# 第八話 三本指
七日目の朝は、静かだった。
足跡は昨日だけだった。新しいものは見つからなかった。ユネイラは漁を近場に限定したまま、ガーズに浜の見回りを増やすよう指示した。
硬矢は浜で綱を引いていた。漁師たちの会話が耳に入った。
「あの足跡、何だったんだ」
「ミヤイナは獣じゃないって言ってたな」
「魔物じゃないのか」
「この辺りに魔物なんて出たことないだろ」
誰も答えを持っていなかった。硬矢も持っていなかった。ただ、あの三本指の爪跡が頭から離れなかった。
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昼を過ぎた頃だった。
硬矢は浜の西端で網を畳んでいた。ミヤイナの指示で、午後の漁は中止になっていた。漁師たちは道具の手入れをしていた。
声が聞こえた。
最初は何の声か分からなかった。浜の向こう、集落の方角。男の声だった。叫んでいた。
硬矢は手を止めた。
もう一度、声が聞こえた。今度は途切れた。途切れ方が、おかしかった。
漁師たちも顔を上げた。ミヤイナが立ち上がった。
「何だ」
集落の方から、別の声が上がった。女の悲鳴だった。
硬矢は走った。
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集落の東端、井戸の近くだった。
硬矢が駆けつけた時、最初に見えたのは血だった。
地面に男が倒れていた。漁師のトーマだった。朝、一緒に綱を引いていた男だった。胸から腹にかけて、三本の裂傷が走っていた。動いていなかった。
その向こうに、それがいた。
硬矢は足を止めた。
二足で立っていた。人間より一回り大きい。全身が暗い緑の鱗に覆われている。頭部は扁平で、口が横に長い。黄色い目が、縦に裂けた瞳孔で周囲を見回していた。
鎧を着ていた。
胸甲と肩当て。金属ではない。鱗を何層にも重ねて固めたような、異質な造りだった。ところどころ罅が入り、欠けている。腰には鞘があった。空だった。剣は持っていない。
腕が太い。指は三本。爪が長く、赤く濡れていた。
硬矢は息を止めた。
魔物だった。話に聞いたことはあった。だが、見るのは初めてだった。人間の形をしていて、人間ではないもの。鱗と爪と尾を持つ、二足歩行の獣。
——リザードマン。
鎧を着けている。鞘を持っている。ただの獣ではなかった。
その体には傷があった。腕に切傷。腹の鎧の隙間から深い裂け目が覗いている。左脚にも傷がある。血が鱗の隙間から滲んでいた。どこかで戦って、剣を失い、逃げてきたのだ。
リザードマンの前に、少女がいた。
ユネイラの娘だった。井戸に水を汲みに来ていたのだろう。桶が倒れて、水が地面に広がっていた。少女は腰を抜かして、動けなかった。
リザードマンが一歩踏み出した。
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横から、二つの声が上がった。
「どけえッ!」
ザートだった。集落の奥から全力で走ってきた。手には何も持っていなかった。
その半歩後ろに、誉がいた。
「こっちだ!」
誉が石を拾って投げた。リザードマンの肩当てに当たった。鱗の装甲の上で弾けた。効いてはいない。だが、リザードマンの目が少女から逸れた。
ザートが少女の前に滑り込んだ。誉がその横に並んだ。二人とも息が上がっていた。
リザードマンが腕を振った。
速かった。ザートが誉の腕を掴んで横に引いた。爪が二人の間を裂いた。風が頬を切った。
避けた。
だが、リザードマンの体が回った。尾が低く薙いだ。ザートの脚を打った。ザートが膝をついた。誉がザートを庇おうとして前に出た。リザードマンの腕が戻ってきた。誉の左肩を掠めた。布が裂けて、血が散った。
誉は歯を食いしばった。倒れなかった。
ザートが立ち上がった。脚を引きずっていた。二人とも少女の前に立った。リザードマンとの間に、体を置いた。
次は避けられない。二人とも分かっていた。
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「下がれ!」
ガーズの声だった。
家の方から走ってきた。右手に剣を持っていた。
漁師の道具ではなかった。片手半の直剣。柄は使い込まれているが、刃は研がれていた。もう要らないと思っていた剣だった。手入れだけは、やめられなかった。
ガーズがリザードマンの前に出た。剣を構えた。構えが変わった。腰が落ちて、重心が前に移った。漁師の体ではなかった。
「二人とも、娘を連れて下がれ」
ザートが誉の腕を取った。誉は動かなかった。
「行け」
ガーズの声は静かだった。船の上の声だった。
誉がザートと目を合わせた。ザートが頷いた。二人で少女を抱えて、後ろに下がった。
ガーズとリザードマンが向き合った。
リザードマンは傷だらけだった。腕、腹、脚。鎧も罅だらけだった。どこかで戦って、剣を失い、海を渡って、ここに辿り着いた。追い詰められた獣だった。
だが、鎧を着けている。鞘を持っている。戦い方を知っている。
ガーズは剣を構えたまま、間合いを測っていた。リザードマンの動きを見ていた。
