# 第五話 夜
硬矢は、村長とのやりとりを話した。
カウンターの中に戻った大庭がコーヒーを淹れていた。ガスは使えない。水出しの豆が残っていた。大庭はそれをグラスに注ぎ、六人分をカウンターに並べた。
誰も手をつけなかった。
「百人の村だそうです。漁業で暮らしている。村長はユネイラという女性で、ガーズという亭主がいます」
硬矢はカウンターの端に立ったまま話した。誉は隣で頷いていた。
「それと、村長に訊かれました。——魔族か、と」
店内が静まった。
「魔族」
スーツの女性が繰り返した。鞄を膝に抱えたまま、硬矢を見ていた。
「村長は、見れば分かる、魔族の匂いはしない、と言っていました」
「……匂いで分かるものなんですか」
「匂いで分かる、と言っていました。少なくとも、俺たちは魔族ではないと認識されたようです」
硬矢は自分で言いながら、その意味を考えていた。魔族という存在が日常の中にある世界。人間と魔族を区別する必要がある世界。それがここだった。
凪が誉の袖を握っていた。誉は凪の手に自分の手を重ねたまま、黙っていた。
八千代が、コーヒーのグラスに手を伸ばした。一口飲んだ。
「おいしいわねえ」
誰も笑わなかった。でも、少しだけ空気が動いた。
硬矢は続けた。
「もう一つ。村長は、働かざる者食うべからず、と言っていました。男も女も海に出る、と」
女性の表情が変わった。
一瞬だった。眉が寄って、すぐに戻った。硬矢はそれを見たが、意味は分からなかった。
「それと——言葉が通じました。向こうの言葉なのか、こちらの言葉なのか、分かりません。でも、普通に話して、普通に通じました」
女性が首を傾げた。
「それは……おかしくないですか」
「おかしいです」
硬矢は頷いた。
「でも、通じました。——それで、こういう言い方が正しいか分かりませんが」
硬矢は少し間を置いた。
「われわれは、いわゆる異世界転移をしてしまった可能性があります」
沈黙が落ちた。
誉が顔を上げた。
「……店ごと? そんなジャンル聞いたことないんですけど」
誰も笑わなかった。でも、硬矢は少しだけ口元が緩むのを感じた。馬鹿げている。自分で言っておいて、馬鹿げていると思った。でも、他に言いようがなかった。
「言葉が通じるのも、お約束ってことですかね」
誉が続けた。硬矢は首を傾げた。
「……あの光の中で、何か聞こえませんでしたか」
梓乃だった。鞄の持ち手を握ったまま、硬矢を見ていた。
「声のような——何か」
店内が静まった。
硬矢は頷いた。
「聞こえました。——お前たちをもらう、代わりに少しだけやる、と」
誉の顔が強張った。凪が誉の腕を掴んだ。
「……会話が通じる力、ですかね。もらったのは」
誉が小さく言った。
「それだけですかね。他に何かくれてもよくないですか」
誰も答えなかった。窓の外の光が、さらに傾いていた。
誉が口を開いた。
「あの——俺、宮川誉です。こっちは凪」
凪が小さく頭を下げた。
硬矢は少し驚いた。今さら、と思った。でも、確かに名前を知らなかった。この店に居合わせただけの六人だった。
「青輝硬矢です。こちらは店長の大庭」
「大庭です」
大庭がカウンターの中から短く言った。
八千代がボックス席から手を挙げた。
「八千代よ」
五人の視線が、スーツの女性に向いた。
女性は鞄の持ち手を握ったまま、少しだけ間を置いた。
「……柊梓乃です」
声は小さかった。でも、聞こえた。
誰も握手はしなかった。笑顔もなかった。ただ、名前を知った。それだけのことだった。でも、さっきまでの沈黙とは、少しだけ違う沈黙が落ちた。
「寝る場所を決めましょう」
硬矢が言った。暗くなってからでは遅い。
「二階がありますが、階段が急です」
梓乃が八千代を見た。八千代は首を横に振った。
「私はここでいいわよ。あの席、背もたれが高いから」
八千代はボックス席を指した。誉と凪が座っていた席だった。向かい合わせの二人掛け。背もたれが高く、体を預けられる。
「梓乃さんと凪ちゃんが二階で。俺たちは一階で適当にやります」
梓乃が頷いた。凪は誉を見た。誉は小さく頷いた。
大庭が冷蔵庫を開けた。電気は来ていないが、中はまだ冷えていた。たまごサンドの材料と、たらこの小さなパック、ナポリタン用のソーセージが残っていた。大庭は食パンを出して、手早くサンドイッチを作った。火は使えない。ソーセージはそのまま挟んだ。
六人分には足りなかった。大庭は一つずつを半分に切って、皿に並べた。
