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# 第三十五話 土産話

 大庭が動いた。




 棚から袋を二つ出した。一つは硬矢が置いたばかりの布袋。バタタのヒゲ。もう一つは紙で包まれた小さな袋だった。




 鉄瓶の湯はまだ残っていた。炭火の上で、細い湯気を立てていた。




 大庭はヒゲを鍋に入れた。湯を注いだ。蓋をした。




 それから、紙の袋を開けた。




 硬矢は匂いで分かった。




 ——茶だ。




 緑の葉。乾いている。揉んである。細胞壁を壊して、成分が出やすくなっている。大庭が異世界で見つけた茶。商人が噂を聞いて船を出すほどの茶。




 大庭は鉄瓶から別の器に湯を移した。少し冷ました。それから、茶葉に注いだ。




 緑色の液体が、器に落ちた。




 匂いが広がった。コーヒーとは違う匂い。青くて、軽くて、少しだけ甘い。




---




 大庭は器を並べた。




 硬矢たちの前に、緑の茶。ユネイラとガーズの前に、黄金色のヒゲ茶。自分の前にも、ヒゲ茶。




 硬矢は器を見た。




 分けている。




 硬矢たちには、大庭がこの世界で見つけたもの。ユネイラとガーズには、硬矢が旅先から持ち帰ったもの。




 ——こっちにもあったぞ。




 大庭は何も言わなかった。だが、器がそう言っていた。




 硬矢は器を持ち上げた。一口飲んだ。




 軽かった。口の中がさっぱりした。コーヒーの後に飲むと、舌がリセットされる感覚があった。




 ——うまい。




 誉が飲んだ。凪が飲んだ。梓乃が飲んだ。




 ユネイラがヒゲ茶を一口飲んだ。眉が上がった。




「——甘いな」




「バタタのヒゲだ。硬矢が持ってきた」




 大庭の声は短かった。




 ガーズがヒゲ茶を飲んだ。穏やかな顔だった。




「……悪くない」




---




 ディアンは入口の壁に背を預けたままだった。




 大庭が器を一つ、カウンターの端に置いた。緑の茶だった。ディアンの方を見もしなかった。ただ、置いた。




 ディアンは少し間を置いてから、壁を離れた。器を取った。壁に戻った。一口飲んだ。




 店の中の空気が、柔らかかった。さっきまで剣が鳴っていた場所と同じ村とは思えなかった。




 ディアンは腕を組んだ。片手に器を持ったまま、壁に体重を預けた。飲まれないようにしていた。この空気に。




---




 扉が開いた。




 村の男が一人、顔を出した。ヨルグだった。




「——ユネイラ。あいつら、発ったぞ」




 ユネイラが振り返った。




「船に戻って、そのまま出た。オーヴホールの方へ向かった」




 ユネイラは頷いた。




「それと——」




 ヨルグが手を開いた。掌の上に、金貨が一枚あった。




「広場に置いてあった。あいつらが置いていったんだろう」




 金貨が、カウンターの上に置かれた。光っていた。




 ユネイラはそれを見た。目が細くなった。




「……一枚か」




「一枚だ」




 ユネイラは金貨を取った。握った。握ったまま、しばらく黙っていた。




「——足りるわけがない。だが、置いていったことは覚えておく」




 ヨルグが頷いた。




「八千代さんも来てる。外にいる」




 大庭がヒゲ茶を一杯、カウンターの端に出した。ヨルグの前だった。




 ヨルグは受け取った。一口飲んだ。眉が上がった。




「——甘いな。なんだこれは」




「バタタのヒゲだ」




 ヨルグはもう一口飲んだ。器を見た。それから大庭を見た。




「……大庭さん。この茶に合う茶請け、楽しみにしてるぞ」




 大庭は何も言わなかった。布巾で手を拭いていた。




 ヨルグは器を置いた。飲み干していた。手を上げて、出ていった。




---




 八千代が入ってきた。杖をついていた。白髪。眼鏡。いつもと同じだった。




 店の中を見た。硬矢を見た。誉を見た。凪を見た。梓乃を見た。




「——帰ってきたのねえ」




 声が震えていた。少しだけ。




 硬矢は立ち上がった。




「ただいま、八千代さん」




