# 第十話 嵐の後
翌朝、硬矢はガーズの家を訪ねた。
ガーズは家の前で網を繕っていた。穏やかな顔だった。昨日、剣を振っていた男と同じ人間には見えなかった。
「オーヴホールに行きたい」
硬矢は単刀直入に言った。ガーズは網から目を上げなかった。
「聞いた。四人で行くんだろう」
「はい。道のことを教えてほしい」
ガーズは手を止めた。硬矢を見た。
「今のお前たちでは死ぬ」
静かな声だった。否定ではなかった。事実だった。
「山を五日越える。道は整備されていない。獣もいる。魔物もいるかもしれん。お前たちは剣を持ったことがない。走り方も知らない。逃げ方も知らない」
硬矢は黙った。
「命のやり取りを経験しなさい」
ガーズが立ち上がった。
「南東の磯場に、小型の魔物がいる。岩蟹に似た奴だ。一匹なら大したことはない。だが群れると厄介だし、殺しにくる。あれを相手に、戦い方を覚えろ。斬り方じゃない。逃げるかどうかの判断を覚えろ」
「凪と梓乃さんは——」
「戦えなくていい。逃げられればいい。走り方、転び方、方角の見方。死なないための体の使い方を教える」
ガーズは網を畳んだ。
「せめて一ヶ月だ。それまでは行かせん」
硬矢は頷いた。だが、一つ引っかかっていた。
「——訓練の間、漁は」
ガーズが硬矢を見た。
「ミヤイナに言われたか」
「いえ。でも、食わせてもらっている以上——」
「分かっている」
ガーズは網を肩にかけた。
「午前は漁を手伝え。網を引け。船を漕げ。岩場を歩け。それが体を作る。午後に棒を持て」
硬矢は少し驚いた。ガーズは当然のことを言うように続けた。
「漁師の仕事は訓練だ。重いものを持つ。波の中で踏ん張る。風を読む。山を越えるのに必要なことは、全部海にある」
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訓練は翌日から始まった。
午前は漁だった。
硬矢と誉は漁師たちに混じって網を引いた。最初は邪魔にしかならなかった。綱の握り方が分からない。引くタイミングが合わない。漁師が舌打ちした。
誉は力任せに引いた。網が絡んだ。漁師に怒鳴られた。
「すみません」
「謝るな。手を動かせ」
三日目に、硬矢は綱を引くタイミングが分かり始めた。波が引く瞬間に合わせる。体重を使う。腕だけで引くと一日持たない。
誉は五日目に漁師から「まあ、使える」と言われた。嬉しそうだった。
凪と梓乃は、浜で魚の仕分けと干物作りを手伝った。ミヤイナが指示を出した。
「切り方が雑だ。もう一回」
梓乃は黙ってやり直した。営業で鍛えた忍耐だった。凪は手先が器用だった。干物の並べ方を一度で覚えた。ミヤイナは何も言わなかったが、二度目からは凪に任せた。
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午後は訓練だった。
ガーズは硬矢と誉に木の棒を持たせた。剣の代わりだった。
「振るな。まず構えろ」
構え方を教わった。足の幅。膝の角度。重心の位置。ガーズが棒で硬矢の膝を叩いた。痛かった。
「低い。もっと落とせ」
誉は体が先に動いた。構えを教わる前に棒を振った。ガーズが誉の棒を弾いて、足を払った。誉が砂の上に転がった。
「振るなと言った」
誉は砂を吐いて立ち上がった。
「すみません」
「謝るな。次」
硬矢は構えるだけで午後が終わった。誉は七回転がった。
午前に網を引いた腕が震えていた。握力が残っていなかった。棒を落とした。ガーズは何も言わなかった。
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磯場の訓練は、三日目の午後から始まった。
南東の海岸は岩場が続いていた。潮が引くと、岩の隙間に小型の魔物がいた。甲殻に覆われた、蟹に似た生き物だった。体長は三十センチほど。鋏は鋭く、岩を削る力がある。
ガーズが一匹を棒で突いた。魔物が鋏を振り上げた。
「こいつは正面から来る。横に回れ。甲殻の継ぎ目を狙え」
硬矢が棒を構えた。魔物が突進してきた。硬矢は横に跳んだ。棒を振り下ろした。甲殻の上を滑った。効いていない。
「継ぎ目だと言った。見ろ。どこが弱い」
硬矢は目を凝らした。甲殻の腹側、脚の付け根に隙間があった。
「——あそこ」
「そうだ。見えるなら、当てろ」
当てるまでに、三回鋏で切られた。浅い傷だった。だが血が出た。
誉は二匹目で鋏を掴んだ。力任せだった。ガーズが棒で誉の手を叩いた。
「素手で触るな。死にたいのか」
「いや、いけると思って——」
「いけると思った時が一番危ない。覚えておけ」
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凪と梓乃は、午後の仕分けが終わると別の訓練をした。
ガーズは二人に走らせた。浜を端から端まで。砂の上を走るのは、地面とは違った。足が沈む。体力を奪われる。
「走れなくなったら歩け。歩けなくなったら這え。止まるな」
凪は黙って走った。梓乃は意外と速かった。営業で歩き回っていた脚が、ここで活きた。
