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# 第九話 分かれ道

 トーマの葬儀は、翌日の朝に行われた。




 浜の東端、岩場の手前。砂の上に穴が掘られていた。トーマの体は白い布に包まれて、穴の中に横たえられた。




 村人が集まっていた。百人のうち、半分以上が来ていた。漁師たちは黙って立っていた。女たちも、子供たちも。




 ユネイラが穴の前に立った。




「トーマは十五年、この村で漁をした。よく働いた。文句も言わなかった。——海に還す」




 それだけだった。




 弔辞はなかった。読経もなかった。花もなかった。ユネイラが砂を一掴み、穴に落とした。ガーズが続いた。ミヤイナが続いた。漁師たちが、一人ずつ砂を落とした。




 硬矢も砂を掴んだ。冷たかった。穴の中の白い布に、砂が落ちた。音はしなかった。




 元の世界の葬式とは、何もかも違った。祭壇もない。香典もない。坊さんもいない。ただ砂を落として、終わりだった。




 ——ここは、本当に別の世界なんだ。




 頭では分かっていた。だが、人が死んで、埋められて、それを見た時、初めて体が理解した。




---




 葬儀の後、村の空気が変わった。




 硬矢が浜を歩くと、漁師が声をかけてきた。




「昨日は大変だったな」




 初めてだった。今まで、漁師たちは硬矢に話しかけなかった。綱を引く位置を教えるか、邪魔だと言うか、それだけだった。




 ザートと誉は、傷の手当てを受けていた。ミヤイナが薬草を煎じて、二人の傷に塗った。誉の左肩は深くはなかったが、腕を上げると痛んだ。ザートの脚は腫れていたが、歩けた。




 凪がずっとそばにいた。ミヤイナが誉の肩に薬を塗る間、凪は誉の隣に座って、動かなかった。何も言わなかった。ただ、誉が痛みで顔をしかめるたびに、自分の膝の上の手がきつく握られた。




 誉が笑った。




「大丈夫だって。大したことない」




 凪は頷いた。でも手は握ったままだった。




 ミヤイナは二人に薬を渡しながら、短く言った。




「無茶をするな」




 それだけだった。だが、声の硬さが少し違った。




 ユネイラの娘が、ザートと誉のところに来た。頭を下げた。何も言えなかった。目が赤かった。




 ザートが頭を掻いた。




「怪我がなくてよかった」




 誉が笑った。




「俺たちの方がボロボロだけどな」




 娘は泣いた。




---




 ガーズは、剣を洗っていた。




 井戸の水で、刃についた血を流していた。硬矢はそれを見ていた。




 剣は漁師の道具ではなかった。あの構え、あの動き。ガーズは何者なのか。硬矢は訊きたかった。訊けなかった。




 ガーズは剣を布で拭いて、鞘に収めた。家の奥に持っていった。




 戻ってきた時には、いつもの穏やかな顔だった。




---




 その日の昼過ぎ、村に四人の男が来た。




 三人は革の鎧に剣。背中に盾を背負った者もいた。もう一人は鎧を着けていなかった。長い外套を羽織り、背中に木の杖を負っていた。杖の先端に、薄く光る石がはめ込まれていた。




