# 第十二話 炭火
大庭が焙煎を始めたのは、トンビが豆をくれた翌日だった。
硬矢が朝、二階に上がると、大庭はもう起きていた。裏口の外に七輪を出して、炭を熾していた。鉄の鍋を火にかけていた。中に、あの粒が入っていた。
「じいちゃん」
「ああ。少し試す」
大庭の声は静かだった。だが目が違った。昨夜、棚の前で粒を転がしていた時の目と同じだった。
硬矢は黙って見ていた。
大庭が鍋を揺すった。炭火の上で、鉄の鍋がゆっくり回った。粒が鍋底を転がる音がした。乾いた、小さな音だった。
しばらくすると、粒の表面から薄い皮が剥がれ始めた。風に乗って、ひらひらと飛んだ。大庭は鍋を揺すりながら、口で息を吹いて皮を飛ばした。皮が炭に落ちて、小さく焦げた。甘い煙の匂いがした。
生の豆の青臭い匂いが消えて、別の匂いが立ち始めた。焦げではない。もっと手前の、甘い煙のような匂い。
大庭は耳を傾けていた。鍋の中から、かすかな音がした。パチ、パチ、と。甲高い、弾けるような音。
だが大庭の顔が曇った。音がまばらだった。片側だけが鳴っている。鍋の中で、火の当たり方が均一ではなかった。
大庭の手が止まった。鍋を火から下ろした。蓋を開けた。
粒は茶色くなっていた。まだらに。片側だけ濃くて、反対側は薄い。均一ではなかった。音の通りだった。
大庭は一粒を摘んで、指で割った。中を見た。
「——浅い」
硬矢には分からなかった。だが大庭の顔を見れば分かった。失敗だった。
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二日目。大庭は炭の量を変えた。
七輪の炭を半分に減らした。火力を落として、時間をかけた。鍋を揺する速度も変えた。ゆっくり、一定のリズムで。薄皮が剥がれるたびに、息で吹いた。鍋の縁に溜まった皮を指で払った。
匂いが立つまでの時間が長くなった。硬矢は店の掃除をしながら、裏口から漏れてくる匂いを嗅いでいた。
パチパチという音が聞こえた。昨日より揃っている。大庭はその音を聞きながら、鍋を揺すり続けた。
音が変わった。パチパチが収まって、もっと細かい、低い音になった。ピチ、ピチ、と。豆の表面に油が滲み始めていた。
大庭が鍋を下ろした。蓋を開けた。
今度は黒かった。全体が均一に黒い。だが、黒すぎた。
大庭は一粒を割った。中まで黒かった。
「——焦がした」
硬矢は裏口から覗いていた。大庭は鍋を見つめていた。
「火から下ろしても、豆の熱で焼きが進む。その分を読めなかった」
大庭はそれ以上何も言わなかった。黒い粒を鍋から出して、裏口の隅に置いた。
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三日目。四日目。五日目。
大庭は毎朝、裏口で鍋を振った。炭の量を変え、距離を変え、鍋を揺する速度を変えた。一日に何度も。朝だけではなかった。昼も、夕方も。
硬矢は見ていた。大庭は鍋を振りながら、三つのことを同時にやっていた。
耳で、音を聞いていた。パチパチという甲高い音が来るのを待ち、その音がどこで変わるかを聞いていた。
鼻で、煙を嗅いでいた。甘い煙が立ち始める瞬間と、それが焦げに変わる手前の匂いを嗅ぎ分けていた。
目で、薄皮を見ていた。鍋を揺するたびに剥がれて飛ぶ薄い皮を、息で吹き飛ばしながら、豆の色の変化を追っていた。
だが炭火は安定しなかった。風が吹けば温度が変わった。鍋の位置を少しずらしただけで、火の当たり方が変わった。焙煎機なら一度単位で管理できた温度を、大庭は手の感覚だけで追いかけていた。
硬矢は訓練に出る前に、裏口を覗いた。大庭が鍋を振っていた。訓練から戻ると、裏口の隅に失敗した豆が増えていた。朝より明らかに多い。
五袋あった麻袋のうち、一袋目が五日で空になった。
五日目の夕方、硬矢はカウンターを拭きながら訊いた。
「うまくいかない?」
大庭はカップを磨いていた。
「温度が分からん」
硬矢は手を止めた。
