↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/36

# 第三十六話 見る

 翌朝、ザートが来た。




 南の小路の扉が開く前だった。まだ朝靄が丘陵に残っていた。丘陵から浜へ向かう草地に、細い道の跡ができていた。二ヶ月前にはなかったものだった。漁村と店を行き来する足が、草を踏んで作った道だった。




 誉が外に出た瞬間、短く刈った頭が見えた。




「——帰ってきたのか」




 ザートだった。腕を組んで、南の小路の前に立っていた。日焼けした顔。ぶっきらぼうな声。一ヶ月前と同じだった。




 誉はニッと笑った。




「生きて帰ってきたぞ」




 ザートは鼻を鳴らした。誉の顔を見ていた。痩せたか、日に焼けたか、じっと見ていた。




「ふうん」




 それだけだった。だが、ザートの肩の力が少しだけ抜けた。




 凪が出てきた。ザートが凪を見た。凪はザートに軽く頭を下げた。ザートは顎を引いただけだった。距離があった。誉を通じて知っている、それだけの関係だった。




「調査隊の時——子供たちは」




 誉が聞いた。




「全員、東の家に入れた。出るなって言った。出なかった」




 ザートの声は短かった。それだけで十分だった。




---




 日が過ぎた。




 硬矢は南の小路を手伝っていた。毎朝、大庭より先にカウンターに入った。器を出した。並べた。布巾で拭いた。棚に戻した。別の器を出した。大庭と同じことを繰り返した。




 大庭は硬矢が持ち帰った大麦を煎った。炭火で、ゆっくりと。コーヒー豆と同じ要領だった。香ばしい匂いが店に広がった。湯を注いだ。薄い琥珀色の液体が器に落ちた。




 麦茶だった。




 大庭は一口飲んだ。何も言わなかった。もう一口飲んだ。棚に、煎った大麦の袋をしまった。




 今までの南の小路はコーヒーと緑茶の二本立てだった。コーヒー豆は残り少なかった。いずれなくなる。消費を散らすために、麦茶もヒゲ茶も出すことにした。




 ただし、バタタのヒゲ茶は期間限定だった。バタタの実は漁村にはなかった。仕入れなければ手に入らない。しかもヒゲだけでは売ってくれない。実を買い、食べて消費し、そこから出るヒゲで茶を作る。量に限りがあった。大麦も漁村では採れなかった。




