怒声だった。
アッシュの瞳には、かつてないほどの鋭い怒りと、焦燥が入り混じっている。
その剣幕に、ミリィアは思わず言葉を詰まらせた。
(……本当に、怒っていらっしゃる)
研究に没頭するあまり、周囲から呆れられることには慣れている。
だが、こうして『自身の身の安全』を理由に、ここまで本気で声を荒げて怒られたのは、いつ以来だろうか。
引き取られたヴィスコンティ家の養父母も、もちろん優しく気遣ってはくれる。
けれど、血の繋がらない、ましてや単なる同僚でしかないはずの他人に、ここまで必死に心配されるというのは――なんだかひどくくすぐったくて、胸の奥がむず痒くなるような、未体験の感覚だった。
不可解な戸惑いを覚えつつも、ミリィアは彼をここまで焦らせてしまったことに、確かな申し訳なさを感じる。
「……ごめんなさい。ですが」
アッシュは、ミリィアの指先を止血しながら低い声で問う。
「で、結果は」
「ご覧の通りです。致死性はありませんが、血が止まりにくくなる作用がある。恐らく、根や新芽の毒性とはまた別の性質のものです」
痛いほど指先を圧されているにも関わらず、一向に止まらず、血の滲みが広がる指先を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「あの……王妃様は今、ご懐妊中でしたね」
「ああ」
「もし、この花粉の混ざった蜂蜜を産月まで摂り続け、血が固まりづらい状態でお産を迎えられたら……どうなると思いますか?」
その言葉の意味を理解した瞬間、アッシュの顔から血の気が引いた。
「血が止まらず……失血死する」
「はい。そして恐ろしいことに、それは毒殺ではなく『不幸な難産』として処理されます。いかなる名医にも、毒だとは証明できない完全な暗殺です」
あまりにも狡猾で悪辣な狙いに、空気が凍りついた。
アッシュは何か言いたげに強く拳を握りしめたが、声を荒げることはなかった。
ただ黙って清潔な布を取り出し、ミリィアの指先にきつく処置を施した。
「――次からは、先に言え。せめて、俺がいる時にしろ。俺が君の人体実験に付き合う」
「ありがとうございます――?」
ミリィアの返事に、以前のような適当な軽さはない。
一方、市場で買い求めた蜂蜜の検分からも同様の結果が出た。
マリーナの花粉が、蜜の中にごく微量に混入している。
単体では健康な人間に害のない量だったが、これが日常的に継続して摂取され続けた場合の影響は別の話だった。
残るは、王妃の食事内容そのものの確認。
ジオーグの伝手でこの数ヶ月分の献立記録を手に入れると、ミリィアはそれを丹念に読み込んだ。
「食後の甘味、菓子、それにこの蜂蜜を使った飲み物。……毎食、必ず何かしらの形で蜂蜜が添えられています」
「体を労わるため、という名目だろうな」
「そう説明されれば誰も疑わないでしょうね……」
ミリィアは、記録の日付を指でなぞった。
「これほど継続して過剰な糖分を摂り続ければ、動悸やめまい、肝臓への負担を引き起こしても不思議ではありません。……ご懐妊中の体には、なおのこと負担が大きいはずです」
「毒、というより」
「はい。過剰な糖分そのものは、毒とすら呼べません。ただの嫌がらせ、あるいは病弱に仕立て上げるための陰湿な手段です」
その分析に、資料整理を手伝っていたジオーグが静かに口を挟んだ。
「随分と、手慣れたやり口ですね。まるで、以前にも同じような手口を使ったことがあるかのような」
その一言に、ミリィアが顔を上げた。
「緩やかすぎる進行は、かえって周囲の目を欺きます。『奇病』として片付けられた一件もありますし」
ジオーグは言葉を選びながら、慎重に続けた。
「仮に、かつて暗殺で使われた『殺すための濃い毒』が、途中で気づかれかけるという思わぬ弱点を孕んでいたのだとしたら。……その反省から、『殺さず、ただ弱らせて、産褥死という自然な事故に見せかけるための薄い毒』を新たに編み出した、という流れも考えられます」
その恐るべき推測に、ミリィアはごくりと唾を飲み込んだ。
同じ花から作られたかもしれない毒物。
だが、目的によって使い分けられた濃度。
かつては命を奪うために?
今は、誰にも気づかれないままじわじわと弱らせ、完全犯罪を遂行するために。
「色々と――繋がって、いるのかもしれませんね」
ミリィアが呻くように呟いた。
それからふと、思い出したようにジオーグへと視線を向けた。
「――ジオーグ様は、こうした事件の筋道を読み解くのが本当にお上手ですね。おかげで随分と話が整理できました」
ジオーグは少し照れたように笑った。
「なに、長年こういう権力闘争の傍に燻っておりますと、多少は勘所も養われるものです。お役に立てているなら何よりです」
「心強いです。今後も、お力添えをお願いできればと」
「もちろんです」
だが、アッシュはミリィアの背後からジオーグを観察していた。
(ジオーグ殿は、本当にただの閑職の管理官なのか?)
ジオーグの語り口の端々に滲む『毒殺の歴史』や『宮廷の裏事情』への理解の深さは、単なる書庫番の域を時折、僅かに超えているように感じられた。
それを、母を失った過去を持つ自分だからこそ、敏感に感じ取ってしまうのかもしれないが。




