第21話 過去の亡霊
複合毒の推論まではなんとか辿り着いたが、それ以上の裏付けを取ろうにも、宮廷医師団の壁は厚く、資料の閲覧すら思うようにいかない。
焦りとも苛立ちともつかない感情を持て余し、ミリィアはその日、珍しく一人で王宮の裏手をあてもなく歩いていた。
「――どこかに、まだ見ていない資料庫か何か、ないでしょうか」
独り言のように呟きながら、庭木の間を縫うように進んでいくうちに、いつの間にか見覚えのない一角に迷い込んでいた。
先日アッシュに案内してもらった古い温室からさらに奥、うっそうとした木々に囲まれた場所に、こぢんまりとした庭園があった。
手入れの行き届いた花々が、気取らない様子で植えられている。
王宮の他の華美な場所とは明らかに違う、静謐な空気だ。
(これは誰かが、とても丁寧に世話をしている庭ですね)
興味を引かれるまま、ミリィアは足を踏み入れかけた。
その瞬間、目に見えない壁のようなものに体がぶつかった。
――パチン、と静電気のような小さな音がして、周囲の空気が僅かに震える。
結界か何かだろうか。
ミリィアが戸惑って立ち尽くしていると、庭の奥から一人の女性が姿を現した。
年の頃は、五十代半ば。
背筋がぴんと伸び、纏う空気には有無を言わさぬ厳しさがある。
切れ長の目に値踏みするような鋭さを湛えて、女性はミリィアを見据えた。
「――何者だ。ここは、みだりに立ち入ってよい場所ではない」
その声は決して大きくはなかったが、逆らうことを許さない圧倒的な響きを持っていた。
ミリィアは慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。薬草園より参りました、ミリィアと申します。……こちらが、私的な庭園だとは気づかず」
「薬草園、というと、王妃の件で呼ばれた者たちか」
「はい」
女性は、しばらく無言でミリィアを見つめていた。
値踏みするようなその刺すような視線に、ミリィアは居心地の悪さを覚えたが、なぜか恐怖のようなものは感じなかった。
厳しい表情の奥に、ふと、見覚えのある何かが重なる。
庭の手入れの仕方、土に触れる際の指先の動き、そして、薬草を見る目の真剣さ。
それは、幼い記憶の中の、『母』の姿とどこか重なるものだった。
「――何を、見ている」
「失礼しました。……その、庭の手入れが、あまりに見事だったもので」
女性は、僅かに眉を上げた。
「世辞は、いらぬ」
「世辞ではありません。土壌の質に合わせた配置から光の当たり方まで、完璧に計算されています。……素人の手入れでは、決してこうはなりませんから」
ミリィアは、相手の纏う空気に気圧されながらも、決して目を逸らさなかった。
己の専門分野に対する絶対的な自負だけは曲げたくない。
真っ直ぐで純粋な眼差しに、女性の表情が、初めて僅かに緩んだ。
「――お前、詳しいのか」
「専門として研究しておりますので、それなりに知識はあるかと存じます」
「ふん」
女性はそれだけ言うと、結界の向こうから、じっとミリィアを見つめ続けた。
「ここは私が、一人で世話をしている場所だ。政の話も、宮廷の駆け引きも、一切持ち込まぬと決めている。……お前も、そのつもりで二度と足を踏み入れるな」
「承知いたしました」
ミリィアは素直に頭を下げた。
女性はそれ以上何も言わず、踵を返して庭の奥へと戻っていく。
後ろ姿を見送りながら、ミリィアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
★
「――そういえば今日、迷い込んだ先で、少し厳しそうな女性にお会いしました」
「厳しそうな女性?」
「はい。庭園を一人で手入れされている方で。結界のようなものまで張られていて、うっかり触れてしまってお叱りを受けました」
その瞬間、アッシュの手が、僅かに止まった。
「……どんな方だった?」
