# 第十四話 オーヴホール
ゼスから外に出るには、普通は船を使う。沿岸を渡って、オーヴホールの港に入る。だが今は漁の時期だった。船はすべて漁に出ている。外への便はない。
だから、山を越えるしかなかった。
丘陵地帯に入って二日目で、体が変わった。
一ヶ月の訓練で体力はついたと思っていた。走れた。剣を振れた。だが山道は別だった。足場が定まらない。石が滑る。根が引っかかる。同じ距離を歩いても、平地の倍は疲れた。
ザートだけが変わらなかった。自然の中で育った人間の足だった。歩幅が一定で、息が乱れなかった。
誉と凪は若さで耐えていた。きつそうな顔はしていたが、足は止まらなかった。
梓乃が一番堪えていた。口には出さなかった。遅れもしなかった。だが、休憩の時に座り込む深さが違った。膝を抱えて、しばらく動かなかった。太腿の筋肉が張っているのが、歩き方で分かった。都市の営業で歩き回る体力と、山道を登り続ける体力は、まるで別のものだった。
ザートは何も言わなかった。ただ、二日目の午後から、少しだけ歩く速度が落ちた。梓乃に合わせたのだと、硬矢は気づいていた。
三日目に、獣が出た。
リスに似ていた。ただし、犬ほどの大きさがあった。木の上から降ってきた。
最初に気づいたのは硬矢だった。枝が揺れた。風はなかった。揺れ方が、風と違った。
「上」
硬矢が言った時には、誉が動いていた。足元の石を拾って投げた。当たらなかった。だが獣の注意が逸れた。一瞬、頭がそちらを向いた。
ザートの剣が、その一瞬に入った。
獣は落ちた。動かなかった。
ザートが剣を拭いた。
「こいつは群れる。急ぐぞ」
五人は走った。誰も振り返らなかった。
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四日目の昼、尾根の上で、ザートが足を止めた。
手を上げた。全員が止まった。
ザートは何も言わなかった。ただ、谷の向こうを指した。
鹿だった。
角が木の枝のように広がっていた。体は馬より大きかった。白い毛が、日の光を受けて光っていた。
谷を挟んでいた。距離があった。それでも、空気が違った。
凪が誉の袖を掴んだ。誉は動かなかった。
鹿がこちらを見た。
目が合った。硬矢は息を止めた。体が動かなかった。恐怖ではなかった。もっと手前の、体が勝手に止まる感覚だった。
鹿は目を逸らした。ゆっくりと、谷の奥へ歩いていった。木々の間に消えた。
ザートが息を吐いた。
「——迂回する」
誰も異論はなかった。
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五日目。山が低くなった。
木々が減った。空が広くなった。尾根を下ると、道が広がった。獣道ではなかった。轍の跡があった。
平地に出た。
足が軽かった。地面が平らなだけで、こんなに違う。五日間、石と根と泥を踏み続けた足が、嘘のように前に出た。梓乃が小さく息を吐いた。初めて、歩くことが楽だという顔をしていた。
草原が広がっていた。風が吹いた。山の中とは違う風だった。湿り気がなく、遠くまで抜けていく風だった。
誉が立ち止まった。
「——広い」
山の中で五日間、木と土と岩しか見ていなかった。視界が一気に開けた。
凪が誉の隣に立った。何も言わなかった。風に髪が揺れた。
昼を過ぎた頃、前方に影が見えた。
建物だった。石の壁。塔。屋根が連なっていた。
近づくにつれて、輪郭がはっきりした。城壁があった。門があった。門は開いていた。
門の前に、人がいた。荷車を引く男。籠を背負った女。子供が走っていた。
——人がいる。
五日間、五人以外の人間を見ていなかった。
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門をくぐった。
石畳の道が続いていた。両側に建物が並んでいた。二階建て、三階建て。石と木で組まれた、しっかりした造りだった。
だが、半分は閉まっていた。
窓に板が打ちつけてある建物。草が生えた軒先。看板が外された跡だけが残る壁。
人は歩いていた。だが、建物の数に比べて少なかった。道が広すぎた。建物が多すぎた。人が足りなかった。
誉が周りを見ていた。口が開いていた。
「——すげえ」
凪も見ていた。目が大きくなっていた。
ゼスの二十軒とは、何もかも違った。
だが硬矢は別のことを見ていた。
通りを歩いた。酒場があった。宿屋があった。鍛冶屋があった。道具屋があった。
喫茶店はなかった。
コーヒーを出す店がなかった。茶を出す店もなかった。酒場はあった。飯屋はあった。だが、座って一杯の飲み物を飲むだけの店が、どこにもなかった。
——この世界には、ないのか。
硬矢はそれだけを思った。
梓乃が歩きながら、建物を見ていた。目が動いていた。通りの幅、建物の高さ、石畳の敷き方、水路の位置。