手負いだが、速い。腕の一振りでトーマを殺した。爪は鱗と同じ硬さがある。そして胸甲がある。正面から斬っても、通らない。
リザードマンが低く唸った。体を沈めた。
来る。
ガーズが踏み込んだ。剣を横に振った。リザードマンの脇腹を狙った。刃が胸甲の端に当たった。硬い手応え。弾かれた。鱗の装甲は、剣を通さなかった。
リザードマンの腕が振り下ろされた。ガーズは半歩退いて刃で受けた。衝撃が腕を伝った。重い。現役の頃とは体が違った。
もう一撃。ガーズが横に跳んだ。爪が胸の前を通過した。
分が悪かった。手負いとはいえ、鎧付きのリザードマン。正面からでは鎧を抜けない。かといって鎧の隙間を狙うには、もっと近づかなければならない。近づけば、あの爪が来る。
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硬矢は見ていた。
走ってきて、トーマの体を見て、リザードマンを見て、ガーズが戦うのを見ていた。
体が動かなかった。戦ったことがない。武器もない。飛び出しても邪魔になるだけだった。
だから、見ていた。
リザードマンの動きを見ていた。
二足で立っている。腕が長い。爪が武器。脚は太いが、動きは横方向が多い。前に突っ込んでこない。
なぜだ。
硬矢は目を凝らした。
不思議な感覚だった。恐怖はあった。だが、目が離せなかった。リザードマンの体の動きが、一つずつ分かれて見えた。
尾だった。
リザードマンは長い尾を持っていた。太く、鱗に覆われている。戦いの間、尾が常に動いていた。左に跳ぶ時は尾が右に振れる。腕を振る時は尾が後ろに伸びる。
バランスを取っている。
二足歩行の体を、尾で支えている。腕を振る力も、横に跳ぶ力も、尾がなければ成り立たない。鎧の重さも、尾で相殺している。
硬矢の目が、リザードマンの尾に固定された。尾には傷がなかった。腕も腹も脚も傷だらけなのに、尾だけは無傷だった。守っているのだ。自分でも分かっているのだ。尾が急所だと。
「ガーズさん!」
硬矢は叫んだ。
「尻尾です! 尻尾でバランスを取ってる! 尻尾をやれば崩れる!」
ガーズはリザードマンから目を離さなかった。剣を構えたまま、間合いを保っていた。
素人の言葉だった。戦ったこともない人間の言葉だった。
だが、ガーズの目が一瞬だけリザードマンの尾を見た。
動いていた。確かに動いていた。リザードマンが体を振るたびに、尾が反対側に振れて、体を支えていた。
——なるほど。
ガーズは剣を構え直した。
リザードマンが踏み込んだ。腕を振り上げた。ガーズは後ろに跳ばなかった。横に出た。リザードマンの腕が空を切った。体が流れた。尾が反対側に振れて、バランスを取ろうとした。
ガーズは剣を低く振った。
刃が尾の付け根を斬った。
リザードマンが叫んだ。今までとは違う声だった。苦痛の声だった。体が傾いた。尾が力を失った。バランスが崩れた。
鎧の重さが、今度はリザードマンを引きずった。体が前のめりに傾いた。腕を振ろうとした。だが体が傾いたまま、力が乗らなかった。
ガーズが一歩踏み込んだ。
腹の鎧の隙間——既にある裂け目に、剣を突き入れた。深く。
リザードマンの目が見開かれた。黄色い目が、ガーズを見た。
ゆっくりと、倒れた。
地面が揺れた。砂埃が舞った。
動かなくなった。
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誰も声を出さなかった。
ガーズが剣を引き抜いて、地面に突き立てた。膝に手をついた。息が荒かった。腕が震えていた。
ザートが誉の肩を支えていた。誉の左肩から血が流れていた。ザートの脚も腫れていた。二人とも立っていた。
ユネイラが駆けつけた。娘を抱きしめた。何も言わなかった。
ミヤイナが来てトーマの傍にしゃがんだ。脈を探った。顔を上げた。首を横に振った。
硬矢は立っていた。何もできなかった。叫んだだけだった。
ガーズが顔を上げた。硬矢を見た。
「……助かった」
硬矢は首を振った。
「俺は何も——」
「お前の目がなかったら、長引いていた。長引けば、俺もやられていた」
ガーズはザートと誉にも体を向けた。
「お前達もよく娘を守ってくれた。ありがとう。」
ザートと誉は言葉を返す程の余裕はないようだった。
ガーズは立ち上がった。剣を拾った。リザードマンの体を見下ろした。
鎧。空の鞘。剣を持つ魔物。
「こいつは——どこから来た」
ミヤイナが立ち上がった。リザードマンの体を見ていた。傷だらけの体。罅の入った鎧。空の鞘。どこかで戦って、剣を失い、海を渡って逃げてきた。
「追われていたんだ」
ミヤイナが言った。
「何かに追われて、ここに流れ着いた」
誰も答えなかった。
硬矢はリザードマンの体を見ていた。鱗に覆われた、人間に似た体。鎧を着け、鞘を持ち、二足で歩き、腕で戦い、尾でバランスを取る。知性があった。戦い方を知っていた。武器を持つ文化があった。
魔物。この世界にいる、人間ではないもの。
風が吹いた。潮の匂いと、血の匂いが混じっていた。