五日目から、ガーズは二人に方角の見方を教えた。太陽の位置。影の向き。風の方向。
「迷ったら、海の音を聞け。海が聞こえる方に走れば、少なくとも村には戻れる」
凪が小さく頷いた。
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日が経った。
硬矢の手には豆ができた。網を引く手と棒を振る手、両方が痛んだ。だが、朝の漁で体が作られていくのが分かった。足腰が安定した。岩場で滑らなくなった。魔物の動きが少しずつ見えるようになった。どこが弱いか。どう動くか。いつ逃げるか。
誉は体で覚えた。理屈ではなく、反復で。七日目に初めて一匹を仕留めた。ガーズが「遅い」と言った。誉は笑った。
ザートが訓練に加わった。ガーズに頼んだのではなく、勝手に来た。
「俺も教えてくれ」
ガーズは何も言わずに棒を渡した。ザートは誉より筋が良かった。体の使い方を知っていた。海で育った体だった。
誉とザートは磯場で並んで魔物を追った。言葉は少なかった。だが、背中を預けていた。
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二十日目の朝、空が変わった。
雲が低かった。風が湿っていた。ユネイラが浜に出て、空を見上げた。
「嵐が来る。船を上げろ。網を仕舞え」
漁師たちが動いた。硬矢も手伝った。二十日間、毎朝やってきたことだった。船を浜の上まで引き上げた。家の戸板を補強した。井戸に蓋をした。漁師の一人が硬矢に声をかけた。
「そっちの綱、先に結べ」
指示だった。だが、初日とは違った。使い物になる人間への指示だった。
午後から風が強くなった。夜には雨が叩きつけた。
嵐は三日続いた。
南の小路の中は静かだった。大庭がコーヒーを淹れた。八千代が椅子に座っていた。凪と梓乃もいた。漁師の妻が二人、子供を連れて来ていた。ザートの母親もいた。外は暴風だったが、店の中だけは穏やかだった。
子供が窓に張りついて、風に飛ばされる木の葉を見ていた。漁師の妻が「離れなさい」と言ったが、子供は聞かなかった。八千代が「大丈夫よ、この窓は頑丈だから」と笑った。根拠はなかった。
八千代が言った。
「台風みたいねぇ」
大庭がカップを置いた。
「台風より長い」
「東京だったら、電車が止まって大変だったわね」
八千代は笑った。ここには電車がない。止まるものがない。ただ風が吹いて、雨が降って、過ぎるのを待つだけだった。
ザートの母親がコーヒーを一口飲んで、小さく目を閉じた。何も言わなかった。二杯目を頼んだ。
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四日目の朝、嵐が止んだ。
空が晴れていた。風は残っていたが、雨は上がっていた。
大庭は漁師のヨルグに声をかけた。
ヨルグは八千代が南の小路に連れてきた客だった。最初は「婆さんに付き合わされた」という顔をしていたが、コーヒーを一杯飲んで、二杯目を頼んだ。それから何度か顔を出すようになった。
八千代から聞いていた。「浜の東の方で、シラスみたいな小さい魚が獲れるんですって」。タミーラの酒場で漁師の妻から聞いた話だった。
「嵐の後なら、潮溜まりに残ってるかもしれんな」
ヨルグは網を肩にかけたまま言った。
「見に行くか」
二人で浜の東端まで歩いた。岩場の手前。潮が引いた後の砂浜に、流木が散らばっていた。嵐が運んできたものだった。
ヨルグが足を止めた。
「——船だ」
流木の向こうに、船の残骸があった。小さな船だった。帆柱が折れて、船体が横倒しになっていた。板が割れて、中身が砂の上に散らばっていた。
ヨルグが駆け寄った。大庭もその後を追った。
人がいた。
二人、砂の上に倒れていた。一人は仰向けで、もう一人はうつ伏せだった。どちらも動いていなかった。
ヨルグが屈んで脈を探った。
「生きてる。——俺が村に戻って人を呼んでくる。大庭、ここにいろ。動かすな」
ヨルグは立ち上がると、砂を蹴って走った。漁師の脚だった。大庭には出せない速さで、あっという間に浜の向こうに消えた。
大庭は倒れている二人のそばに膝をついた。呼吸はある。浅いが、ある。
待っている間、目が散らばった荷物を追った。
足元に、麻袋があった。
口が開いていた。中身が少しこぼれていた。大庭は砂の上に散らばったものを見た。
小さな、硬い粒だった。薄い殻に覆われている。形は楕円。大きさは小指の爪ほど。
三十年間、毎週届いていた。業者から届く麻袋の中に、いつも入っていた。焙煎する前の、生の豆。パーチメント。殻付きの生豆だった。
大庭の手が止まった。
この世界では、誰もこれの価値を知らない。果肉はジャムにする。葉は嗜好品にする。だが種は捨てる。廃棄物だ。
大庭だけが知っていた。この粒が何になるかを。
砂の上に座ったまま、大庭は粒を一つ拾い上げた。指の腹で殻の感触を確かめた。間違いない。
遠くから、声が聞こえた。ヨルグが村人を連れて戻ってくる足音だった。
大庭は粒を静かに袋に戻した。