 四人とも、漁師とは違う歩き方だった。足音が軽く、目が周囲を常に見ていた。




 ユネイラが対応した。四人はオーヴホールから来たと言った。




「ダンジョンの深層から魔物が逃げた。手負いだったが、上層の冒険者を何人も殺して外に出た。討伐依頼を受けてここまで追ってきた」




 ユネイラが答えた。




「その魔物なら、もう死んでいる。うちの者が仕留めた」




 四人は顔を見合わせた。外套の魔法使いが一歩前に出た。




「——仕留めた? 深層のリザードマンを?」




「鱗が残っている。見るか」




 四人はリザードマンの死骸を見た。剣士の一人が鱗を剥がして確かめた。魔法使いが死骸の傷口に手をかざし、何かを呟いた。杖の石が一瞬だけ光った。




 その時、井戸の方からガーズが歩いてきた。水を汲みに来ただけだった。




 剣士の一人が、ガーズの足を見た。次に腰を見た。帯剣していなかったが、歩き方が違った。




「——あの人は」




 小声だった。隣の剣士が頷いた。




「噂で聞いたことがある。第四師団にいたって話の——」




 ガーズは四人を一瞥した。何も言わなかった。水を汲んで、戻っていった。




 四人は顔を見合わせた。魔法使いが小さく息を吐いた。




「なるほど。それなら仕留められるかもな」




「討伐の証になる。この鱗をオーヴホールの冒険者組合に持っていけば、金になる。仕留めた者に伝えてくれ」




 ユネイラは頷いた。




 四人は村を出る前に、浜を歩いていた硬矢たちの横を通った。魔法使いが硬矢を見た。誉を見た。凪と梓乃を見た。目が、少しだけ止まった。




「——変な奴らがいるな」




 小声だった。聞こえていた。四人は振り返りもせず、山道に消えた。




 硬矢はその背中を見ていた。足運び、装備、目つき。そして、杖の石が光った時の空気。ガーズとは違う種類の強さだった。




 ——オーヴホールには、ああいう人間がいるのか。




---




 八日目の夕方。




 硬矢は南の小路に全員を集めた。




 大庭がカウンターの中に立っていた。六つのカップにコーヒーを注いだ。誰も、すぐには飲まなかった。




 硬矢が口を開いた。




「オーヴホールに行こうと思う」




 誰も驚かなかった。




「アーキさんが言っていた。山を五日越えた先に、大きな街がある。知識も記録もあると。——俺たちがなぜここに来たのか、帰る方法があるのか、何か分かるかもしれない」




 硬矢は大庭を見た。




「じいちゃんは」




「私はここにいる」




 大庭の声は静かだった。六日目の夜と同じ声だった。




「南の小路がある。三十年やってきた店だ。私が離れるわけにはいかん」




 硬矢は頷いた。分かっていた。




 八千代がカップを置いた。




「私もここにいるわ」




 硬矢が八千代を見た。




「八千代さん」




「足が悪いでしょう。山を五日も歩けないわよ」




 八千代は笑った。




「それに——ここ、居心地がいいの。ユネイラさんの家も、タミーラさんの酒場も。私はもう、ここでいいわ」




 諦めではなかった。硬矢にはそれが分かった。七十年生きてきた人間の、静かな選択だった。




「それにね、私がいないと、仁さんのお店にお客さんが来ないでしょう」




 大庭が顔を上げた。




「タミーラさんのところで会う人に、ここのコーヒーの話をしてるの。明日、二人ほど連れてくるわよ」




 大庭は何も言わなかった。カウンターを拭いていた。手が、少しだけ止まった。




---




 誉がカップを持ったまま言った。




「俺も行きます」




 凪を見た。凪は小さく頷いた。




「私も行く」




 誉が少し驚いた顔をした。




「凪——」




「誉くんが行くなら、私も行くよ」




 控えめな声だった。でも、迷いはなかった。




 梓乃がカップを置いた。




「私も行きます。ここにいても、分からないことが多すぎる。オーヴホールに記録があるなら、見たい」




 硬矢は四人を見た。自分、誉、凪、梓乃。四人で行く。




「じいちゃん。行ってくる」




「ああ」




 大庭はカウンターの向こうから、硬矢を見た。




「帰ってきたら、コーヒーを淹れる」




---




 その夜、大庭は棚を開けた。




 焙煎豆の袋を持ち上げた。軽くなっていた。




 五日目に村人に飲ませてから、毎日少しずつ減っている。八千代が連れてくる客にも出した。




 残りを量った。焙煎豆は、あと三百杯分ほど。




 一日に十杯出せば、一ヶ月。二十杯なら、半月。




 大庭は袋を棚に戻した。




 その隣に、生豆の袋が二つあった。持ち上げた。ずっしりと重かった。焙煎すれば使える。合わせれば三ヶ月は持つ。




 大庭は袋の口を開けた。薄緑の生豆が詰まっていた。手で掬った。硬くて、青臭かった。これを煎らなければ、コーヒーにはならない。




 店には焙煎機がなかった。三十年間、煎るのは機械の仕事だった。大庭は煎られた豆を挽き、淹れてきた。生豆を自分の手で煎ったことは、一度もない。




 鍋と薪でやれないことはないだろう。だが、この二袋は元の世界から持ってきた最後の生豆だ。失敗すれば、灰になる。




 三十年間、仕入れ先に電話一本で届いた豆が、もう届かない。




 ——それでも、閉めるわけにはいかん。




 大庭はエプロンを畳んだ。明日も店を開ける。それだけだった。




---




 硬矢は南の小路の外に出た。




 夜の草地に立って、空を見上げた。星が多かった。東京では見えなかった星が、ここでは見えた。




 明日、ガーズに道を訊く。準備をする。山を五日。決して楽な道のりではない。




 リザードマンの黄色い目を思い出した。鎧を着けた魔物。剣を持つ文化。この世界には、自分たちの知らないものがある。




 怖かった。




 でも、ここにいても何も変わらない。




 硬矢は店を振り返った。ガラス戸の向こうで、大庭がカウンターを拭いていた。




 ——帰ってくる場所は、ある。




 硬矢は草地を歩いて、南の小路に戻った。

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