 八千代はテーブルの席に座った。さっきまで隊長たちがいた椅子だった。大庭が何も言わずに茶を出した。黄金色のヒゲ茶だった。




 八千代は器を両手で包んだ。匂いを嗅いだ。一口飲んだ。




「……おいしいわねえ」




 いつもの言葉だった。七十年生きてきた人の、変わらない言葉だった。




---




 ユネイラがヒゲ茶を飲み干した。器を置いた。




「——で。収穫はあったのか」




 硬矢を見ていた。




 硬矢は頷いた。




「長い話になります」




「構わん。聞く」




 ガーズが椅子を引いた。座り直した。ユネイラが腕を組んだ。




 硬矢は話し始めた。




---




「まず、転移のことが少し分かりました」




 ユネイラの目が動いた。




「この世界には、停滞っていう現象がある。世界が行き詰まった時に、外から人が来る。それが転移だと」




「……外から」




「過去にもあった。八百年前に一人。四百年前に一人。記録に残ってるのはそれだけです」




 ガーズが顔を上げた。




「その人たちは、どうなった」




 硬矢は少し間を置いた。




「——分かりません。記録がなかった」




 沈黙が落ちた。




 ユネイラは何も言わなかった。ガーズも何も言わなかった。八千代は茶を飲んでいた。




---




 誉が口を開いた。




「俺は——ガーズさんに教わったことが、役に立ちました」




 ガーズが誉を見た。




「ウィステリアで、毎日振りました。木剣じゃなくて、鉄の剣を買って。足の幅と、膝の角度と、重心の位置。ガーズさんが教えてくれたこと、全部やりました」




 誉の声は明るかった。だが、軽くはなかった。




「調査隊の人と戦いました。勝てなかった。でも、崩れなかった。——ガーズさんの教えがなかったら、立ってられなかったと思います」




 ガーズは黙っていた。穏やかな目だった。




「……そうか」




 短かった。声が少しだけ柔らかかった。




---




 凪が杖を見せた。腰に差していた杖を抜いて、テーブルの上に置いた。




「——魔法が、使えました」




 ユネイラの眉が上がった。




「水の魔法です。魔石を使って、水弾を撃てるようになりました」




 凪の声は小さかった。だが、はっきりしていた。




「最初は全然当たらなくて。でも、一ヶ月やったら、三発に一発は当たるようになって」




 八千代が凪を見ていた。目が優しかった。




「すごいわねえ」




「すごくないです。まだ全然——」




「すごいわよ」




 八千代の声は静かだった。凪は少し俯いた。耳が赤かった。




---




 梓乃が話した。




「ウィステリアは——綺麗な街でした」




 声が少し遠かった。




「藤の木があって。花の色は薄かったけど、街道に並んでいて。市場があって、人がたくさんいて。宿屋と酒場があって、夜は灯りがついて」




 梓乃は窓の外を見た。ゼスの丘陵が見えた。




「この世界にも、ちゃんと街があるんだなって。人が暮らしてるんだなって。——当たり前のことなんですけど、歩いてみないと分からなかった」




 ユネイラは黙って聞いていた。




---




 硬矢が続けた。




「オーヴホールで、蔵書庫の司書に会いました。イザーナっていう人です。転移の記録を一緒に調べてくれた」




「ギルドにも登録しました。カードを作った」




「ウィステリアでは、神殿のテストを受けました。体力、反応速度、魔法の適性。毎週一回、一ヶ月」




「結果は——ちょっとデキる一般人でした」




 ユネイラが鼻を鳴らした。




「お前たちらしいな」




「成長速度だけは速いらしいです。普通の三倍から四倍。でも、到達点が低い」




「速く伸びるが、伸びた先がまだ低い、と」




「そうです」




 ユネイラは腕を組んだまま、少し考えた。




「——まあ、生きて帰ってきた。それで十分だ」




---




 硬矢はディアンを見た。




 ディアンは壁に背を預けたままだった。腕を組んでいた。目が合った。




「——紹介します。ディアンです。神殿の門弟で、俺たちに付いてきてくれた」




