# 第四話 村長
漁村の煙は、三本だった。
朝の煙ではない。昼を過ぎた頃の、片付けの煙か。魚を干す準備か、あるいは浜で何かを焼いた残りか。
風が変わった。潮の匂いに混じって、煙の匂いが届いた。
硬矢と誉は草地を歩いた。
道はなかった。背の低い草が足首まであり、ところどころに石が転がっている。海からの風が強かった。
「硬矢さん」
「なに」
「ここ、どこなんですかね」
「分からない」
「分からないですよね」
誉は歩きながら周囲を見回していた。丘陵が三方を囲んでいる。海は南東に開けている。空の色が深かった。東京の空より、ずっと青い。
集落が近づいてきた。
浜に船が並んでいた。二艘ではなかった。七艘あった。遠くからは見えなかったものが、近づくと増えた。網が干されている。魚の匂いがした。
家は木と石で出来ていた。屋根は板葺きで、壁は粗い漆喰のようなもので塗られている。窓は小さく、布が垂れ下がっていた。
人の気配があった。
浜で、数人が網を畳んでいた。男も女もいた。日に焼けた腕が動いている。
硬矢と誉が草地から浜に出たとき、網を畳んでいた女が一人、手を止めた。
硬矢たちを見た。
それから、走った。集落の奥へ向かって、走っていった。
「……見つかりましたね」
「見つかったな」
硬矢は足を止めた。誉も止まった。
待った。
波の音が聞こえていた。風が草を揺らしている。網を畳んでいた残りの男女が、手を止めてこちらを見ていた。誰も声を出さなかった。
誉が小声で言った。
「逃げます?」
「逃げてどこに行く」
「……そうっすね」
しばらくして、集落の奥から人が出てきた。
二十人ほどだった。
男も女もいた。手に棒を持っている者がいた。鉈のようなものを腰に差している者もいた。漁師の道具だった。武器ではない。しかし、構え方が違った。
その先頭に、女が立っていた。
大きかった。
硬矢より背が高い。肩幅も広い。日焼けした肌に、潮風で荒れた手。髪は後ろで一つに束ねている。四十代の半ばだろう。目が鋭かった。
女は硬矢と誉を見た。
それから、二人の後ろ——草地の先に建っている南の小路を見た。
目を細めた。
「あの建物は何だ」
声が太かった。問いかけではなく、確認だった。
硬矢は一歩前に出ようとした。
女の視線が硬矢を通り過ぎた。硬矢の後ろを見ていた。
振り返った。
大庭が歩いてきていた。
草地の上を、ゆっくりと歩いてくる。エプロンは外していた。白いシャツの袖を肘まで捲っている。七十六歳の足取りは速くはなかったが、迷いがなかった。
大庭が硬矢と誉の横に並んだ。
女は大庭を見た。
大庭も女を見た。
二十人の男女が棒や鉈を構えていた。空気が張り詰めていた。
だが、女の目が少し変わった。
大庭を見ている目が、警戒から、別のものに変わっていた。
「あんたが長か」
女が言った。
大庭は首を横に振らなかった。頷きもしなかった。
「店をやっている者です」
「店?」
「あの建物は、喫茶店です」
女は眉を寄せた。言葉の意味が分からなかったのだろう。
「飲み物を出す店です」
女は大庭をしばらく見ていた。
それから、後ろの二十人に目配せをした。棒を下ろせ、という合図だった。全員ではなかった。半分ほどが下ろした。残りはまだ構えていた。
「私はユネイラ。この村の長だ」
「大庭です」
「大庭。あんたたち、どこから来た」
大庭は少し間を置いた。
「分かりません」
ユネイラの眉が動いた。
「分からない?」
「気がついたら、ここにいました。店ごと」
ユネイラは大庭の顔を見ていた。嘘を探しているようだった。
大庭は何も付け足さなかった。
硬矢は横で見ていた。大庭の周囲の空気が、いつもと同じだった。南の小路のカウンターに立っているときと、何も変わらない。
ユネイラの後ろで、まだ棒を構えていた男が一人、ゆっくりと腕を下ろした。
「何人いる」
「六人です」
「六人。子供は」
「高校生が二人います」
「こうこうせい?」
「若い者が二人です」
ユネイラは頷いた。
「魔族か」
「違います」
「見れば分かる。魔族の匂いはしない」
ユネイラは大庭の服を見た。白いシャツ。見たことのない生地。見たことのない仕立て。
「異邦の者か」
「そうかもしれません」
「あの建物。あんな作りは見たことがない」