 鉄瓶の湯が沸いた。大庭は茶葉を出した。東の森で摘んだ葉。炒って、揉んで、乾かしたもの。コーヒー豆が減ってから、茶を出す日が増えていた。




 湯を器に移した。少し冷ました。茶葉に注いだ。




 硬矢は手元を見ていた。




 湯の量。温度。注ぐ速さ。待つ時間。全部が同じだった。昨日と同じ。一昨日と同じ。三十年前から同じ動きだった。




 大庭は硬矢に茶を出した。何も言わなかった。




 硬矢は飲んだ。軽かった。口の中がさっぱりした。




 ——うまい。




 大庭はもう次の器を拭いていた。




---




 ガーズが来た。午後だった。




 漁から戻った後、いつものように南の小路に寄った。カウンターに座った。大庭が茶を出した。




 ガーズは茶を飲んだ。穏やかな顔だった。




「……いい茶だ」




 大庭は頷いた。




 硬矢はカウンターの端にいた。ガーズの飲み方を見ていた。一口目で匂いを嗅ぐ。二口目で味を確かめる。三口目から、ただ飲む。




 ガーズの剣と同じだった。最初に構える。次に間合いを測る。それから、振る。




 無駄がなかった。




 大庭の茶の淹れ方にも、無駄がなかった。




 ——同じだ。




 繰り返す。毎日、同じことを繰り返す。その中に全部がある。ガーズの剣も、大庭の茶も、同じ場所から来ていた。




---




 ディアンは壁際にいた。




 南の小路の入口の壁に背を預けて、腕を組んでいた。三日目も、四日目も、同じ場所にいた。




 大庭はディアンには茶を出した。コーヒーではなく、いつも茶だった。ディアンは飲んだ。だが、自分から何かを言うことはなかった。




 五日目の朝、硬矢がディアンの前に立った。




「暇だろ。手伝え」




 ディアンは硬矢を見た。




「……何を」




「器、拭いてくれ」




 硬矢は布巾を渡した。それだけだった。頼み方も、気の遣い方も、何もなかった。




 ディアンは布巾を受け取った。壁から背を離した。カウンターの端に立って、器を拭いた。




 大庭は何も言わなかった。茶を淹れていた。




 ディアンは硬矢を見ていた。硬矢が大庭の手元を見ているのを、見ていた。器を拭きながら、茶の淹れ方を見ていた。




 何をしようとしているのか、分からなかった。だが、何かをしようとしていることは分かった。




 一週間が過ぎた。




 硬矢が大庭の代わりに茶を淹れた。大庭は何も言わなかった。見ていた。




 硬矢の手が止まった。湯の温度が分からなかった。




「——じいちゃん。これ、何度くらい?」




「触って分かるだろう」




 短かった。それだけだった。




 硬矢は器に手を当てた。熱かった。だが、沸騰直後ではなかった。少し冷めていた。




 注いだ。




 緑色の液体が器に落ちた。大庭の時より、色が薄かった。




 大庭は一口飲んだ。




「……薄い」




「分かってる」




「もう一回」




 硬矢はもう一回淹れた。




 ディアンはカウンターの端で器を拭いていた。手は動いていた。だが、目は硬矢の手元を追っていた。




---




 十日目。梓乃がオーヴホールに発った。




 漁が落ち着いた後の干物売りの船に乗せてもらった。ミヤイナが舵を握っていた。




「オーヴホールまで半日だ。帰りの船は三日後に出る」




 梓乃は頷いた。鞄を肩にかけた。いつものスーツではなかった。ゼスで仕立てた麻の上着。動きやすかった。




 硬矢が浜まで見送った。




「イザーナに、転移の続きがあれば聞いてきてくれ。あと——」




 硬矢は少し考えた。




「街を歩いてほしい。茶を出してる店があるか。酒場じゃなくて、誰でも入れる場所。——あったら、どんな店か見てきてくれ」




 梓乃は硬矢を見た。




「……茶を出す店?」




「うん。あるかどうかだけでいい。——それと、大麦を一袋買ってきてほしい。穀物屋にあるはずだ」




 梓乃は少し首を傾げた。だが、聞き返さなかった。




「分かった。見てくる」




 船が出た。帆が風を受けた。梓乃の姿が小さくなっていった。




---




 十三日目。梓乃が戻ってきた。




 干物売りの帰りの船だった。浜に降りた梓乃は、まっすぐ南の小路に来た。鞄の他に、麻の袋を一つ提げていた。




「硬矢くん」




 梓乃は麻の袋をカウンターに置いた。大麦だった。それから、鞄から紙を出した。オーヴホールで書いたメモだった。






「茶を出す店は、なかった」




 硬矢は紙を受け取った。




「酒場が七軒。ギルドの食堂が一つ。宿屋の食事処が三つ。——全部、酒か食事がメイン。茶を出す店は、一軒もなかった」




 硬矢は頷いた。




「井戸端で女の人たちが集まってる場所はあった。でも、それは知り合い同士の場所。知らない人が行ったら、入れない」




 梓乃の声は落ち着いていた。営業の報告をする時の声だった。




「イザーナにも聞いた。『茶を飲むための店? 聞いたことがない』って」




 硬矢は紙を見ていた。梓乃の字は細かかった。通りの名前、店の名前、場所、特徴。全部書いてあった。




「……ありがとう、梓乃さん」




「それと——」




 梓乃が少し笑った。




「ギルドの受付の子が言ってた。『そういう場所があったら、私は行きたい』って」




---




 十四日目の朝。




 硬矢は南の小路の扉を開けた。カラン、とベルが鳴った。毎日開けていた扉だった。毎日鳴っていたはずだった。——久しぶりに、聞こえた気がした。




 大庭はカウンターの中にいた。いつもと同じだった。




 硬矢は席に座った。カウンターの席。いつもの場所に、座った。




「じいちゃん」




 大庭が顔を上げた。




「みんなに集まってほしい」




 大庭は硬矢を見た。しばらく見ていた。




「……ああ」




---




 午後。南の小路に人が集まった。




 大庭。誉。凪。梓乃。ユネイラ。ガーズ。八千代。ディアン。




 誉と凪がボックス席にいた。ユネイラとガーズが窓際の二人席に座った。八千代がもう一つの窓際席にいた。梓乃はカウンター席。ディアンはカウンター席の端にいた。ザートは外にいた。