「計画的に作られてますね」
硬矢が振り返った。
「通りが碁盤の目になってる。水路が建物の裏を通ってる。排水を考えて設計されてます。——これ、相当な技術ですよ」
梓乃は壁に手を触れた。
「石の積み方も均一です。職人が揃っていた時代があったんでしょうね」
硬矢は通りを見た。立派な石畳。計画された水路。均一な石壁。そして、半分が閉まった窓。
——昔はすごかった街なんだ。
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ザートが宿を見つけた。通りの角にある、二階建ての建物だった。一階が酒場で、二階が部屋だった。
宿の主人は太った男だった。ザートを見て、硬矢たちを見て、少し目を細めた。
「五人か。部屋は二つ空いてる」
ザートが交渉した。硬矢には言葉の細かいところが分からなかったが、ザートの声は落ち着いていた。値段が決まった。
部屋に荷を置いた。硬矢と誉とザートが一部屋。梓乃と凪が一部屋。
ベッドがあった。五日ぶりの、地面ではない場所だった。誉がベッドに座って、すぐに倒れた。
「——やわらかい」
ザートが笑った。
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夕方、一階の酒場に五人が集まった。
木のテーブルに、パンと煮込みが並んだ。干し肉ではなかった。温かい食事だった。五日ぶりだった。
誉が煮込みを口に入れて、目を閉じた。
「——うまい」
凪も食べていた。小さく頷いていた。
ザートが水を飲んで、テーブルに肘をついた。
「明日の朝、ギルドに行く。鱗を持っていく」
硬矢が頷いた。
「俺も行く」
「ああ。来い。金の受け取りはお前がやれ」
「ここまでの宿と飯は、ユネイラさんから預かった金で出してる。——で、鱗の金だが」
ザートは水のカップを回した。
「ユネイラさんと話してある。鱗の金は、ほとんどお前たちの路銀にする。俺は帰りの分だけもらう」
硬矢は黙った。
「ユネイラさんが言ったんだ。『あいつらはこの先、金が要る。ザート、お前は村に帰れば飯がある』」
ザートは笑った。
「そういうことだ」
硬矢は何か言おうとした。言葉が出なかった。
「——ありがとう」
ザートは首を振った。
「礼はユネイラさんに言え」
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煮込みの皿が空になった頃、硬矢が口を開いた。
「アーキさんが言ってた。オーヴホールに行けば何か分かるかもしれないって」
ザートが頷いた。
「確かに、ゼスよりは情報がある。だが、何をどう調べる?」
硬矢は黙った。帰る方法。この世界のこと。自分たちがなぜここにいるのか。調べたいことは山ほどあった。だが、どこから手をつければいいのか分からなかった。
梓乃が顔を上げた。
「店主さんに聞いてみませんか」
ザートが手を上げて、店主を呼んだ。太った男がカウンターから出てきた。
「この街で、物を調べたい時はどこに行けばいい」
店主は腕を組んだ。
「調べもの? 学者か何かか」
「まあ、そんなところだ」
「蔵書庫だな。中央通りを北に行った突き当たりにある。一般に開放されてる。誰でも入れる」
店主はテーブルを拭きながら続けた。
「ただ、あそこの本を読んで分かるようなことなら、大抵の奴はもう知ってる。本当に変わったことを知りたいなら——」
店主は少し声を落とした。
「あそこにほとんど住んでるような娘がいる。みんな本の虫って呼んでる。若いのに、妙に物知りだ。一度読んだものは全部覚えてるって話だ」
「蔵書庫に住んでる?」
「住んでるようなもんだ。朝から晩までいる。飯もあそこで食ってるんじゃないか」
店主は首を振った。
「変わった娘だよ。だが、あの街の本のことなら、あいつの右に出る奴はいない」
硬矢は梓乃を見た。梓乃が小さく頷いた。
「——明日、行ってみよう」
ザートが水を飲んだ。
「俺と硬矢は朝、ギルドだ。蔵書庫はお前たち三人で先に行っておけ。換金が終わったら合流する」
梓乃が頷いた。
「道は分かりました。中央通りを北に、突き当たりですね」
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夜、硬矢はベッドに横になった。
天井があった。壁があった。風が入ってこなかった。
五日間、地面の上で寝た。石が背中に当たった。虫の声を聞いた。星を見た。
今は天井しか見えなかった。
隣のベッドで、誉がもう寝ていた。ザートも静かだった。
硬矢は目を閉じた。
蔵書庫。本の虫と呼ばれている娘。一度読んだものは全部覚えている。
そんな人間が、何を知っているのか。
——明日、会えばいい。
五日かけて、山を越えて、ここまで来た。
硬矢は寝返りを打った。
コーヒーの匂いがしない街だった。




