第22話 贖罪の庭
ミリィアが温室での作業を終え、王宮の廊下を戻ろうとしていた時だった。
ふと、あの結界のある庭の方角から、かすかな物音が聞こえた。
何かが崩れるような、鈍い音。
嫌な予感がして、ミリィアは思わず足を向けた。
庭の入り口で結界に手をかざすと、以前とは違い、抵抗なくすんなりと通り抜けられる。
主の異変に呼応して、張られていたはずの結界が乱れているようだった。
庭の奥、花壇の間に、あの日会った女性が胸を押さえてうずくまっていた。
「――!」
駆け寄ると、女性の顔は土気色に色褪せ、額には大粒の脂汗が滲んでいる。
浅く、喘ぐような呼吸。
震える唇と指先は、血の気を失い、嫌な青紫色に変色していた。
「大丈夫ですか、お声が出せますか」
「……胸が、締め付けられるように……痛い……」
途切れがちな声でそれだけ絞り出し、女性は自らの胸ぐらを、引きちぎるような強さで力いっぱいに握りしめた。
ミリィアは即座に首元の脈を取った。
恐ろしく速く、そして不規則に乱れている。
さらに、女性が左腕を庇うように丸まっていることに気がついた。
「左の肩や腕、背中にも痛みが走っていませんか」
女性の微かな頷きを確認し、ミリィアの脳内で散らばっていた症状の欠片が、一つに合致する。
極度の顔面蒼白、冷汗、青紫色の唇、不規則で速い脈。
それから、左半身への放散痛。
(これは――心の臓の発作ですね)
「少し、失礼します」
ミリィアは道具袋を探り、乾燥させた葉の束を取り出した。
異国から取り寄せた品種で、名を『フォクスベル』という。
心臓の弱った動きをごく僅かに後押しする強心作用がある。
「少量だけ口に含んでください。心の臓を落ち着かせる効果があります。……ただし、量を誤ると猛毒になり逆に危険です。私が調整しますので」
女性は朦朧とした意識の中で、それでも頷いた。
ミリィアは慎重にごく僅かな量を選び分け、水筒の白湯に溶かして少しずつ飲ませる。
しばらくして、荒かった呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「――誰か! 人を呼んできます!」
ミリィアが叫ぶと、庭の外に控えていたらしい侍女が、血相を変えて駆けつけてきた。
程なくして宮廷医師団と王宮護衛が慌ただしく庭に押し寄せる。
ミリィアがその場を離れがたく見守っていると、意識を落ち着かせた女性が、掠れた声で呼び止めた。
「――そなた、名は」
「ミリィアと申します」
「……先日、この庭で会った娘だな」
「はい」
女性は、しばらくミリィアを見つめていた。
値踏みするようだった以前の鋭い視線とは違っている。
「――助かった。礼を言う」
「いえ、私は専門の医師ではありませんので、応急の処置に過ぎません。詳しくは、宮廷医師団に」
「ふん、こやつらよりも、余程的確な判断だったと思うがな」
女性は抱えられたまま、小さく息をついた。
「……この庭を、荒らされずに済んだのも、そなたのおかげだ」
「荒らす、というのは」
「私が倒れれば、この庭は放置される。世話をする者は、他に誰もおらぬ」
その言葉には、庭そのものへの深い愛着が滲んでいた。
「――この庭の花は、随分と長く、大切にされてきたのですね」
「ああ。……昔、大切な人と、よく眺めた庭でな」
女性は、静かに目を伏せた。
「もう随分と昔に、亡くなってしまったが。……あの人は、庭が好きな人だった。丁寧に、心を込めて世話をする人だった」
その声には、深い喪失の色が静かに滲んでいる。
「あの人が好んでいた花を、この庭にはずっと絶やさぬようにしている。……それが、私にできる、せめてもの償いのようなものよ」
「償い、ですか」
「……守れなかった、という意味だ。それ以上は、聞かんでくれ」
その言葉を最後に、女性は静かに目を閉じた。
ミリィアは、それが誰のことを指しているのか、まったく見当がつかなかった。
ただ、女性の口ぶりに滲んだ深い哀惜の念だけが、静かに胸に残る。
それにしても、と、ミリィアはふと思う。
(あの方は……)
★
「――そういえば、今日、あの庭の方で少し大変なことがありました」
「あの庭、というと」
「以前、迷い込んでお叱りを受けた、あの結界のある庭です。今日は、庭の主が胸を押さえて倒れていまして」
アッシュの手が、片付けの途中でぴたりと止まった。
「え――倒れて?」
「はい。脈も速く呼吸も浅く。恐らく、心の臓の発作だったかと。手持ちの薬草で応急の処置はしましたが」
「――今は、どうなってる」
その声の強さと低さに、ミリィアは少し目を瞬かせた。
「意識は戻って、宮廷医師団に引き継ぎました。命に別状はないとのことですよ」
アッシュは、しばらく黙り込んだ。
整理のつかない感情を必死に抑え込んでいるような張り詰めた沈黙が落ちる。
「……そうか。それは、良かった」
絞り出すようなその一言に、ミリィアは小さく首を傾げた。
「アッシュさん、あの方のことをご存知なのですか」
「……少しだけな」
「先日も、そう仰っていましたね。あまり深入りしない方がいい方だ、と」
「ああ」
「随分と強く心配されているようですが」
その指摘に、アッシュは一瞬、答えに詰まった。
「――知り合いの、知り合いのような、遠い関係だからさ」
あまりに歯切れの悪い答えである。
アッシュがこの手の過去の話題になると、いつも言葉を濁すことにはもう慣れている。
「それより、あの方、庭のことをとても大切にされているようでした。……昔、大切な人とよく眺めた庭だとか」
その言葉に、アッシュの表情がはっきりと強張った。
「――そう、言っていたのか」
「はい。その方はもう随分前に亡くなられたそうですが。花が好きで、丁寧に世話をする人だった、と」
ミリィアはそう語りながらも、それが誰の話なのかまったく見当がついていない。
ただ、話を聞くアッシュの様子がいつになく静かで、どこか痛みを堪えているように見えることだけは感じ取っていた。
アッシュは無言のまま、片付けの手を再開した。
母が好んだ庭を、王太后が今もなお絶やさず守り続けていたという事実に、アッシュの胸の内は激しく揺さぶられていた。
あの人なりの後悔と贖罪だったとでも言うのだろうか。
それをどれほどの重さで抱えていたのかを、今更ながらに思い知らされた気がした。
同時に、別の思いも静かに込み上げてくる。
(あの人に、もしものことがあれば)
ただでさえ数少ない、母を直接知る生き証人。
政治には関わらないと公言しているあの人だけが、母の死の真相を知っているかもしれない――そういう微かな望みを、アッシュはずっと心の奥底にしまい込んでいたのだ。
「……ミリィア」
アッシュは片付けていた手を止め、まっすぐにミリィアを見つめた。
「今日、あの方を助けてくれたこと……心から感謝する」
その言葉があまりに真剣で、重い熱を帯びた響きを持っていたので、ミリィアは少し戸惑ったように瞬きをした。
「お礼を言われるようなことではありません。行き倒れている方を見れば、誰でもそうします。当然のことをしたまでです」
「それでもだ」
いつものように適当に誤魔化す軽さは、その声には微塵も残っていない。
ミリィアはその様子を、しばらく黙って見つめていた。
夕暮れの温室に、二人の間の、言葉にならない沈黙だけが静かに満ちていった。




