第26話 甘い罠
深夜、借り受けている宮廷官舎の片隅で、ミリィアは空を睨みつけたまま微動だにしなかった。
眉間には深い皺が刻まれている。
ペンは止まって久しいが、その頭の中では、これまで集めてきた情報――王妃の問診結果、苦味の喪失、生家の研究記録、ゴーシュの娘の力――が、猛烈な勢いで組み合わされては崩れ、また組み合わされていた。
(食後に強まる鈍痛……肝への負担……苦味の喪失。症状の辻褄は合う。でも、あの『花の根』や『新芽』を、どうやって食事に混ぜて継続的に摂取させているのでしょう? 警戒の厳しい王妃様の食事に、直接毒を盛るなど不可能なはず――)
「――ミリィア」
部屋の外を通りかかったアッシュが、灯りの点いたままの部屋に気づき、顔を覗かせた。
「まだ起きてたのか」
返事はない。
ミリィアは、僅かに眉を寄せただけだった。
「――おい、ミリィア」
「……ん」
生返事だ。
目の焦点は、明らかにこの部屋のどこにも合っていない。
「根から離れた場所に、毒を移す経路があるとすれば……蒸留か、あるいは別の生物を介した」
ぶつぶつと呟く声は、誰に向けたものでもなかった。
アッシュはしばらくその横顔を眺めていたが、やがて小さく息を吐き、部屋の中に入って卓上の湯冷ましの支度を始めた。
「根を詰めすぎだ。少し休め」
「……甘いものが」
「――ん?」
「頭を、使いすぎました。……甘いものが、欲しいです」
その声はほとんど独り言に近かった。
焦点の合わない目のまま、ミリィアはぼんやりとそう呟いた。
アッシュは一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに小さく笑って、卓上に置かれていた小瓶――紅茶に添えるための蜂蜜――に手を伸ばした。
「少し待ってろ」
小さな匙で掬った黄金色の蜂蜜を、アッシュはごく自然な手つきで、ミリィアの口元へと運ぶ。
「ほら」
「……ん」
促されるまま、口を僅かに開けた。
差し出された匙の中身を、ほとんど無意識のうちに口に含む。
とろりとした甘さが、舌の上に広がる。
それだけで、張り詰めていた集中がほんの僅かに緩んだ。
「……美味しいです」
「それは良かった」
アッシュはそう言いながら、もう一匙、蜂蜜を掬った。
まるで雛鳥に食事を与えるような、危なげのない手つき。
その光景の異様さに気づいていたのは、アッシュ自身だけだった。
彼は自分がしていることの意味を、途中でふと自覚した。
(いや……俺は、何を当然のようにしてるんだ)
気恥ずかしさに似た感情が僅かに込み上げる。
いつだって冷静に世情を俯瞰するように見てきた自分が、無意識にこの令嬢を甘やかし、世話を焼いている。
だが、軽く頭を振ると、アッシュは三匙目を差し出した。
ミリィアはそれをまた口に含み――そして不意に、動きを止めた。
「あれ?」
舌の上に残る、蜂蜜の風味。
ふと、その出所が気になった。
「アッシュさん、この蜂蜜は、どちらの産でしょうか」
「さあ。王宮の備品だから、それなりの品なんじゃないか?」
「蜂蜜というのは……蜜蜂に、特定の花の蜜だけを集めさせて作る専門の生産方法がありますよね」
「ああ、それが何か」
ミリィアの目に、急速に理知的な焦点が戻ってきた。
「植物の毒成分は、繁殖のための器官である花粉や蜜腺に濃縮されるケースが少なくありません。父の残していた記録からは『根と新芽』の記述しか確認できていませんが、それはあくまで父が検証できた範囲の話です」
言葉を紡ぐほどに、彼女の中の学術的な探究心に火がついていく。
「もし、あの花の花粉そのものに未知の遅効性毒が含まれていて……それを蜜蜂が集め、『蜂蜜』という形で濃縮させていたとしたら?」
その可能性に思い至った瞬間、ミリィアの手から雑記帳が滑り落ちた。
「アッシュさん、花粉と蜂蜜です! これまで根や新芽を直接加工する経路しか考えていませんでしたが、もっと単純で、誰も毒だと疑わない日常的な食材が見落とされていたのかもしれません。すぐにあの庭へ向かい、花粉を採取して成分を検証しましょう!」
アッシュは匙を持ったまま、しばらく呆然としていた。
数瞬前まで無自覚に小鳥のように甘えて蜂蜜を口にしていた彼女の、研究者としての変わり身の早さに、思わず乾いた笑いがこぼれる。
「――随分と唐突な閃きだな」
「唐突ではありません。今、口にしたものから道筋が繋がっただけです。花粉の検証を急がなければ」
「全くだ。だが、今から王太后の結界を破って花粉を採取しに行くのには賛成できないな」
アッシュは匙を置くと、真剣な面持ちに戻った。
「まずは、王妃様のもとに怪しい蜂蜜が献上されているかどうかを確認するのが先だろ」
「はい……それに、この可能性が正しければ、贈り主の素性を洗う方が確実な手がかりになるかもしれません」
その言葉に、二人は深夜であることも忘れて顔を見合わせた。
★
翌朝、王都の商業市で調査をしていたトビアスから、思いがけない報告がもたらされた。
「お待たせ。地方からの献上品について、色々と洗ってきましたよ」
トビアスは疲れた様子を見せながらも、どこか得意げに書類を広げた。
「王妃様への献上品リストを確認したんですが……ゴーシュ家が管理する領地の一つに、最高級の蜂蜜を扱っていることで有名な土地があります」
「蜂蜜」
ミリィアとアッシュが同時に反応した。
トビアスは少し驚いた顔をしたが、構わず続けた。
「その領地では、特定の花の蜜だけを集めて作る専門の養蜂が行われているそうで。……その花の名前が」
トビアスは、書類の一点を指差した。
「――『マリーナ』というそうです」
その名を聞いた瞬間、ミリィアとアッシュの間に確信めいた沈黙が落ちた。
王宮の庭で、ひっそりと守られてきた花。
そして今、王妃のもとに届けられた蜂蜜の蜜源となった花である。




