第18話 都合の良い偶然
王宮の裏手にある寂れた温室の隅で、ミリィアは持ち込んだ手控えの雑記帳に、今日見た王妃の様子を書き出していた。
アッシュもまた、魔導灯の幽かな明かりを頼りに、その隣に腰を下ろす。
「アッシュさん、少しお伺いしたいのですが」
「なんだい」
「ゴーシュ大臣のお嬢様の御力についてです」
ミリィアは記憶の引き出しを探りながら、その内容を丁寧に語り始めた。
「『既にある生命の兆しを僅かに後押しする力。新たに芽吹かせることはできず、あくまで既存のものの活性化に留まる』。これは、土属性の一種についての記述です。とはいえ、魔法属性の知識は、私自身あまり詳しくないので」
アッシュは、しばらく考えるように黙っていた。
「土属性の中でも、特に穏やかな系統の力だな。地力を高めたり、既にある植物の生命力を後押ししたりする類の力。つまり……聖女の力とは、根本的に違う。真の『聖女』――無属性の慈愛の力ってのは、対象そのものに新たな生命の兆しを生じさせる、もっと特異な力だ。花で例えるなら、枯れた花を一時的に持ち直させるのではなく、そこに新しい蕾を芽吹かせるような」
ミリィアは素直に頷いた。
「では、大臣の仰った『聖女』という言葉は誇張されているということですね」
「もしくは、極めて意図的な喧伝か」
その言葉に含まれるひどく冷たい響きに、ミリィアは首を傾げたが、アッシュはそれ以上は多くを語らなかった。
「ともあれ、貴重なお話をありがとうございます。おかげで、記憶の中の記述が、ようやく形になりました。――さて、諸々を整理すると、こうなります」
ミリィアは雑記帳を指でなぞりながら、淡々と語り始めた。
「まず、王妃様の寝室の位置ですが、南向きで日当たりは悪くありません。それなのに、窓は終始固く閉ざされていました。厚い天蓋付きの寝台に、重ねられた寝具も、季節にしては明らかに過剰です」
「換気が悪い、と」
「はい。室内には香が焚かれていましたが、あれほど密閉された部屋で、あれだけ強い香りを絶やさず焚き続ければ、それだけで健康な人間でも軽い頭痛や倦怠感を引き起こします」
「宮廷医師たちは、それを問題視していないようだったが」
「恐らく『お体を冷やさないため』という配慮のつもりなのでしょう。ですが、それが逆に、症状を悪化、長期化させている可能性があります」
ミリィアはさらに、ページをめくった。
「それから、王妃様の体勢です。終始、上半身を高く保つよう指示されていましたが、あれほど脈が弱く、顔色の優れない方に、あの体勢を長時間強いるのは本来なら避けるべきです。……それに、寝台の脇に置かれていた花瓶」
「花瓶?」
「はい。強い香りを持つ花が生けられていました。ちょうど、位置もお顔近くに……匂いが直接届くように」
アッシュの表情が、僅かに強張った。
「病相の匂いというのは独特ですし、それを消すためかもしれません。弱っている身体に、負担のかかる環境。――匂い、体勢、換気――すべてが偶然だとしたら、随分と都合の良い偶然が重なっている、とは思います。……それに」
ミリィアはそう言ってから、少し言葉を切った。
「緩やかに進行する倦怠感、視界のかすみ、脈の弱まり。……加えて、極めて地味ですが見過ごせない特徴がありました」
「特徴?」
「はい。王妃様の瞳の光彩の色が、縁からわずかに退色していました。この静かで緩やかな進行の仕方と光彩の退色が合わさる状況には……覚えがあります」
「覚え、とは?」
不穏な物言いに、アッシュの胃が僅かに竦む。
「ええ。私の実の両親にも、緩やかな死の気配とともに、光彩の退色が見られたと……。以前、お話しした通りですが。私は両親の死因を毒ではないかと疑い、知る限りの毒草を調べ尽くしましたが、どうしても該当するものがなく、途方に暮れていました。ですが……」
