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# 第十三話 旅立ち

 朝が来た。




 硬矢が目を覚ました時、大庭はもう起きていた。カウンターの中に立っていた。エプロンをつけていた。




 いつもと同じだった。




「おはよう」




「おはよう」




 大庭がカップを出した。コーヒーを注いだ。炭火焙煎の、あの豆だった。




 一口飲んだ。




 ——濃い。




 いつもより、ずっと濃かった。苦味が舌の奥に残った。体の芯まで届くような味だった。




 硬矢はカップを見た。大庭はもう背を向けていた。棚を拭いていた。




 何も言わなかった。硬矢も、何も言わなかった。




 全部飲んだ。




 カップを置いた。




「じいちゃん。行ってくる」




「ああ」




 大庭はカップを拭いていた。手は止まらなかった。




---




 浜に出ると、空が白かった。




 東の水平線が薄く光っていた。風はなかった。




 誉とザートが先に来ていた。二人とも荷を背負っていた。




 誉の腰に、短い剣が差してあった。ガーズが貸したものだった。




「重い」




 誉が笑った。




「でも、なんか冒険っぽいな」




 ザートが誉の荷紐に手を伸ばした。




「肩じゃなくて腰で受けろ」




 紐の位置を変えた。背負い直すと、誉の顔が変わった。




「——あ、楽になった」




「ガーズさんに教わった」




 ザートは自分の荷を軽く揺すった。慣れた動きだった。




---




 凪が来た。梓乃が隣にいた。




 凪は誉の隣に立った。荷を見て、腰の剣を見た。




「似合うね」




「そうか?」




 誉が少し照れた。凪は笑った。




---




 ガーズが丘の方から歩いてきた。




 硬矢の前に立った。革の鞘に入った短剣を差し出した。誉に貸したものとは違う。もう少し長く、刃が厚い。




「持っていけ」




 重かった。




「構えてから振るまでに、考えるな。考えるのは構える前だ」




 硬矢は頷いた。ガーズの目は穏やかだった。訓練の時とは違う目だった。




「尾根を外れるな。二日目の水場を過ぎたら、獣が増える。夜は火を絶やすな」




 ガーズはザートを見た。




「お前が先頭を歩け」




 ザートが頷いた。




「子供たちのことは——」




「ヨーシュに任せた」




 ガーズは少しだけ笑った。




「お前が選んだなら、大丈夫だろう」




---




 ユネイラが来た。




 腕を組んで、五人を見た。




「ザート。着いたら、すぐに戻れ」




「はい」




 ユネイラは硬矢を見た。




「——死ぬなよ」




 それだけだった。振り返って、浜を歩いていった。




---




 五人が丘の道に向かう前に、硬矢は店の方を振り返った。




 八千代が南の小路の前に立っていた。手を振った。小さく、ゆっくりと。




 硬矢は手を上げた。




 ガラス戸の向こうに、大庭が見えた。カウンターの中に立っていた。カップを拭いていた。




 目が合った。




 大庭は軽く顎を引いた。それだけだった。




 ——いつもの、お客さんが帰る時の顔だ。




 硬矢はそれを見て、少しだけ笑った。泣きそうだった。でも笑った。




 大庭は手を止めなかった。カップを拭いて、棚に戻した。次のカップを取った。




 店は開いている。いつも通りに。




---




 丘の道を登った。




 ザートが先頭。硬矢が二番目。梓乃、凪、誉。




 朝日が昇った。丘の上から振り返ると、村が見えた。浜に並ぶ家。干し網。引き上げられた船。




 南の小路の屋根が、小さく見えた。




 凪が立ち止まった。




「——行こう」




 誉が言った。凪は頷いた。前を向いた。




 丘を越えると、村は見えなくなった。




---




 山道が始まった。木々が頭上を覆った。光が斑になった。土の匂いがした。




 ザートが振り返らずに言った。




「ペースを落とすな。日が高いうちに、最初の尾根を越える」




 五人は歩いた。誰も振り返らなかった。




 道は細かった。獣道に近い。ザートは迷わなかった。枝を避け、根を跨ぎ、時々立ち止まって木の幹に刻まれた印を確かめた。




「ガーズさんの印だ。昔つけたらしい」




 硬矢は足元を見ていた。土が柔らかい。靴が沈む。元の世界のスニーカーだった。底が減ってきている。




 梓乃が少し遅れた。硬矢が振り返ると、梓乃は黙って歩いていた。息が上がっていた。でも止まらなかった。




