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# 第七話 一杯

 三日が経った。




 硬矢は毎朝、南の小路から村へ歩いた。草地を抜け、丘を越え、砂と石の道を下る。片道で半刻ほどかかった。




 浜では漁師たちが網を引いていた。硬矢はその端に立って、言われた通りに綱を引いた。潮の匂いが染みついた。手の皮が剥けた。ミヤイナは何も言わなかった。ただ、硬矢が綱を引く位置を一度だけ直した。




 硬矢は村の人間を見ていた。漁師たちの手つき、足の置き方、潮を見る目。全部が違った。自分がどれだけ何も知らないか、毎日思い知らされた。




 誉はザートと一緒に動いていた。子供たちの世話、浜の片付け、水汲み。誉は何でもやった。ザートは最初、誉の後ろを歩いていた。三日目には隣を歩いていた。




 凪はユネイラの家で網の繕いをしていた。指先が器用だった。ユネイラの娘が横で見ていて、「上手いね」と言った。凪は少し笑った。




 梓乃は村を歩き回っていた。家の造り、道の配置、井戸の位置、干し場の向き。手帳を持っていないから、地面に枝で図を描いた。ミヤイナが通りかかって、足を止めた。何も言わずに去った。




 八千代は酒場にいた。タミーラという女が切り盛りする小さな酒場。八千代は魚の下処理を手伝った。タミーラは最初、八千代の手つきを黙って見ていた。二日目から、包丁を任せた。




---




 大庭は酒場と南の小路を往復していた。




 酒場では仕込みと片付けを手伝った。タミーラは無口だったが、大庭の動きを見て「慣れてるね」とだけ言った。大庭は「三十年やってましたから」と答えた。




 仕事が終わると、大庭は南の小路に戻った。




 誰もいない店内。カウンターを拭いた。棚を整えた。グラスを磨いた。冷蔵庫はもう冷えていなかった。水は出る。それだけだった。




 三日目の夕方、大庭はカウンターの奥の棚を開けた。




 焙煎豆の袋が三つ。生豆の袋が二つ。合わせて十二キロほど。一杯に使う豆は十グラム。千二百杯分。——いや、焙煎しなければ生豆は使えない。焙煎豆だけなら、せいぜい五百杯。




