第24話 父の記録
かつてあの花を宮廷に持ち込んだという先代王付きの医師の足取りは、宮廷の記録からは完全に途絶えてしまっていた。
だが、アッシュが独自の伝手で探り当てた別の資料が、一つの残酷な事実を指し示していた。
「花を持ち込んだ本人の行方は分からない。だが、当時宮廷で起きた『原因不明の奇病』の記録を洗ってみたんだ。症状が、この花の毒と完全に一致する」
「奇病……」
「ああ。そして、その奇病で命を落とした記録の中に……君の父親の名前があった」
その言葉に、ジオーグも重々しく頷いた。
「ええ。あなたの父上は当時、誰よりも深くあの病について調べておられました。……恐らく、毒の正体に気づきかけて……いえ、これは聞かなかったことにしてください」
ミリィアの表情が強張った。
父が、あの毒の正体に辿り着きかけていた。
そして、そのために殺された。
「父は、とても几帳面な人でした。もし本当に何かに気づいていたなら、必ずどこかに記録を残しているはずです」
ミリィアの脳裏に、かつて家族で過ごした生家の記憶が疼く。
当主の急死で取り潰しになった、ファルネーゼ伯爵家。
あそこになら、あるいは。
「一度、確かめておきたい場所があります」
ミリィアが申し出た先は、王都から半日ほど馬車を走らせた先にあるかつての生家。
ファルネーゼ領の本家――父の弟であったエルロンドは父が亡くなる前にすでにヴィスコンティ男爵家に婿入りしていたため、後継者無き伯爵家は爵位そのものが取り潰され、誰も管理する者のいない荒れた屋敷になっている。
屋敷は、記憶にあるものよりもずっと寂れていた。
門扉は錆びつき、庭木は伸び放題に荒れ、かつて母が丹精込めていたはずの庭の花壇は雑草に埋もれてその面影さえ残していない。
「私が生まれた家です。父方の本家に当たります」
淡々と答えるミリィアの声には、これといった感傷の色はなかったが、足取りはいつもよりも僅かに慎重だった。
屋敷の中も外観に違わず荒れていた。
父の書斎だったはずの部屋は、棚の本がごっそりと持ち去られ、埃だけが積もっている。
「随分と綺麗に持ち去られてるな」
アッシュが呟くと、ミリィアも同意するように頷いた。
「売ればそれなりに値が張るでしょうから」
手がかりを求めて二人はしばらく屋敷の中を歩き回ったが、目ぼしいものは何一つ見つからなかった。
諦めかけた頃、庭の隅、朽ちかけた東屋の前でミリィアの足が止まった。
(この場所……)
幼い記憶が蘇る。
父と母と三人で過ごした、あの東屋。
二人は時折、他愛のない「なぞかけ遊び」をミリィアに聞かせてくれた。
「アッシュさん、少し思い出したことが」
「なんだい?」
「父と母が、よく歌うように聞かせてくれた言葉があります。……子守唄のようなものだとずっと思っていましたが」
ミリィアは記憶を辿りながら、ゆっくりと口ずさんだ。
「『陽の当たらぬ根の下に、母の指輪と父の鍵。三つ数えて東を向けば、扉は音もなく口を開く』」
「子守唄にしては、随分と具体的だな」
アッシュが顎に手を当てて東屋を見上げる。
「ただの言葉遊びじゃないのか」
「父は合理的な人でしたし。意味のない暗記を、わざわざ子どもにさせるようなことはしませんから」
ミリィアは東屋の構造を観察する。
屋根を支える四本の太い柱が、地面にしっかりと据えられている。
「『陽の当たらぬ根』……この東屋の柱の土台のことではないでしょうか。周囲の木々と屋根の影に隠れて、一日中決して陽の光が差さない場所」
「太陽の軌道から計算すると、一番奥の北西の柱……」
アッシュが素早く位置を特定し、二人はその柱の根元にしゃがみ込んだ。
土台の石にはびっしりと苔が生えていたが、ミリィアが手で払うと、不自然な二つの意匠が彫り込まれていた。
「丸い窪みと、細長い溝……」
「『母の指輪』と『父の鍵』では?」
アッシュが感心したように口角を上げる。
「問題は次です。『三つ数えて東を向けば』」
ミリィアはその土台の石から東に向かって視線を動かした。
三歩歩くのか、それとも。
足元に敷き詰められた石畳の規則的な継ぎ目を見て、彼女は気づく。
「一つ、二つ、三つ……床の石板の数」
東へ向かって三枚目の石板。
ミリィアはその縁を丹念に指で探った。
やがて僅かに浮いた石を見つけ、それを押し込むと、かすかな音とともに東屋の床の一部がゆっくりとせり上がった。
「これは……」
現れたのは、地下へと続く小さな隠し部屋だった。
中には埃を被った木箱がいくつか置かれ、その中には父の筆跡と思しき研究記録の束が大切に保管されていた。