水は出た。大庭がグラスに水を注いで並べた。
凪がサンドイッチを一口かじって、手を止めた。
「……また大庭さんのごはん、食べられるかな」
誰も答えなかった。
誉が凪の隣に座っていた。何も言わなかった。ただ、少しだけ体を凪の方に寄せた。
大庭はカウンターの中で、グラスを拭く手を止めていた。すぐに動きを戻した。
それだけの夕食だった。
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日が落ちた。
南の小路に電気はなかった。スイッチを入れても何も点かない。水は出るが、電気は来ない。
大庭がカウンターの奥から蝋燭を出した。非常用に置いてあったものだった。三本あった。一本をカウンターに、一本をボックス席のテーブルに、一本を窓際に置いた。
小さな火が三つ、店内を照らした。
暗かった。東京の夜とは違う暗さだった。街灯がない。ネオンがない。隣のビルの明かりもない。だが、窓の外は、星が出ていた。近くを見渡せるくらい、明るかった。
硬矢は窓から外を見た。見たことのない数だった。空の低いところまで隙間なく光っている。白い帯のようなものが空を横切っていた。天の川に似ていた。でも、もっと近かった。手を伸ばせば届きそうなほど、星が低かった。
波の音が聞こえていた。遠くから、一定の間隔で寄せては返す音。東京にはない音だった。硬矢はその音を聞いていた。足元は南の小路の床だ。天井も壁も知っている。でも窓の外は知らない世界だった。波の音だけが、どちらの世界にも属さないまま、繰り返していた。
凪と梓乃が二階に上がった。階段の軋む音が聞こえた。
八千代はボックス席に体を預けて、目を閉じた。蝋燭の火が八千代の横顔を照らしていた。皺の影が揺れていた。
誉はカウンター席に突っ伏した。しばらくして、寝息が聞こえた。十七歳は、眠れるのだ。硬矢は少しだけ安心した。
硬矢は窓際の椅子に座っていた。
大庭はカウンターの中にいた。いつもの場所だった。椅子を持ち込んで、カウンターに背を預けていた。
蝋燭の火が揺れていた。
静かだった。波の音だけが、遠くから届いていた。
硬矢は天井を見た。見慣れた天井だった。染みの位置も知っている。この天井の下で、何杯のコーヒーを飲んだか。
ここは南の小路だ。間違いなく、南の小路だ。
でも、窓の外は東京ではない。
硬矢は目を閉じた。眠れなかった。
波の音が聞こえていた。虫の声が聞こえていた。それ以外は、何もなかった。
長い時間が経った気がした。あるいは、ほんの少しだったのかもしれない。
硬矢が目を開けたとき、蝋燭は一本だけ残っていた。カウンターの上の一本。大庭の横顔が、小さな火に照らされていた。
大庭は起きていた。
目を開けたまま、暗い店内を見ていた。三十年守ってきた店が、知らない場所に飛ばされた。その重さを、硬矢は訊けなかった。
硬矢は何も言わなかった。大庭も何も言わなかった。
蝋燭の火が、小さく揺れていた。
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光が差した。
窓から朝の光が入ってきた。白い光だった。東京の朝とは違う、澄んだ光だった。
硬矢は体を起こした。首が痛かった。椅子で寝たせいだった。
誉はカウンター席で突っ伏したままだった。八千代はボックス席で目を閉じていた。
大庭はカウンターの中に立っていた。水を出していた。グラスに水を注いで、六つ並べていた。
いつもの朝と同じ動きだった。
階段を降りてくる音がした。梓乃だった。髪を手で整えながら降りてきた。スーツの上着は脱いでいた。白いブラウスの袖を肘まで捲っている。
「おはようございます」
「おはよう」
大庭が短く答えた。
凪が梓乃の後ろから降りてきた。目が少し赤かった。泣いたのか、眠れなかったのか。誉を見つけて、隣に座った。誉が目を開けた。凪を見て、少しだけ笑った。
八千代が目を開けた。
「あら、朝ねえ」
六人が、南の小路の中にいた。
朝の光が店内を照らしていた。蝋燭はもう要らなかった。
硬矢が水を飲んだとき、外から足音が聞こえた。
草を踏む音だった。一人分。
硬矢はガラス戸の方を見た。
ガーズが立っていた。
昨日と同じ穏やかな顔で、ガラス戸の外に立っていた。軽く手を挙げた。
硬矢がガラス戸を開けた。ベルが鳴った。
「おはよう。——村長が待っている。全員で来てくれ」




