第19話 厄介な想い
翌日から、ミリィアは温室の一角を借りて、密かに検証を始めた。
「王妃様の御髪から採らせていただいた毛髪と、寝室にあった香の残滓、それから、花瓶に生けられていた花の一部。これらを照らし合わせれば、何か見えてくるかもしれません」
「花弁に毛髪……そんなもの、いったいどこで手に入れたんだ」
「それは……許可が取れるまで待っていたら、王妃様のお体が持ちませんので、秘密です」
真っ当すぎる言い分に、アッシュは反論できなかったが、ミリィアは入手経路に関しては曖昧に濁して口を割らない。
持参した道具を並べ、花弁を細かく刻んでいくミリィアの手付きは、相変わらず模範のように規律正しい動きをしている。
香の残り香を染み込ませた布切れと、寝具の繊維から採取した微量の粉末――それらを一つ一つ、慎重に調合し、試験管に落としていった。
「反応が出そうですね」
試験管の中身が、僅かに色を変える。
ミリィアの目が、真剣な光を帯びた。
「単体では無害な成分ですが、組み合わせると、緩やかな毒性が生まれるのかもしれません。恐らく、香と花の組み合わせそのものが――」
そこまで言いかけて、ミリィアはふと道具袋の奥から、小さな乾燥した種子の欠片を取り出した。
ダリヤの種子は、薬効の吸収を一時的に高め、毒性の発現を早める手助けをしてくれる。
「念のため、実際の作用の強さを確かめておきたいです」
ミリィアはあっさりとそう言うと、種子を少量削り出して試験管の液に水に溶かした。
それを、一切の迷いがない手つきで、自らの口元へと運ぼうとする。
「――何をしてる」
アッシュの手が、ミリィアの手首を強く掴んだ。
「疑似症状が引き起こされるのか、実際に確かめておきたいだけです。ごく微量ですし、致死量には遠く及びませんよ」
「そういう問題じゃない」
アッシュの声には、これまで彼女に向けたことのないほどの、強さと焦燥が滲んでいた。
「君はそれを、自分の体で試そうとしているのか」
「未知の毒物の効果を正確に知るには、これが一番確実な方法ですから」
「だとしても、自分の体を実験台にすることが、当然だとは思わない」
アッシュの声が、思いがけず大きくなる。
いつもの飄々とした余裕は、完全に消え失せている。
ミリィアの手首を掴んだまま、アッシュはいつになく強い調子で言い募った。
「毒の効果を知りたいなら、他にいくらでも方法があるはずだ。動物での検証が無理なら、既存の記録との照合、あるいは微量の試薬による反応確認――君なら、そのすべてを知っているはずだろう」
「知っては、いますが」
「それでも、自分の体を痛めつける方を選ぶのか」
「だって――確実だから、です」
ミリィアはそう答えながらも、手首に食い込むアッシュの指の強さに、僅かに戸惑った様子を見せた。
彼がこれほどまでに強い調子で、感情を露わにして何かを言うのを、これまで見たことがなかったからだ。
「確実さより、優先すべきことがある」
アッシュはそう言うと、試験管をミリィアの手から半ば強引に取り上げた。
「――少なくとも、俺の前では二度とするな」
その声の低さと切実さに、ミリィアは珍しく、すぐには言葉を返せなかった。
「……分かりました」
小さく頷いたものの、その口ぶりには、完全な納得というよりアッシュの勢いに押されたという色の方が濃い。
アッシュは取り上げた試験管の中身を、静かに土へ廃棄する。
その手は、ほんの僅かに震えていた。
言葉にならない焦りだけが、彼の胸の内に重く残っていた。
★
あの一件以来、アッシュはこれまで以上に、ミリィアを保護者のような顔をして監視している。
「今日は、何を?」
「土壌の入れ替えです。それだけですよ」
ミリィアはそう答えながら、慣れた手つきで作業を進めていた。
あの日採取した香と花の組み合わせによる検証は、結局、思ったほどの成果を上げておらず、心なしか表情が暗い。
「――反応は出ますが、王妃様の症状の重さを、これだけで説明するにはまだ根拠が弱い気がします」
ミリィアは雑記帳にそう書き記しながら、小さく溜息をついた。
「他の可能性も、洗い直す必要がありそうです。もう一度お目通りが叶えばいいのですが」
「それは構わない。焦って結論を出す必要は――」
「ただ、時間をかければかけるほど、王妃様のお体には負担がかかりますし。ずるずると王都滞在が長引いてしまいます」
憂鬱そうな言葉に、アッシュは頷くしかなかった。
ミリィアの様子には、以前と変わらないようでいて僅かな違和感がある。
彼女の指先に、小さな擦り傷や、皮膚の変色らしきものも見えるのだ。
「ミリィア、その手、どうした」
「少し、薬草に触れてかぶれただけです」
ミリィアはそう答えて、すぐに袖で隠してしまう。
拭いきれない疑念が静かに積もっていく。
(また、一人で――)
問い詰めたところで、はぐらかされるだけかもしれない。
そう考えると、アッシュは以前のように強く踏み込むことを躊躇ってしまう自分に気づいていた。
温室の片付けを終えたミリィアが先に部屋へ戻った後、アッシュは一人、棚に残された道具を整理していた。
ふと目についた小瓶の中に、見覚えのある種子の欠片が、ごく僅かに残っているのを見つける。
ダリヤの種子。
自分に隠れて、やはり体で試していたのだ。
アッシュは、その小瓶を手に取ったまま、しばらく動けなかった。
(懲りていないな、本当に)
怒りにも似た感情が、胸の奥から込み上げてくると同時に、それだけでは片付けられないどす黒い何かが、その怒りの奥に静かにとぐろを巻いていた。
なぜ、これほどまでに彼女のことが気にかかるのか。
最初は、単なる独り歩きしている噂への関心だったはずだ。
毒薬令嬢。
異常な記憶力、両親の死の因縁――すべては、自分の目的のための、便利な「手駒」に過ぎなかったはずだ。
それなのに、今、この小瓶を前にして込み上げてくる感情は、そのどれとも違っていた。
真実を求める代償として、無防備に自らを削ろうとするこの女を、世界のあらゆる害意から――彼女自身の狂気からすらも――囲い込み、絶対に手の届かない場所へ隠してしまいたいという、底知れぬ独占欲。
(危ういことを、しないでほしい)
単純な、願いだ。
ただ、彼女自身のために。
アッシュは小瓶を握りしめたまま、静かに目を閉じた。
「……厄介なことに、なってきたな」
自嘲めいた呟きが、誰もいない温室に小さく落ちる。
これまで彼が抱いてきたどんな感情とも、違う類のものだ。
目的や打算では説明のつかない、もっと単純な――。
その正体に、はっきりと名前をつけることは、まだ彼自身にもできずにいた。
ただ、翌朝、いつものように温室に現れたミリィアの顔を見た瞬間、アッシュの無意識の中で、何かが動いた。
「おはようございます、アッシュさん」
「――おはよう、ミリィア」
自分の声が、ほんの少しだけ甘く、熱を帯びていたことに、アッシュ自身も気が付いていなかった。




