第16話 元婚約者と聖女 ①
それから数日、ミリィアは暇を見つけては温室に通い詰めた。
「――土壌の配合を変えて、二日ほど経ちましたが」
棚の前にしゃがみ込み、辛うじて救出したアンブロシア草の根を指でつまむ。
以前よりも、心なしか張りが戻っているように見えた。
「思ったより、順調ですね」
「毎日、随分と熱心だ」
後ろから声をかけたのは、書類仕事の合間を縫って様子を見に来たアッシュだった。
トビアスは相変わらず、書類手続きの担当として宮廷医師団に張り付かされている。
「植物は、正直で良いです。世話をした分だけ、応えてくれますから」
「人間よりも扱いやすい、と?」
「そこまでは言っていませんが。まあ人間関係の煩わしさを考えると、断然植物の方が良いです」
そんな軽口を交わしながら、ミリィアは次の鉢へと手を伸ばした。
棚の奥、これまで手をつけていなかった一角に、見覚えのない鉢がひっそりと置かれている。
「これは」
枯れた葉の形状に見覚えがあるようで、記憶を辿るように目を細めたその時だった。
「――精が出ることだな」
場違いなほど傲慢で張りのある声が、温室の入り口から響く。
振り返ると、恰幅の良い、四十過ぎと見える男が立っていた。
仕立ての良い上着に、やや派手すぎる装飾。
値踏みするような蛇のような目つきで、ミリィアと温室の様子を交互に眺めている。
「――バルトロメ・ゴーシュ……卿」
アッシュが、小さな声で先に名を口にした。
その声には、いつものミリィアに向ける飄々とした調子や甘さはなく、硬さが張り付いている。
「久しいな、ミリィア嬢」
バルトロメ・ゴーシュは、まるで旧知の親しい間柄であるかのような口ぶりで、ミリィアに歩み寄った。
かつての婚約者であり、自分を楽園《辺境》へと追いやってくれた当人。
ミリィアは儀礼的に一礼する。
「ご無沙汰しております」
「辺境暮らしとやらで、随分と逞しくなったようだ。……貴族の令嬢にしては、相変わらず珍妙な趣味を続けているものだな。土がよくお似合いで」
その言葉には、隠しきれない侮蔑の色が滲んでいる。
ミリィアはそれを露ほども気に留める様子もなく、自分の手元に視線を一度落とす。
「趣味というより、専門です」
「専門、ね」
バルトロメは鼻を鳴らすと、温室の中をぐるりと見回した。
「こんな朽ちかけた場所に構う暇があるなら、もう少し、宮廷での立ち回り方を学んだ方がいいと思うぞ」
「立ち回り、ですか」
「まさか、あの縁談を反故にされたことを、根に持っているわけではないだろうな?」
その一言に、温室の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
「いえ、特には」
ミリィアの返答は、あまりにもあっさりとしたものだった。
感情を押し殺しているわけでも、強がっているわけでもない。
完全に『どうでもいい』という色が明白すぎて、バルトロメの方が逆に拍子抜けした様子を見せた。
「……ふん。まあいい」
バルトロメは気を取り直すように、ふと、ミリィアの隣に立つアッシュへと視線を移した。
値踏みするような目つきが、じっとりと注がれる。
「――お前は?」
「フェリカ薬草研究院に所属する治癒師です。アッシュと申します」
アッシュは深く頭を垂れ、声のトーンまで変えて恭しく答えた。
「薬草園の、治癒師、ね」
バルトロメは、興味なさげにそう繰り返す。
「ふん……ミリィア嬢、また会おう」
それだけ言い残すと、バルトロメは踵を返し、来た時と同じ足取りで温室を後にした。
男の後ろ姿が完全に見えなくなってから、ミリィアは小さく息を吐いた。
「相変わらず、感じの悪い方ですね」
「気にしてないのか?」
「気にする理由が、特に見当たりません。それより、この鉢の土が乾燥しきっていて――」
ミリィアはバルトロメの存在など一瞬で頭から消し去ったかのように、また鉢に向き直り、作業を再開させる。
だが、アッシュはしばらくその場を動かなかった。
温室の入り口の方を、氷のように冷たい目でじっと見つめたまま。
バルトロメが最後にアッシュへ向けた視線には、単なる無関心以上の何かが混じっていた気がした。
値踏みするような、あるいは――何かを確かめるような。
(ただの『元婚約者の隣にいる得体の知れない男』という程度の警戒か。それとも、俺の顔に『誰か』の面影を見たか)
その先を考えかけて、アッシュは小さく頭を振った。
今はまだ、憶測を膨らませるだけの材料はない。
「アッシュさん? どうかしましたか」
「――いや、何でもないよ」
アッシュは一瞬でいつもの柔らかな調子に戻ると、ミリィアの隣にしゃがみ込み、作業を手伝い始めた。




