第13話 ヴィスコンティ家の食卓
王都に着いたその日は、王宮への正式な出頭は翌日ということになっていたので、ミリィアたちにはひとまず一晩の猶予があった。
「せっかくですし、少しだけ実家に顔を出してもよろしいでしょうか」
ミリィアがそう申し出ると、アッシュもトビアスも異論はなかった。
むしろトビアスは「では私は途中で失礼して、恋人のところに!」と、既に浮足立った様子だ。
ヴィスコンティ男爵邸は、貴族街の端の一角にある。
通りを挟んだ向かい側は、商家が立ち並び、裏通りの喧騒も聞こえてくる。
飾り気のない外観の屋敷の前に馬車が止まるなり、扉が勢いよく開いて、義母のクラウディアが飛び出してきた。
「ミリィア!」
「お義母様、ご無沙汰しております」
「無事で、本当に無事で……! 手紙をもらってからも、心配で夜も眠れなくて」
クラウディアはミリィアを抱きしめると、そのまま涙ぐんだ。
少し遅れて、義父のエルロンドも玄関先に姿を見せる。
「お帰り、ミリィア。随分と、日に焼けたな」
「畑仕事に精を出しておりました」
「そうか……苦労を……」
エルロンドはそう言いながら、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。
この十数年、彼はミリィアに対していつもこの調子だ。
悪い人間ではない。ただ気弱すぎるほど気弱で、何かにつけて自分を責める癖がある。
「お義姉様!」
屋敷の奥から、幼い声が響いた。
まだ十歳にもならない義妹のシエラと、その手を引いた義弟のリオルが、廊下を転がるような勢いで駆けてくる。
「リオル、シエラ。二人とも、少し背が伸びましたね」
「お義姉様がいない間に、剣の稽古を始めたんだ! 見て見て!」
「もちろん。後でゆっくり見せてくださいね」
ミリィアが微笑むと、リオルは満足そうに笑って、それからようやく、ミリィアの後ろに控える二人の存在に気づいた。
「あれ、その人たちは?」
「フェリカ薬草研究院でお世話になっている方々です。アッシュさんと、トビアスさん」
「お邪魔します」
アッシュが柔らかく会釈すると、クラウディアの目が、露骨に輝いた。
「まあ、まあまあ! ミリィア、こんなに素敵な方々と一緒だったの? 教えてくれればよかったのに」
「同僚です、お義母様」
「同僚さん、ね」
クラウディアは意味深にそう繰り返しながら、二人を屋敷の中へと招き入れた。
その晩の食卓は、屋敷の質素さの割に、驚くほど賑やかだった。
エルロンドが恐縮しながらとっておきのワインを開け、リオルがアッシュとトビアスに剣の稽古の成果を延々と語り、クラウディアはずっとにこにこと二人を眺めている。
「それで、アッシュさんとトビアスさんは、その、お二人ともミリィアと同じ薬草園……フェリカ薬草研究院で……?」
「はい。私は研究員です。あ、ちなみに王都に恋人がおりまして、この後会いに行く予定なんです」
「まあ、そうなの」
トビアスがあっさりと自分の事情を明かし、早々に食事を済ませて食卓を立ち上がると、クラウディアの視線は、途端にアッシュ一人へと絞られた。
「では、アッシュさんもどなたかと?」
「俺はそうだな、特に決まった相手はいないが」
「あらまあ」
クラウディアの目が、さらに輝きを増した。
ミリィアは、黙々と食事を進めている。
「ねえ、ミリィア。お母様、正直に聞きたいのだけど」
「なんでしょう」
「トビアスさんには恋人がいらっしゃるとして……アッシュさんは、その、ミリィアにとって、どういう……」
「同僚ですよ」
「本当に、それだけ?」
「もちろんです。それ以上もそれ以下もありません」
あまりに迷いのない即答だったので、クラウディアは少し拍子抜けしたように、浮かせ気味だった腰を下ろす。
エルロンドも横で、なんとも言えない顔をしている。
「その、ミリィア。貴女の母としては、少し寂しいのだけれど……こんなに素敵な方が隣にいて、本当に何とも思わないの?」
「素敵、というのは、外見のことでしょうか」
「それも含めて」