「焙煎機には温度計がついていた。一度単位で管理できた。ここにはそれがない。炭火の温度は安定しない。風が吹けば変わる。鍋の位置を一センチずらせば変わる」
大庭は磨いていたカップを棚に戻した。
「音は聞こえる。匂いも分かる。だが、それだけじゃ足りない。温度が読めなければ、狙った色に止められない」
硬矢は黙っていた。
「——手で覚えるしかない」
大庭の声は静かだった。三十年間、温度計と焙煎機で管理してきた男が、炭火と鉄の鍋だけで同じことをやろうとしている。
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十日目の朝。
硬矢が訓練に出る前に裏口を覗くと、大庭が鍋を火から下ろしていた。
だが、いつもと違った。大庭は鍋を下ろした瞬間に、用意していた木の板の上に豆を広げた。素早く、一気に。そして団扇のように平たい板で豆を煽った。
硬矢は見ていた。大庭が豆を冷ましている。火から下ろした後も豆の熱で焼きが進む——二日目に学んだことだった。だから、狙った色の手前で下ろして、一気に冷やす。
豆が冷めた。大庭は一粒を割った。中を見た。しばらく見ていた。
「——近い」
大庭の声が小さく震えた。硬矢は聞き逃さなかった。
大庭は粒を石臼で挽いた。南の小路にあった手回しミルではなく、村で借りた石臼だった。粒が粉になった。粗い。均一ではない。だが、粉になった。
湯を沸かした。布で濾した。黒い液体がカップに落ちた。
大庭がカップを持ち上げた。匂いを嗅いだ。
一口、飲んだ。
硬矢は大庭の顔を見ていた。
大庭は目を閉じた。しばらく黙っていた。カップを置いた。
「——コーヒーだ」
声が掠れていた。
「まだ全然だめだ。酸味が強すぎる。雑味もある。挽き方も粗い。元の店で出したら、客に出せるものじゃない」
大庭はカップの中の黒い液体を見た。
「——でも、コーヒーだ」
硬矢は何も言わなかった。大庭の目が赤かった。
十日で、三袋目に手をつけていた。
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その日の午後、トンビがカウンターに座った。
大庭がカップを出した。いつもの在庫の豆で淹れたコーヒーではなかった。
トンビは一口飲んだ。眉をひそめた。
「——いつもと違うな」
「あの豆で淹れました」
トンビはカップを見た。大庭を見た。
「あの種で、これを作ったのか」
「まだ全然です。酸味が強い。雑味もある」
トンビはもう一口飲んだ。
「——悪くない」
大庭は少しだけ笑った。あの困ったような、嬉しいような顔だった。
トンビはカップを空にした。
「店主。俺たちはそろそろ出る」
大庭の手が止まった。
「船は直せん。だが、陸路でオーヴホールまで出れば、そこからもっと西への船を探せる。イシの怪我も治った」
大庭は黙っていた。
「——豆は、また届けられるか」
大庭の声は静かだった。トンビは少しだけ間を置いた。
「届ける。次にこの海域を通る時に、寄る」
「いつ頃に」
「分からん。二ヶ月か、三ヶ月か。航路と天候次第だ」
大庭は頷いた。
「待っています」
トンビはカウンターに手を置いた。指で木目をなぞった。
「——この飲み物は、売れる」
大庭は何も言わなかった。
「アウストリアに持っていけば、高く売れる。葉やジャムより珍しい。俺の目は確かだ」
トンビは立ち上がった。
「店主。お前が作るものには、値がつく」
大庭は頭を下げた。トンビは背を向けた。扉に手をかけて、振り返った。
「——うまいコーヒーを作っておけ。次に来た時に飲む」
扉が閉まった。
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翌朝、トンビとイシが村を出た。
ユネイラが見送った。見送りというより、確認だった。二人が丘の道を登っていくのを、腕を組んで見ていた。
硬矢も見ていた。南の小路の前に立って、二人の背中を見ていた。
トンビが一度だけ振り返った。南の小路の方を見た。手は上げなかった。ただ見て、前を向いた。
イシは振り返らなかった。
二人の姿が丘の向こうに消えた。
