# 第三話 煙
硬矢は階段を降りた。
店内に戻ると、全員が硬矢を見た。
「水は出ます。ガスは駄目です。下と同じでした」
硬矢はカウンターの端に立った。
「それと、二階から見えたんですが——西に漁村があります。煙が上がっていて、人が動いています」
沈黙が落ちた。
誰も口を開かなかった。
凪が誉の腕を握った。誉は凪の手に自分の手を重ねたが、何も言わなかった。
八千代は窓の外を見ていた。一階からは集落の全体は見えない。煙だけが見えている。
大庭はカウンターの中に立ったまま、布巾でグラスを拭いていた。拭き終わったグラスを棚に戻し、次のグラスを取った。意味のある作業ではなかった。手を動かしていないと落ち着かないように見えた。
スーツの女性は椅子に座ったまま、鞄を膝の上で抱えていた。目は伏せていた。
誉が口を開きかけた。何か言おうとして、やめた。言葉にならなかったのだ。唇を引き結んで、凪の方を見た。凪は誉を見ていなかった。誉の袖を握ったまま、自分の膝を見ていた。指先が白かった。
スーツの女性が鞄の持ち手を握り直した。何度目か分からなかった。手を動かしていないと怖いのだろう。大庭のグラス拭きと同じだった。
時間が過ぎた。どのくらい経ったのか。
誰も最初の一歩を踏み出せなかった。何をすればいいのか、誰にも見えなかった。
風の音が聞こえていた。波の音も、遠くから届いていた。それ以外は何もなかった。車の音も、電車の音も、人の声も。東京にいれば当たり前に聞こえていたものが、何一つなかった。
硬矢はカウンターに背を預けた。自分も同じだった。光があって、気がついたらここにいた。それだけだ。戻る方法など、誰も知らない。知りたいが、知りようがない。
十年、この店に通った。高校の頃から手伝いを始めて、気がつけば二十六になっていた。カウンターの木目も、棚のグラスの並びも、全部知っている。店は何も変わっていない。変わったのは、窓の外だけだ。
硬矢は窓の外を見た。煙は動いていなかった。風が弱いのか、まっすぐに立ち上っている。
八千代が、ぽつりと言った。
「帰れるのかな」
誰も答えなかった。
凪の指が、誉の袖を強く握った。
硬矢も答えを持っていなかった。帰れるかどうか。それを考えること自体が、今は意味を持たない。ここがどこかさえ掴めないのに、帰り方を考えても仕方がない。でも、八千代の声は、そういう理屈の話ではなかった。ただ、怖かったのだ。硬矢にはそれが分かった。
八千代は自分で言ったことに自分で傷ついたような顔をして、また窓の外を見た。
誰も八千代を慰めなかった。慰める言葉を、誰も持っていなかった。
静かだった。
大庭がグラスを棚に戻した。大庭は何も言わなかった。三十年この店を守ってきた人が、黙っている。その沈黙が、誰よりも重かった。
スーツの女性が、顔を上げた。
硬矢を見ていた。
「……あの」
声が小さかった。
「行くんですか。あの集落に」
硬矢は少し間を置いた。
「行った方がいいと思っています。ここがどこなのか、分からないままでは何もできないので」
女性は頷いた。それから、首を横に振った。
「一人で行くのは、やめた方がいいと思います」
硬矢は女性を見た。
「何かあったとき、ここに伝わらなくなります。一人だと」
声はまだ小さかった。だが、言葉は明確だった。
硬矢は「確かに」と言った。
女性が少し顔を上げた。否定されなかった。それだけのことだったが、強張っていた肩が、わずかに下がった。
誉が立ち上がった。
「俺が行きます。硬矢さんと二人で」
凪の手が、誉の袖を掴んだ。
誉は凪を見た。凪は何も言わなかった。目だけが、行かないでと言っていた。
誉は凪の手に触れた。
「すぐ戻る。様子を見るだけだから」
凪は何も言わなかった。指が、ゆっくりと離れた。誉は凪から目を逸らさないまま、一歩下がった。それから、背を向けた。凪は座ったまま、誉の背中を見ていた。
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誰も動かなかった。