 ユネイラがディアンを見た。ガーズがディアンを見た。八千代がディアンを見た。




 ディアンは壁から背を離した。一歩前に出た。軽く頭を下げた。




「……ディアンです」




 声が硬かった。目が泳いでいた。




 ユネイラが少し笑った。




「若いな。——いくつだ」




「十四です」




「十四か。うちの漁師の見習いと同じだ」




 ディアンは何も言わなかった。ユネイラの視線が重かった。




 八千代が言った。




「遠いところから来たのねえ。お疲れさま」




 ディアンは少し驚いた顔をした。それから、もう一度頭を下げた。




「……ありがとうございます」




 声が、少しだけ柔らかくなっていた。




---




「それと——」




 硬矢が言った。




「手紙を届けてくれたのは、ディアンです」




 大庭の手が止まった。布巾を持ったまま、ディアンを見た。




「毎週、俺が言ったことを書いてくれた。日本語も、読めないのに写してくれた」




 ディアンは目を逸らした。壁を見ていた。




 大庭はディアンを見ていた。しばらく、見ていた。




 ディアンの器は空だった。




 大庭が目で訊いた。もう一杯。




 ディアンは少し迷った。それから、空の器をカウンターに置いた。




 大庭は緑茶を注いだ。緑色の液体が、器を満たした。




 ディアンは器を取った。一口飲んだ。




 壁際に戻らなかった。カウンターの席に座り、もう一口飲んだ。




 飲まれていた。この空気に。茶が、美味しかった。




---




 四人が話した。




 誉がガーズに剣の話をした。ガーズが頷いた。凪が魔石の話をした。梓乃が市場の話をした。硬矢がコーウェンの話をした。




 ガーズの目が変わった。




「——コーウェンに会ったのか」




「はい。第四師団の師団長です」




「……そうか。師団長になったか」




 ガーズは器を見ていた。穏やかな目だった。




「元気だったか」




「元気でした。ガーズさんのこと、聞いてました。剣はまだ振ってるかって」




「……手入れだけは、やめられないと言っておいてくれ」




「もう言いました」




 ガーズが少し笑った。初めて見る笑い方だった。




 硬矢は少し間を置いた。




「——それと。エールを飲み交わしたいと言ってました。若い頃、ガーズさんが任務の後にエールを飲んでいるのを見ていたと。自分はまだ飲み方も知らなかったって」




 ガーズの手が止まった。器を持ったまま、しばらく動かなかった。




「……あのひよっこが」




 声が柔らかかった。目尻が下がっていた。




 ガーズは器を見た。黄金色のヒゲ茶が揺れていた。




「——まだ、そんなことを覚えていたのか」




 嬉しそうだった。隠しもしなかった。




---




 窓から光が差していた。




 南の小路の中に、九人がいた。大庭。硬矢。誉。凪。梓乃。ユネイラ。ガーズ。八千代。ディアン。




 硬矢はカウンター席にいた。大庭の前だった。梓乃がその隣にいた。ディアンがカウンター席の端にいた。誉と凪がボックス席にいた。ユネイラとガーズがテーブルについていた。八千代がその向かいにいた。


 だが、誰も出ていかなかった。




 大庭はカウンターの中にいた。布巾を畳んでいた。器を洗っていた。茶を注ぎ足していた。




 いつもと同じだった。




 硬矢は茶を飲んだ。緑の茶。大庭がこの世界で見つけた茶。




 ——じいちゃんは、ちゃんとやってた。




 コーヒーの豆が減っていく中で、新しいものを見つけた。茶を作った。商人が噂を聞いて来るほどのものを作った。




 硬矢も、バタタのヒゲで茶を作った。大麦の実を持ち帰った。煎ればもう一つ、茶ができる。




 同じことをしていた。離れた場所で、同じことを考えていた。




 窓から光が差していた。カウンターの木目が光っていた。茶の匂いと、コーヒーの匂いが、混じっていた。




 いつもの南の小路だった。

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