 硬矢はカウンター席に座っていた。大庭の前だった。




 全員の顔を見た。




「——俺、この世界で喫茶店をやりたい」




 沈黙が落ちた。




 ユネイラが眉を上げた。ガーズが硬矢を見た。八千代が器を持ったまま、硬矢を見た。




「ウィステリアを歩いて、気づいたことがある。酒場はある。ギルドはある。神殿はある。——でも、誰でもただ座っていい場所がない」




 硬矢の声は静かだった。




「酒場は飲む人の場所だ。ギルドは登録した人の場所だ。井戸端は知り合いの場所だ。全部、入るのに理由がいる」




 梓乃が頷いた。小さく。




「でも、喫茶店は違う。南の小路がそうだったように、来る理由がなくても来ていい場所だ。用がなくても座っていい。知り合いがいなくても入れる」




 八千代が茶を一口飲んだ。




「転移のことを調べた。この世界には停滞っていう現象がある。世界が行き詰まった時に、外から人が来る。——俺たちがここにいるのは、たぶんそれだ」




 誉が硬矢を見ていた。真剣な目だった。




「帰りたい気持ちはある。今でもある。——でも、何かをしなきゃ帰れないなら、俺にできることをやりたい」




 硬矢は大庭を見た。




「じいちゃんは、ここでコーヒー豆を見つけた。茶葉も見つけた。商人が噂を聞いて船を出すほどのものを作った。——俺も、同じことがしたい」




 大庭は布巾を持ったまま、硬矢を見ていた。表情は変わらなかった。




「この世界に、喫茶店を広めたい。茶屋でもいい。誰でも来ていい場所を、もっと作りたい」




 硬矢は息を吸った。




「一人じゃできない。みんなの力がいる」




 沈黙があった。




 ユネイラが腕を組んだ。目が細かった。




「——喫茶店、か」




「はい」




「お前は、それで世界が変わると思ってるのか」




 硬矢は少し考えた。




「変わるかどうかは分からない。——でも、じいちゃんの店は、俺を変えた」




 ユネイラは腕を解かなかった。




「気持ちは分かった。——で、どうやるんだ。店を広めるには金がいる。場所もいる。お前、当てはあるのか」




 硬矢は正面からユネイラを見た。




「全部はまだない。——でも、梓乃さんがオーヴホールで場所の候補を見てきてくれた。茶を出す店は一軒もなかった。でも、欲しいって言った人はいた」




 ユネイラは硬矢を見ていた。しばらく、何も言わなかった。




 それから、ガーズを見た。ガーズは穏やかな目だった。




 ユネイラは小さく息を吐いた。




「——お前たちらしいな」




 八千代が言った。




「いいわねえ」




 いつもの声だった。七十年生きてきた人の、変わらない声だった。




 誉が立ち上がった。




「俺、手伝う」




 凪が頷いた。小さく。




 梓乃が紙を広げた。オーヴホールのメモだった。




「場所の候補、いくつか見てきた」




 硬矢は梓乃を見た。梓乃は少し笑った。




「聞かれた時に、なんとなく分かった。硬矢くんが何を考えてるか」




---




 ディアンは壁際にいた。




 腕を組んでいた。全員の話を聞いていた。




 喫茶店。誰でも来ていい場所。用がなくても座っていい場所。




 ディアンは南の小路の中を見た。カウンター。棚。器。窓の光。茶の匂い。




 ——こういう場所を、増やすのか。




 硬矢を見た。硬矢は梓乃のメモを見ていた。誉が横から覗き込んでいた。凪がザートを呼びに外に出ていた。