硬矢は扉の前に立っていた。誉が隣にいた。二人とも、まだ出ていなかった。
大庭がカウンターの中で動いた。
布巾を畳んだ。いつもの四つ折りにして、カウンターの端に置いた。それから、棚のグラスを一つずつ確かめるように見た。割れていないか。欠けていないか。
確認が終わると、大庭はエプロンの紐に指をかけた。外すのかと思った。指をかけたまま、少しの間、動かなかった。
三十年、この店を離れたことがない人だった。
「硬矢」
硬矢は大庭を見た。
「少し経ったら、俺も行く」
大庭はカウンターの中に立ったまま、エプロンの紐から手を下ろしていた。
「お前たちが先に行け。何もなければそれでいい。何かあったら、俺が後から判断する」
低い声だった。
誉が少し安心したような顔をした。硬矢も同じだった。大庭が後から来る。それだけで、違った。
「行ってきます」
硬矢が言った。大庭は短く頷いた。
八千代が手を振った。
「気をつけてね」
凪は誉を見ていた。何も言わなかった。唇が少し動いたが、声にはならなかった。誉は凪に向かって小さく頷いた。大丈夫、という意味だったのだろう。凪の表情は変わらなかった。
スーツの女性は、「よろしくお願いします」と言い終わらないうちに、小さく頭を下げた。
硬矢はガラス戸に手をかけた。
カラン、とベルが鳴った。
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草地に出た。風が吹いていた。潮の匂いがした。
光が強かった。店内にいた目には、眩しすぎた。硬矢は手で庇を作った。目が慣れるまで、少しかかった。
音が違った。店の中では風の音と波の音だけが聞こえていた。外に出ると、それに虫の声が混じった。草が擦れる音もあった。生き物がいる。この土地は、生きている。
誉が隣に立った。二人とも、しばらく動かなかった。
硬矢はまず店の周りを歩いた。
壁に亀裂はなかった。屋根も崩れていない。窓ガラスも割れていない。草地の上に、南の小路はそのまま建っていた。二階から見たときは分からなかったが、地面に近づくと分かる。基礎がしっかりしている。傾いてもいない。
裏手に回った。崖があった。二階の窓からは、屋根の陰になって見えていなかった。穏やかな水面が光を反射していた。音はほとんどなかった。静かな川だった。川の向こうにも草地が続いている。どこまで行っても、人の手が入った気配がなかった。
正面に戻った。
振り返ると、南の小路が、そこにあった。草地の上に、二階建ての小さな喫茶店が建っていた。ガラス戸に「南の小路」の文字。壁も、屋根も、看板も、何も変わっていない。
ただ、周りの景色だけが、全部変わっていた。ここにあるべきものが何もない。代わりに、あるはずのないものが全部ある。
足元の草が短く揺れていた。土は乾いている。石が転がっていた。道はなかった。
空が広かった。見たことのない青さだった。雲が高い位置を流れている。風が肌に当たった。冷たくはなかった。東京の空とは違う。何もかもが違う。
誉が隣を歩いていた。黙っていた。さっきまでの明るさはなかった。凪の手を振りほどいて来たのだ。軽くはないだろう。
草を踏む音だけが続いた。二人とも、言葉が出なかった。
誉が一度だけ振り返った。店が小さくなっている。ガラス戸の向こうに、凪の姿がまだ見えるかどうか——確かめるような目だった。
硬矢は振り返らなかった。振り返ったら、足が止まる気がした。
風が吹いた。草が一斉に傾いた。潮の匂いが強くなった。
誉が前を向いた。
「硬矢さん」
「ん」
「あの煙、何だと思います」
硬矢は煙を見た。三本、まっすぐに立ち上っている。
「煙が三本ってことは、竈が三つあるってことだ。人が暮らしてる」
硬矢は少し間を置いた。
「俺たちが行くと、邪魔になるんだろうな」
誉は少し黙ってから、「そうっすね」と言った。声に力はなかった。だが、足は止まらなかった。
草地が続いていた。道はない。二人の足跡だけが、草を倒して残っていく。
南の小路が、少しずつ小さくなっていく。
煙は三本、まだ立ち上っていた。
硬矢と誉は、煙に向かって歩いた。