「私たちも、ここに来たのは初めてです」
ユネイラは腕を組んだ。大庭を見下ろしている。身長差があった。だが、見下ろしているのに、見下してはいなかった。
「——不憫だな」
ユネイラが言った。
大庭は何も言わなかった。
「家ごと飛ばされて、どこかも分からない場所に落ちて、六人で立っている。不憫だ」
後ろの二十人の中から、小さな笑いが漏れた。緊張が少しだけ緩んだ。
「うちは百人の村だ。働かざる者食うべからず。男も女も海に出る。あんたたちがどこの誰か分からんが、害をなす気がないなら、追い出す理由もない」
ユネイラは後ろを振り返った。
「異論のある者は」
二十人は黙っていた。腕っぷしに自信のある者たちだった。自分たちが六人の異邦人に負けるとは思っていない。だから、受け入れることに不満はなかった。
ただ、その二十人の後ろ——集落の家々の窓から、こちらを窺う目があった。布の隙間から覗いている。子供を抱えた腕が見えた。
得体の知れない者たちへの不安は、そこにあった。
ユネイラはそれを知っていた。知った上で、自分が先に決めた。
「あの建物の中に何がある」
「椅子と、机と、食器があります」
「食い物は」
「少しだけ」
「水は」
「出ます」
「なら今日はそこにいろ。明日、改めて話をする」
ユネイラは踵を返した。二十人がそれに続いた。
最後に一人、細身の男が残った。百七十センチほど。日焼けした肌に、穏やかな目をしていた。五十歳手前だろう。ユネイラとは対照的に、柔らかい空気を纏っている。
「すまんな、驚かせて」
男は軽く頭を下げた。
「俺はガーズ。あの人の亭主だ」
硬矢は少し驚いた。ユネイラの亭主。この穏やかな男が。
「森の方で光が見えたと報告があってな。さらにそこから人が来たと。村長が自分で確かめに来た。あの人はそういう人だ」
ガーズは南の小路を見た。
「しっかりした建物だな。あんな作りは見たことがない」
「ありがとうございます」
硬矢が答えると、ガーズは少し笑った。
「礼を言われることじゃないだろう。——明日、朝に来る。何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ」
少し間を空けて、さらに笑顔でこう続けた。
「飲み物を出す店と言っていたが、酒ではないのだな?」
大庭は黙っていた。
硬矢が返す。
「はい、コーヒーを提供する店です。」
ガーズは不思議な顔をして「コーヒー?」と答え会話を続けなかった。
ガーズはユネイラの後を追って歩いていった。
浜に残されたのは、硬矢と誉と大庭の三人だった。
波が寄せて、引いた。
誉が息を吐いた。長い息だった。
「……怖かったです」
「そうか」
大庭は短く答えた。
誉は膝に手を置いた。少し震えていた。
「俺、何もできなかったっすね。硬矢さんの後ろに立ってただけで」
「立っていただけで十分だ」
大庭が言った。誉は顔を上げた。
「二人が先に来ていなければ、俺が一人で歩いてくることになっていた。それは、良くなかった」
硬矢は何も言わなかった。大庭が一人で二十人の前に立つ姿を想像した。想像したくなかった。
「店長、前に出ることなかったでしょう」
硬矢が言った。後から来て、様子を見て、判断する。大庭自身がそう言っていた。
大庭は草地の先の南の小路を見た。
「あの女性は、話が通じる相手だった。なら、店主が出たほうがいい」
硬矢は何も言えなかった。
三人は南の小路へ歩いて戻った。ベルが鳴った。
凪が立ち上がった。誉を見て、少しだけ肩の力が抜けた。誉が「大丈夫」と小さく言った。凪は頷いた。それだけで十分だった。
八千代が訊いた。
「どうだったの」
「村長さんに会いました。明日、また話をするそうです」
「そう。よかったわねえ」
八千代はそれだけ言って、また窓の外を見た。
スーツの女性は、カウンター席から動いていなかった。鞄を膝に抱えたまま、硬矢たちの会話を聞いていた。何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。
窓から差し込む光が、少しだけ傾いていた。
午後が終わろうとしていた。
硬矢はカウンターの端に立ち、窓の外を見た。
漁村の煙が、一本増えていた。




