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# 第十一話 漂着者

 漂着者は二日間、目を覚まさなかった。




 嵐の翌朝、浜から運んできた。硬矢とヨルグと漁師が二人、担架代わりの板に乗せて、ユネイラの家まで運んだ。ユネイラは戸口に立って、運ばれてくる二人を見ていた。




 毛布を二枚出した。水を枕元に置いた。包帯を巻いた。




 それから、誰に言うでもなく呟いた。




「——回復したら、出て行ってもらうからね」




 硬矢は聞こえていた。でも分からなかった。




 怪我人を助けたのはユネイラだった。浜から運ぶのを指示したのもユネイラだった。毛布を出して、水を置いて、朝と夕方に包帯を替えに来ていた。




 なのに、口だけが冷たい。




 ——なんでだろう。




 硬矢は訊かなかった。ユネイラに理由を訊いても、答えが返ってくる気がしなかった。




---




 三日目の朝、一人が目を覚ました。




 若い男だった。日に焼けた肌。短い黒髪。体つきは細いが、腕に筋がついていた。年は硬矢と同じくらいに見えた。左の前腕に、鳥の入れ墨があった。




 ユネイラが水を差し出した。男は受け取って、一口飲んだ。周囲を見回した。




「ここは」




「漁村だ。お前たちは浜に打ち上げられていた」




 男は黙った。しばらく天井を見ていた。




「——船は」




「壊れている。使い物にならん」




 男は目を閉じた。何かを考えているようだった。




「俺たちは船乗りだ。嵐にやられた」




 ユネイラは腕を組んだ。




「どこへ向かっていた」




 男は少しだけ間を置いた。




「南の方から来た。交易の途中だった」




 ユネイラは何も言わなかった。この海域を走る小型船で、あの方角から来たなら、行き先はおおよそ見当がつく。ユネイラの目がそう言っていた。




「名前は」




「——トンビ」




 ユネイラは一瞬だけ男の腕を見た。鳥の入れ墨。偽名だろう。だが、追及しなかった。




「体が動くようになったら、出て行ってもらう。村に余分な食い扶持はない」




 トンビは頷いた。




---




 もう一人は、さらに二日遅れて目を覚ました。同じくらいの年齢の男だった。痩せていて、目が細い。口を開かなかった。水を飲んで、また眠った。




 翌日、ユネイラが名前を訊いた。




「——イシ」




 それだけ言って、また黙った。トンビがイシに指示を出す様子から、上下関係があるのは明らかだった。




---




 五日目。トンビが歩けるようになった。




 ユネイラの家を出て、村の中を歩いた。漁師たちはトンビを見たが、誰も声をかけなかった。ユネイラの態度を知っていた。村長が歓迎していない客に、漁師が愛想を振る理由はない。