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トンビが去った後も、大庭は止まらなかった。
朝、昼、夕方。一日に三度、四度と鍋を振った。裏口の隅に積まれた失敗の豆は、もう小さな山になっていた。薄皮の燃えかすが、七輪の周りに散らばっていた。
硬矢は数えていた。五袋のうち、三袋目がもう半分を切っている。十日で三袋目。このペースなら、一ヶ月で三袋は使い切る。
五ヶ月分の豆を、一ヶ月で三ヶ月分使う。残りは二袋。二ヶ月分。
大庭はそれを分かっていた。分かっていて、鍋を振った。
十五日目。酸味が少し落ち着いた。大庭は火から下ろすタイミングを掴み始めていた。パチパチという音が収まりかけた瞬間に下ろして、板の上で一気に冷やす。余熱の分を、手が覚え始めていた。
十八日目。雑味が減った。薄皮の処理が丁寧になった。鍋を揺するたびに剥がれる皮を、一枚も残さず吹き飛ばしていた。皮が残ると焦げて、雑味になる。大庭はそれを十八日かけて体で覚えた。
二十日目。石臼の挽き方を変えた。粗さが少しだけ均一になった。
硬矢は毎日、味見をした。大庭が「どうだ」と訊いた。硬矢は正直に答えた。
「まだ苦い。でも昨日より良い」
大庭は頷いた。
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二十五日目の朝。
大庭が淹れたコーヒーを、硬矢が飲んだ。
一口目で、硬矢は手を止めた。
「——じいちゃん」
「うん」
「これ、飲める」
大庭は何も言わなかった。カップを磨いていた。
「飲めるじゃなくて——うまい。ちゃんとうまい」
大庭の手が少しだけ震えた。すぐに戻った。
「まだだ。まだ粗い。温度の安定が足りない。挽き方ももっと詰められる。——それに、まだ一つの色しか出せていない」
「一つの色?」
「元の店では、深煎りと中煎りを使い分けていた。食事の客には中煎り。コーヒーだけの客には深煎り。客に合わせて、出し分けていた」
大庭はカップを棚に戻した。
「今はまだ、一つの焼き加減を安定させるので精一杯だ。煎り分けは、その先の話だ」
背中を向けたまま、少しだけ黙った。
「——ありがとう」
硬矢は大庭の背中を見ていた。小さな背中だった。七十六歳の、痩せた背中だった。
この人は諦めなかった。焙煎機がなくても。温度計がなくても。元の世界に帰れなくても。
炭火と鉄の鍋と、三十年の手だけで、コーヒーを作った。
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一ヶ月が経った。
三袋目が空になった日、硬矢は裏口の隅を見た。失敗した豆の山。三ヶ月分の豆が、一ヶ月でここに積まれた。大庭の執念の跡だった。
残りは二袋。大庭の手が安定した今なら、二ヶ月は持つ。
在庫の豆はとうに尽きていた。大庭は炭火焙煎の豆でコーヒーを淹れた。八千代に出した。
八千代は一口飲んだ。
「あら」
少し首を傾げた。
「——味が変わったわね」
「豆が変わりました」
「そう」
八千代はもう一口飲んだ。
「おいしいわよ」
大庭は頭を下げた。
硬矢はカウンターの端から見ていた。大庭の横顔が、少しだけ柔らかかった。
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同じ日の夕方、ガーズが南の小路に来た。
「硬矢。明日で最後だ」
硬矢は手を止めた。
「一ヶ月。約束通りだ。最低限のことは教えた。あとは実戦で覚えろ」
ガーズはカウンターに座った。大庭がコーヒーを出した。ガーズは一口飲んで、少しだけ目を細めた。
「——うまくなったな、これ」
大庭は何も言わなかった。カップを拭いていた。
硬矢はガーズの背中と、大庭の背中を交互に見ていた。
一ヶ月。ガーズは硬矢に剣の構え方を教えた。大庭は炭火でコーヒーを作った。二人とも、この一ヶ月を無駄にしなかった。
南の小路の寿命が、二ヶ月伸びた。トンビが戻るまで、持つかもしれない。