---




 昼前に、尾根に出た。




 木々が途切れた。風が吹いた。




 南を見ると、海が光っていた。ゼスの入江は見えなかった。丘陵が重なって、隠していた。




 北を見ると、山が続いていた。尾根が波のように連なっていた。緑が濃かった。




「——広いな」




 誉が言った。




 誰も答えなかった。答える必要がなかった。




 ザートが水袋を回した。一人ずつ飲んだ。




「ここから下って、谷を一つ越える。水場がある。そこで飯にする」




---




 谷を下りた。沢があった。水が冷たかった。




 五人は沢の脇に座った。干し肉を噛んだ。硬い。顎が疲れた。




「これ、味しないな」




 誉が言った。




「塩が足りない」




 ザートが答えた。




「でも腹は膨れる」




 凪が水を飲んだ。干し肉をもう一切れ取った。黙って噛んだ。




 梓乃は沢の水で顔を洗った。冷たさに少し声を上げた。




「——気持ちいい」




 硬矢は沢の水を手で掬って飲んだ。甘かった。山の水だった。




---




 午後は登りが続いた。




 脚が重くなった。荷が肩に食い込んだ。ザートに教わった通り腰で受けていたが、それでも痛かった。




 誉は黙って歩いていた。朝の軽口が減った。凪も黙っていた。誉の後ろを、一定の距離で歩いていた。




 梓乃が一度、足を滑らせた。硬矢が腕を掴んだ。




「ありがとう」




 梓乃の手が冷たかった。




 ザートだけが変わらなかった。同じ速度で、同じ歩幅で、前を歩いた。時々振り返って、五人の間隔を確かめた。何も言わなかった。間隔が開きすぎたら、少しだけ速度を落とした。




---




 日が傾いた。




 ザートが足を止めた。尾根の少し下、風が当たらない窪地だった。




「ここで寝る」




 硬矢は荷を下ろした。肩が軽くなった。体が浮くような気がした。




 ザートが枯れ枝を集め始めた。硬矢と誉も手伝った。凪と梓乃が地面の石を除けて、寝る場所を作った。




 火を熾した。ザートが火打ち石を使った。慣れた手つきだった。乾いた草に火が移り、枝に燃え広がった。




 炎が揺れた。




 五人は火を囲んだ。干し肉と、干し魚を少し。水袋の水。それだけだった。




「——静かだな」




 硬矢が言った。




 虫の声がした。風が木の葉を揺らした。それだけだった。村の音がない。波の音がない。人の気配がない。




 誉が火を見ていた。




「なんか、すげえ遠くに来た気がする」




「一日だぞ」




 ザートが言った。




「まだ四日ある」




「分かってる」




 誉が短く答えた。火を見たまま、頷いた。




 凪が誉を見た。




 少し首を傾げた。




「……誉くん、喋り方変わった?」




「え?」




「なんか——ザートに似てきた」




 誉は目を丸くした。ザートを見た。ザートは火に枝を足していた。聞こえていないふりをしていた。




「似てねえよ」




「似てるよ。短くなった」




 凪が少しだけ笑った。一ヶ月前の誉は、もっと喋っていた。もっと余計なことを言っていた。




 誉は口を開きかけて、閉じた。




「——まあ、一ヶ月一緒にいたからな」




 ザートが枝を折った。火の粉が舞った。




「俺のせいにするな」




 誉が笑った。ザートも、少しだけ口の端が動いた。




 凪が誉の隣に座っていた。肩が触れていた。凪は火を見ていた。何も言わなかった。でも、さっきより少しだけ表情が柔らかかった。




 梓乃は少し離れた場所に座っていた。膝を抱えていた。火の明かりが顔を照らしていた。




「梓乃さん、大丈夫ですか」




 硬矢が訊いた。




「うん。足が痛いだけ」




 梓乃は笑った。




「——明日も歩けます」




 ザートが火に枝を足した。炎が大きくなった。




「寝ろ。交代で見張る。最初は俺がやる」




 誉が手を上げた。




「次、俺」




「その次は俺が」




 硬矢が言った。ザートは頷いた。




---




 硬矢は地面に横になった。土の匂いがした。背中に石が当たった。寝袋はない。上着を被っただけだった。




 火の音がした。ザートが座っている気配がした。




 空を見た。木の枝の隙間から、星が見えた。




 ——多い。




 元の世界では見たことがないくらい、星が多かった。




 硬矢は目を閉じた。




 コーヒーの匂いがした気がした。




 南の小路は、明日も開いているだろう。

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