 トンビは浜を歩いた。壊れた船の残骸を見た。帆柱の折れた断面に手を触れて、しばらく立っていた。




 それから、村の中をもう一周した。酒場の前を通り、井戸の前を通り、子供たちが遊んでいる広場を通った。どこにも居場所はなかった。




 草地の先に、建物があった。




 木造の小さな建物。ガラスの扉。扉の向こうに、カウンターが見えた。




 トンビは立ち止まった。




---




 大庭はカウンターの中にいた。




 扉が開いた。見慣れない顔だった。日に焼けた肌。船乗りの体つき。漂着者だと分かった。




 トンビは入口に立ったまま、店内を見回した。窓際の席。ボックス席。カウンター。木の匂い。




「——何の店だ」




「喫茶店です」




「きっさてん」




 トンビは聞き慣れない言葉を繰り返した。大庭は気にしなかった。




「座ってください」




 トンビはカウンターに座った。大庭がカップを出した。コーヒーを注いだ。




 トンビは黒い液体を見た。匂いを嗅いだ。眉をひそめた。




 一口飲んだ。




 顔が変わった。




「——何だ、これは」




「コーヒーです」




 トンビはカップを両手で包んだ。もう一口飲んだ。目を閉じた。




 大庭は何も訊かなかった。どこから来たのか。何をしていたのか。なぜここにいるのか。訊かなかった。




 トンビはカップを空にした。




「もう一杯、頼めるか」




「どうぞ」




 大庭が二杯目を注いだ。トンビは両手でカップを包んだまま、しばらく黙っていた。




---




 それから、トンビは毎日来た。




 朝、村の中を歩いて、どこにも居場所がなくて、南の小路に来た。カウンターに座って、コーヒーを飲んだ。大庭は何も訊かなかった。トンビも何も言わなかった。




 八千代が来ると、トンビは少しだけ身を引いた。常連の場所を取るまいとしていた。八千代は気にしなかった。




「あら、新しいお客さん」




 トンビは頷いた。八千代は隣に座った。




「ここのコーヒー、おいしいでしょう」




「——ああ」




 それだけだった。だが、トンビの肩が少しだけ下がった。




---




 硬矢は訓練の合間に南の小路に戻ると、トンビがカウンターにいるのを見た。大庭がカップを拭いていた。トンビは何も言わず座っていた。




 その光景に、硬矢は少しだけ違和感を覚えた。




 トンビが大庭の前にいる時の空気が、妙に自然だった。初めて会った人間同士の距離ではなかった。トンビの座り方。背中の力の抜け方。カップの持ち方。




 ——慣れている。この空気に慣れている顔だ。




 硬矢にはそれが分かった。十年間、カウンターの向こう側から客を見てきた。人が「初めての店」にいる時の体の硬さを知っていた。トンビにはそれがなかった。






---




 六日目の夕方。トンビがカウンターでコーヒーを飲んでいた。大庭がカップを拭いていた。




 硬矢は水を運びながら、何気なく口を開いた。




「浜に流れ着いた荷物の中に、麻袋があった。中に粒が入ってた」




 トンビはカップから目を上げた。




「——ああ。果肉を剥いた後の種だ。捨てるものだ」




 大庭の手が止まった。一瞬だけ。すぐにカップを拭く動きに戻った。




「もらえますか」




 大庭の声は静かだった。トンビは少し不思議そうな顔をした。




「好きにしろ。どうせ海に捨てるものだ」




「ありがとうございます」




 大庭は頭を下げた。トンビは首を傾げた。捨てるものに礼を言う男を、少しだけ面白そうに見ていた。




「——それで何か作るのか」




 大庭は答えなかった。ただ、カップを拭く手が少しだけ丁寧になった。




 トンビはそれ以上訊かなかった。カップの中の黒い液体を見て、それから大庭を見た。




「今度、それを飲ませてくれ」




 大庭は少しだけ笑った。硬矢は初めて見る顔だった。困ったような、嬉しいような、どちらとも取れない顔だった。




---




 七日目の夜。




 硬矢は南の小路の二階に上がった。大庭が棚の前に立っていた。




 麻袋が五つ、並んでいた。トンビからもらった、あの袋。




 大庭の手が袋に触れていた。口を開けて、中の粒を見ていた。閉じた。また開けた。




 硬矢は階段の途中で足を止めた。




 大庭は気づいていなかった。袋の口を開けたまま、粒を一つ摘んで、指の腹で転がしていた。




 ——じいちゃん。




 硬矢は声をかけなかった。




 十年間、店を手伝ってきた。大庭が何かを試したくてたまらない時の顔を知っていた。新しい豆が届いた時。産地の違う豆を初めて手にした時。あの時と同じ顔だった。




 ただ、今回は違った。焙煎機はない。ガスコンロもない。温度計もない。あるのは炭火と、鉄の鍋と、大庭の手だけだった。




 大庭は粒を袋に戻した。袋の口を閉じた。棚に戻した。




 振り返った。硬矢と目が合った。




「——起きてたのか」




「ああ」




 大庭はエプロンを畳んだ。何も言わなかった。硬矢も何も訊かなかった。




 だが、大庭の目は諦めていなかった。




---




 九日目の昼。




 南の小路に、見慣れない男が入ってきた。




 革の外套。背中に剣。腰に小さな袋をいくつもぶら下げている。冒険者だった。オーヴホールから海沿いを歩いてきたと言った。




「ゼスって村があると聞いてな。補給できる場所を探していた」




 大庭が水を出した。男は礼を言って飲んだ。




「変わった店だな。こんな村にこんな場所があるとは思わなかった」




 コーヒーを出した。男は一口飲んで、目を丸くした。




「——うまいな。何だこれは」




「コーヒーです」




 男はカウンターに肘をついて、二杯目を頼んだ。トンビが隅の席にいた。二人は目を合わせなかった。




 男が話し始めた。オーヴホールの話。ダンジョンの話。冒険者ギルドの話。大庭は黙って聞いていた。硬矢は入口の近くに立って、汗を拭きながら聞いていた。




---




 冒険者が去った後、トンビがカウンターに移った。




「店主」




 トンビが大庭に話しかけた。




「この飲み物——何から作っている」




 大庭は少し考えた。




「豆です。焙煎して、挽いて、湯を通す」




「焙煎」




「火で煎ることです。温度が大事で——」




 大庭は言いかけて、やめた。トンビは黙ってカップの中を見ていた。




「——うまいものだな」




 トンビはそれだけ言って、カップを空にした。




 立ち上がる時、トンビの目が一瞬だけ遠くを見た。何かを計算しているような目だった。




 硬矢はそれを見ていた。

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