「五十代くらいの女性でした。背筋が伸びていて、目つきが鋭く……ただ、庭の手入れの仕方は、とても丁寧で」
「その庭は、どの辺りだ?」
「温室から、さらに奥です。木々に囲まれた、静かな場所でした」
アッシュは、しばらく黙り込んだ。
沈黙の長さに、ミリィアが小さく首を傾げる。
「アッシュさん?」
「二度と近づかない方がいい」
いつもより明らかに硬い声である。
ミリィアは、少し驚いたように瞬きをした。
「何か、まずい相手だったのですか」
「まずい、というわけじゃない。ただ」
アッシュは言葉を選ぶように、一度口を閉ざした。
「その方は、王宮の政に一切関わろうとしない人だ。それには、それなりの理由がある。……君が、うっかりであれその領域に触れたことが、良く思われない可能性がある」
「それは、申し訳ないことをしました。ただ、庭を離れる際には丁寧にお詫びしましたし、今後は近づかないようにと釘も刺されましたので」
「それなら、いいんだが」
そう答えながらも、アッシュの表情にはまだ僅かな硬さが残っていた。
(王太后様、か)
その人物が誰であるか、アッシュには心当たりがある。
先代王が亡くなり、兄が王を継いで以降、政の一切から距離を置くという生き方をされていることも、彼は知っていた。
幼い頃。
母がまだ健在だった頃、王太后が一度だけ、母の庭を訪ねてきたことがあった。
当時のアッシュにはその来訪の意味が分からなかったが、今になって思えば、あれは単なる社交辞令ではなかった気がする。
あの人は、後ろ盾のない母の危うい立場を遠くから静かに案じていたのか、それとも自身の派閥が下すかもしれない裁きに、せめてもの『警告』に来ていたのか。
だが、それを確かめる術はもう、どこにもない。
「――アッシュさん、何かご存知なのですか」
ミリィアの問いに、アッシュは努めて穏やかな表情を取り繕った。
「少し、噂に聞いた程度さ。それより、あまり深入りしない方がいい相手だということだけ、覚えておいてくれ」
「わかりました」
ミリィアは素直に頷いたものの、アッシュの反応は王宮入りしてからどうもおかしい。
平民にしては洗練された動作。
かと思えば、自分と同じように土と戯れるのにも厭わない。
王宮内の配置や、そこに住まう人間たちに関する知識。
それから――光属性の魔力を有している事。
朧だった輪郭が、徐々に形作っていく。
けれど。
彼の口から語られない、彼自身について、安易に触れていい物では無さそうであるし。
厄介なことに巻き込まれそうな予感もある。
ぐるぐると脳内をめぐる思考を雲散させるように、ミリィアは頭を振る。
その拍子に、結い上げていた髪のひと房がふわりと頬に零れ落ちる。
「……ミリィア?」
不意に、すぐ横から伸びてきた大きな手が、その髪をそっと掬い上げた。
アッシュの長い指先が、髪を耳にかけるついでに、ミリィアの白い頬を滑るように触れた。
僅かに硬いタコのある、治癒師の手。
だが、その触れ方はまるで壊れ物を扱うようにひどく優しい。
「どうかしたか? 少し、顔色が優れないようだけど」
覗き込んでくる彼の瞳は、警戒するような冷たさが嘘のように融け、心配げに揺れている。
不意打ちに向けられた誰かの体温というのは、あまりにも久しぶりのことで、一瞬硬直してしまう。
「い、いえ。少し考え事をしていただけです」
「そうか、あまり無理はするな。……君に倒れられると、俺が困る」
ミリィアは彼という人間の深淵に触れるのを避けるように、ただ小さく頷いて、逃げるように作業棚の方へと背を向けた。
慌ただしく片付けを再開する彼女の背中を見つめながら、アッシュの表情からじわりと色が消え去っていく。
(あの庭に、たどり着いてしまうとはな)
偶然にしては、あまりにも出来すぎている気がした。
ただ一つ、確かなことといえば――。
ミリィアが無自覚に踏み込んでいく先には、いつも――彼自身の過去の亡霊が、静かに待ち構えているのだ。