「造形として整った顔立ちをされているとは思いますが、それと、私の気持ちの揺れとは、特に関係がないかと。あの黄金比はあくまで観察対象ですので」
「あらあら」
クラウディアはそれ以上追及するのを諦めたようで、代わりに小さく溜息をついた。
その隣で、アッシュはただ静かに微笑んでいたが、内心では、この賑やかな食卓の空気に、思いのほか強く心を揺さぶられていた。
(懐かしいな)
最後にこんな食卓を囲んだのは、いつのことだったか。
母がまだ元気だった頃、あの小さな庭のある一区画で、同じように誰かが笑い、誰かが恐縮している――そんな時間があった気がする。
もう随分と昔のことのようで、けれど、こうして目の前にすると、記憶の輪郭が驚くほど鮮やかに蘇ってくる。
アッシュはそれを誰にも気づかれないよう、静かに胸の内へしまい込んだ。
★
「――ところで、ミリィア。裏庭の菜園、見てくれる? 前より少し広げたのよ」
食後、クラウディアがそう誘った。
ミリィアが頷くと、クラウディアはふと思いついたようにアッシュの方を振り返った。
「アッシュさんも、よかったらご一緒に。薬草にお詳しいのでしょう? ミリィアの庭というか畑、見てやってくださらないかしら」
有無を言わさぬ笑顔で送り出され、アッシュはミリィアを追って外へと出る。
裏庭の菜園は、以前よりも確かに広がっていた。
ハーブの類が整然と植えられ、隅には小さな薬草の一角もある。
ミリィアが辺境に発つ前、暇を見つけては世話をしていた場所だ。
「ここだけは、私がいない間も、義母が手入れしてくれていたようですね」
「良いお義母様だな」
「はい。……お義父様も、お義母様も、良い人たちです。ただ」
「ただ?」
「時々、少し心配性が過ぎるところがありますが……」
アッシュは小さく笑った。
夜風が、菜園の葉をさらさらと揺らしている。
しばらく二人は、無言でその音に耳を傾けていた。
「こういう素朴な庭は最近あまり見かけないから、少し懐かしい気がするな」
ふと、アッシュがそう漏らした。
「懐かしい、ですか」
「昔、似たような庭を、知っていたから」
それ以上は語らず、アッシュは薬草の葉を一枚、そっと指先で撫でた。
ミリィアは隣に座る男の横顔をしばらく眺めていたが、詮索はしなかった。
彼がこういう過去の話を、あまり多く語らない人間だということを、この数ヶ月でなんとなく理解していたからだ。
「実は、私も」
ミリィアが、ぽつりと言った。
「私の実の両親も、こういう庭が好きな人でした。父は宮廷医師でしたが、家では書斎にこもるか、母の影響で土いじりをしてばかりでした」
「――そうなのか」
アッシュの声が、わずかに硬くなった。
それは、ミリィアの口から実の両親の話が語られること自体が珍しいから、というだけの反応ではない。
だが、その微妙な変化に、ミリィアは気づかなかった。
「私が薬草や毒物に興味を持ったのは、多分、あの人の影響です。母は……傍にいるだけで、皆が少し楽になるような、そういう不思議な人でした」
「お二人とも、亡くなられて久しいと」
「はい。私が幼い頃に。毒によるものだったらしいのですが、詳細は、今も分かっていません」
その言葉に、アッシュの指先が、薬草の葉の上で微かに止まった。
「分からない、というのは?」
「何らかの毒物による症状に似ていた、とだけ聞かされています。当時の記録も詳しくは残っていませんし、私の知る毒草類はあらかた調べ尽くしてしまっているので、それがなんだったのか。そもそも毒による中毒症状だったのかもわからないんです」
ミリィアはそれ以上多くを語らず、静かに夜空を見上げた。
「不思議なものですね。こうして実の両親の話をするのは、随分と久しぶりな気がします」
「……そうか」
アッシュの相槌は、いつもより短く、そしていつもより静かだ。
ミリィアは菜園の葉をもう一度眺め、それから小さく微笑んだ。
「アッシュさんに聞いていただけて、少し、気が楽になりました」
「――それは、良かった」
その声に滲んだ複雑な色を、ミリィアが読み取ることはなかった。
夜風が、二人の間を静かに通り抜けていく。