 補充はできない。この世界に、コーヒー豆を売る店はない。




 大庭は袋の口を開けた。焙煎豆の匂いを嗅いだ。まだ生きている。鮮度は落ちていない。




 袋の口を閉じた。棚に戻した。




 しばらく、棚の前に立っていた。




---




 四日目の朝、大庭はガーズに声をかけた。




「火を分けてもらえませんか」




 ガーズは少し首を傾げた。




「火?」




「薪と、火種です。店で使いたい」




 ガーズは頷いた。昼過ぎに、薪の束と火打ち石を持ってきてくれた。使い方も教えてくれた。大庭は何度か失敗して、火をつけた。




 南の小路の厨房に、小さな火が灯った。




 大庭は手鍋を出した。焙煎豆を量った。十グラム。ミルに入れて、ゆっくり挽いた。ミルの感触は変わらなかった。三十年間、毎日回してきたミルだった。




 湯を沸かした。薪の火は、ガスとは勝手が違った。温度が安定しない。大庭は鍋の縁に指を近づけて、湯の温度を測った。




 ドリッパーにフィルターを置いた。粉を入れた。湯を細く注いだ。




 粉が膨らんだ。




 コーヒーの香りが、南の小路に広がった。




---




 硬矢が戻ってきたのは、夕方だった。




 丘を越えて草地に入ると、風に乗って匂いがした。硬矢は足を止めた。




 コーヒーの匂いだった。




 ガラス戸を開けると、ベルが鳴った。店の中に香りが満ちていた。




 大庭はカウンターの中にいた。エプロンをつけて、カップを二つ並べていた。




「……淹れたのか」




「火をもらった」




 硬矢はカウンターに座った。カップを手に取った。湯気が立っていた。香りを嗅いだ。一口飲んだ。




 東京と同じ味だった。




 水も、火も違う。なのに、味は同じだった。大庭の手が覚えている味だった。




「うまい」




「当たり前だ」




 大庭は短く言った。カウンターを拭いていた。三十年間、毎日やってきた動きだった。




 硬矢はカップを両手で包んだ。温かかった。この世界に来て初めて、体の芯が緩んだ気がした。潮と汗の匂いが染みついた手に、コーヒーの香りが重なった。




「じいちゃん。これ、村の人にも飲ませたら」




 大庭は手を止めなかった。




「……考えてた」




「豆は」




「減る。補充はできん。だが——」




 大庭はグラスを棚に戻した。




「飲んでもらわなきゃ、意味がない」




 硬矢は何も言わなかった。大庭の言葉の重さが分かった。三十年間、コーヒーを淹れてきた人間の言葉だった。




---




 五日目の昼、大庭は酒場にコーヒーを持っていった。




 小さな鍋に淹れたコーヒーを入れて、布で包んで運んだ。タミーラの酒場には、昼飯を食いに来た漁師が三人いた。ガーズもいた。




「飲んでみてくれませんか」




 大庭は木のカップに注いで、四人の前に置いた。黒い液体。湯気が立っていた。




 漁師の一人が匂いを嗅いだ。眉をひそめた。




「何だこれ。薬か?」




「私の店で出している飲み物です」




 漁師は恐る恐る口をつけた。顔をしかめた。




「苦い」




「苦いな」




 もう一人も同じ顔をした。




 ガーズが飲んだ。少し間があった。




「……苦いが、後味がいいな。口の中に何か残る」




 大庭は少しだけ笑った。




「それです」




 タミーラが最後に飲んだ。黙って飲んだ。カップを置いて、大庭を見た。




「これ、何て言うんだい」




「コーヒーです」




「こーひー」




 タミーラは繰り返した。もう一口飲んだ。




「悪くないね」




---




 その日の夕方、硬矢は南の小路に四人を連れてきた。




 誉、凪、梓乃、八千代。久しぶりに六人が揃った。




 大庭はカウンターの中に立っていた。六つのカップが並んでいた。




「淹れたぞ」




 誉が最初に飲んだ。顔をしかめた。




「——にが」




 だが、もう一口飲んだ。




「……でもコーヒーだ。マジで。こっちでも飲めるんすね」




「喫茶店だからな」




 大庭は短く答えた。




 凪が両手でカップを包んで、小さく息を吐いた。




「……あったかい」




 それだけ言って、もう一口飲んだ。目を閉じていた。




 梓乃はカップを持ったまま、店内を見回した。カウンター、棚、グラス、ベル。




「ここだけ、東京のままですね」




「変えてないからな」




 大庭は短く答えた。




 八千代は杖をカウンターに立てかけて、ゆっくり腰を下ろした。カップを手に取って、香りを嗅いだ。一口飲んだ。




「おいしいわねえ」




 いつもと同じ声だった。週に一度、南の小路に来て、同じ席に座って、同じことを言う。七十年生きてきた人の、変わらない言葉だった。




 硬矢は六人の顔を見ていた。誰も、東京の話をしなかった。帰りたいとも言わなかった。ただコーヒーを飲んでいた。




 誉がカップを置いた。




「なんか、ホッとしますね。村の飯もうまいけど、これは違う」




「何が違う」




 硬矢が訊いた。




「……なんだろ。知ってる味、っすかね」




 誉は自分の言葉に少し驚いた顔をした。凪が小さく頷いた。




 大庭がカウンターを拭いていた。三十年間と同じ手つきで。




---




 その日の夜、浜で網を片付けていた漁師が、ガーズに訊いた。




「昼に飲んだあの黒いの、何だったんだ」




「コーヒーっていうらしい。あの店の男が淹れたんだ」




「苦かったけどな。なんか、午後も体が動いたぞ」




 ガーズは笑った。




「俺もだ。あれは不思議な飲み物だな」




---




 六日目の朝。




 硬矢が浜に降りると、空気が違った。




 漁師たちが固まっていた。浜の東端、岩場の近く。ミヤイナがしゃがんで、砂を見ていた。




 硬矢は近づいた。




 砂に足跡があった。




 人間の足跡ではなかった。三本の指。爪の跡が深く食い込んでいる。幅は人間の足の倍ほどあった。足跡の間隔は広い。大股で歩いている。重い。




「何だ、これ」




 硬矢が訊いた。




 ミヤイナは立ち上がった。顔が硬かった。




「昨夜のうちについたものだ」




 ガーズが岩場の向こうを見ていた。足跡は海から上がって、岩場の手前で止まっていた。引き返したのか、岩を越えたのか。痕跡はそこで途切れていた。




「獣か?」




 漁師の一人が訊いた。




「この辺りの獣じゃない」




 ミヤイナが言い切った。




 ザートが走ってきた。誉も一緒だった。




「子供たちは家に入れた」




 ザートの声は落ち着いていたが、目が鋭かった。誉は足跡を見て、何も言えなかった。




 ユネイラが浜に降りてきた。足跡を見た。しゃがんで、爪の跡に指を当てた。




 立ち上がって、ガーズを見た。




「今日の漁は、沖に出るな。近場だけにしろ」




 ガーズが頷いた。




 硬矢は足跡を見ていた。三本指の、深い爪跡。何かが、海から来た。




 昨日まで、コーヒーの香りが広がっていた浜だった。今朝は潮の匂いの中に、かすかに別の匂いが混じっていた。硬矢には分からなかった。ミヤイナの鼻が動いた。




 何も言わなかった。




 ただ、海を見ていた。

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