ミリィアは震える手で、その一冊を手に取った。
「父の研究記録です」
ページをめくると、そこにはこれまで探し求めてきた花についての詳細な記述があった。
根と新芽にのみ生じる遅効性の毒性。
視界のかすみや、味覚異常を伴う緩やかな症状の進行過程。
そして――採取から処置までの時間制限についての詳細な検証結果。
「……父は、亡くなる直前までこの毒について一人で調べていたようです」
その記録の最後に、震えるような乱れた筆跡でこう書き残されていた。
『この毒の恐ろしさは、成分そのものよりも扱いの難しさにある。新芽の毒性が持続するのは、摘み取ってから僅か一刻。この制約さえ乗り越えられれば、いかなる名医も毒と見抜けぬ完全な暗殺が可能になる。だが、そんな方法は――』
その先は、破り取られたように記述が途切れていた。
ミリィアはしばらくその一文を見つめていた。
(一刻という制約……もし、それを乗り越える手段があるとすれば)
王宮の廊下で見たゴーシュの娘の姿が鮮明に蘇る。
萎れた花を僅かに蘇らせただけの、控えめな土と水属性の細胞活性の力。
真の聖女の力とは程遠い、見せかけの延命措置。
だが――もし、その力の対象が『摘み取られた新芽』であったなら。
萎れた花を一時的に蘇らせる程度の力でも、新芽の鮮度と毒性を「一刻以上」に引き延ばすことはできるのではないか。
(新芽が使える一刻という制約を、ああいった力で意図的に引き延ばせるとしたら)
その可能性に思い至った瞬間、ミリィアの背筋に冷たいものが走る。
「アッシュさん」
「どうした」
「もしかしたら、この毒の『扱いの難しさ』は、既に乗り越えられているのかもしれません」
その言葉の意味を悟った瞬間、アッシュの表情も明らかに険しくなった。
「まさか、ゴーシュの娘の力か」
「あくまで可能性の話です。ですが、もしそうだとしたら」
★
自分が身分を偽ってあの薬草園に身を置くようになったのは、決して偶然ではなかった。
母が後ろ盾もないまま追い詰められ命を落として以来、王城には常にその因縁の続きが燻り続けている。
ゴーシュの派閥が着実に力をつけていく様を、国王である兄はずっと警戒していた。
『お前を、しばらく市井に紛れさせておきたい』
兄がそう申し出た時の言葉を、アッシュは今も覚えている。
『表立って動けば、お前もまた同じ目に遭いかねない。だが、身を隠しながらでもできることはある』
その『できること』の一つが、母の死の真相を裏から調べ直すことだった。
政に興味がないという態度を装いながら、辺境の薬草園という誰も注目しない場所に身を置くこと。
それは兄の配慮であると同時に、アッシュ自身が望んだ一種の隠れ蓑でもあった。
(まさか、そこで……)
噂に聞いていた『毒薬令嬢』という存在に出会い、彼女自身の両親の死が、母の死と同じ根を持つかもしれないと知った時。
アッシュの中の目的は確実に姿を変えていった。
初めは、母の死の真相を究明するための、手駒として利用するつもりだった。
それがいつの間にか、自分にとって他の何にも代えがたい、誰の手にも触れさせたくない存在へと変わっている。
その変化に、アッシュ自身未だに戸惑いを隠せずにいた。
★
王都に戻ったミリィアたちは、まずジオーグにこの発見を共有することにした。
ジオーグは父の遺した研究記録に目を通すと、しばらく絶句していた。
「まさか、あの人がここまで詳しく」
「ジオーグ様。もう一つ、伺いたいことがあります」
ミリィアが真剣な顔で問いかける。
「あなたと父の、共通の師についてです。まだ、ご存命でしょうか」
その問いに、ジオーグは頷いた。
「ええ。今もお元気なはずです。もっとも、宮廷の権力闘争に嫌気がさして随分と長い間、フェリカの地で薬草園を切り盛りしておられますが」
その言葉に、ミリィアとアッシュは思わず顔を見合わせた。
「フェリカの、薬草研究院でしょうか」
「はい。名を、ベルタと」
その名を聞いた瞬間、二人の間に驚きに似た沈黙が落ちた。
ずっと世話になってきたあの薬草園の長。
いつも煙管を吹かしているベルタこそが、かつて宮廷医師として名を馳せ、ミリィアの父とジオーグの師であったという事実。
「私、まったく……知りませんでした」
ミリィアが呆然と呟くと、ジオーグは薄く笑った。
「あの人は昔から多くを語らない性分でしたね」
父の兄弟弟子であるジオーグ。
父の師であるベルタ。
偶然にしてはあまりにも出来すぎた繋がりが、この物語の奥底で一つに縒り合わされ始めている。