ミリィアはそこで言葉を切り、明かりをじっと見つめた。
「もし、あれが単一の自然の毒草などではなく、複数の要因――例えば、先ほどの香と特定の植物の組み合わせや、たとえば魔術などを用いた『未知の複合毒』だったとしたら。つまり、緩やかに体力を奪い、ただの病死だと周囲に誤認させるような狡猾な毒だとしたら、私が単体の毒草から見つけられなかったのも頷けます。ですから、王妃様の症状は、そういった可能性も視野に入れた方が良いかもしれませんね」
ミリィアの声には、肉親の死を語る悲壮感など微塵も滲んでいない。
癒えない傷を抱えたまま、己の足で立ち、悲しみを知識欲に変えている。
「あくまで私の見立てに過ぎません。確証があるわけではないので」
そう続けた横顔には、細い体のどこに隠されているのかと疑うほどの、強さがあった。
アッシュは、しばらく何も言えなかった。
母の最期の記憶が、脳裏に蘇る。
かすれた声、冷たい手。
ただの「原因不明の体調不良」として処理され、宮廷医師たちからも匙を投げられ、静かに弱っていったあの絶望的な日々。
目の前の王妃の容態も、そして今語られたミリィアの両親の死因も、あまりにもそれに似すぎてはいないだろうか。
すべてが、誰かの手によって巧妙に仕組まれたものだとしたら――。
「――アッシュさん?」
「……悪い、少し考え事をしてた」
アッシュは平静を装って答えたが、その声には隠しきれない硬さが残っていた。
「それでも、十分に参考になる。ありがとう」
夜の静けさの中、無言の時間が流れる。
やがて、ミリィアがふと話題を変えるように口を開いた。
「そういえば、王妃様と陛下は、どのようにご結婚に至られたのでしょうか」
「随分と急な話題転換だな」
「純粋に気になったので。私はどうもその手の話には疎いのです」
アッシュは小さく笑った。
「有名な話だよ。陛下がまだ王太子だった頃、視察先で流行り病に倒れられてね。その村で、治療にあたっていたのが、当時子爵令嬢だった王妃様だ。陛下はその献身に心を打たれて、身分を明かした後も『彼女以外を娶る気はない』と。まあ一目ぼれというやつだろう」
「それで、王妃に」
「周囲は随分と猛反対したらしいが、陛下はそれを押し切られた。この国の『建国の逸話』を盾にしてね」
「建国の、逸話。聖女のですね」
「うん、初代の王が、ある『聖女』に選ばれて即位したという伝承だね。血筋ではなく、聖女の後押しこそが正統な王の証だった――という話だ。もっとも、それは初代限りの特別な逸話とされているが」
「ではなぜ、それが陛下の結婚の後押しに?」
「陛下はあえてその逸話を引き合いに出されたんだ。『血筋や身分より、真に国を支えるに値する者こそが、傍らに立つべきだ』とね。今の世じゃ、聖女という存在そのものがほとんど形骸化している。だが――」
アッシュの声が、わずかに沈んだ。
「その逸話を都合よく担ぎ出せば、話は変わってくる。もし、本物の『聖女の力』を持つ娘が現れ、その娘が誰かを『選んだ』とすれば」
「――血筋によらず、その選ばれた者こそが、正統な王であると」
「そう主張することも、理屈の上ではできてしまう」
ミリィアは、しばらく黙り込んだ。
「大臣が、あれほどまでにお嬢様を『聖女』だと吹聴するのはもしかしたら……」
「王妃様の座を、そしてゆくゆくは王位そのものを、力尽くではなく『正統性』という形で奪うための布石、なのかもしれないな」
夜風が、礼拝堂の古い鐘を、微かに揺らす。
ミリィアは、掴みそうで掴めない蜃気楼の影をふと思い浮かべる。
いくら何でも、王位簒奪に考えを巡らせるのは、飛躍し過ぎだろうか。