 ディアンは壁に背を預けたまま、目を閉じた。




 何も言わなかった。




 だが、腕を組む力が、少しだけ緩んでいた。








 大庭はカウンターの中にいた。




 硬矢の話を聞いていた。全部、聞いていた。




 何も言わなかった。




 棚の奥に手を伸ばした。麻袋だった。口を開けた。中に、黒い豆が残っていた。少しだけ。最後の一握り。炭火で焙煎した、大庭の豆だった。




 大庭は全部出した。残さなかった。




 石臼で挽いた。ゆっくりと。いつもと同じ手つきだった。




 湯を沸かした。布で濾した。細く、静かに。




 匂いが広がった。




 南の小路に、コーヒーの匂いが満ちた。




 誉が顔を上げた。凪が目を開けた。梓乃が息を止めた。ユネイラが腕を解いた。ディアンが壁際で、鼻を動かした。




 入口の外で、ザートが鼻を鳴らした。凪が呼びに行って、来ていた。中には入らなかった。扉の横に立っていた。




 大庭は人数分の器を並べた。一つずつ、同じ量を注いだ。全員の前に、黒い液体を置いた。ザートの分も、入口の外に持っていった。




 誰も何も言わなかった。




 誉が最初に飲んだ。顔をしかめた。




「——にが」




 ゼスに来てから何杯飲んでも、最初の一口でこの顔をする。




 八千代が一口含んだ。目を細めた。何も言わなかった。もう一口飲んだ。




 凪は器を両手で包んで、匂いを嗅いでいた。小さく一口。唇が少し動いた。




 梓乃は静かに飲んだ。目を閉じた。初めてこの店に来た日を思い出しているような顔だった。カウンターで一口飲んで、肩の力が抜けた、あの一杯。




 ガーズは一口で飲み干した。器を置いた。大庭を見た。




「——うまくなったな」




 大庭は頷いた。




 ユネイラは匂いを嗅いだ。一口だけ飲んだ。苦い顔をした。器を置いて、腕を組んだ。だが、匂いの中にはいた。




 ザートは入口の外で飲んだ。何も言わなかった。器を空にして、地面に置いた。




 ディアンは壁際で器を持っていた。一口飲んだ。眉が動いた。苦かった。知らない味だった。だが、もう一口飲んだ。




 硬矢は最後に飲んだ。




 苦かった。深かった。炭火で焙煎した、じいちゃんの豆の味だった。




 ——じいちゃん。




 全員が同じものを飲んでいた。元の世界から来た人間も、この世界の人間も。同じ場所で、同じものを飲んでいた。




 大庭はもう、布巾でカウンターを拭いていた。




 いつもと同じだった。




 麻袋は空だった。




---




 誉が外に出た。




 夕方だった。海が赤かった。




 浜に降りようとして、足を止めた。




 海の向こうに、帆が見えた。




 小さかった。夕日の中に、影のように浮かんでいた。




「——おい」




 誉が振り返った。




「船だ。船が来てる」




 硬矢が出てきた。梓乃が出てきた。ガーズが立ち上がった。




 全員が浜に出た。




 帆が近づいてきた。小さな交易船だった。夕日の中を、まっすぐこちらに向かっていた。




 凪が隣にいた。海を見ていた。風が髪を揺らしていた。




「——なんだろう」




 凪が小さく言った。




「なにかいいものを、運んできてる気がする」




 誰にも聞こえないくらいの声だった。硬矢には聞こえた。




 硬矢は大庭を見た。大庭は浜に立っていた。風が白髪を揺らしていた。




 麻袋は空だった。豆は使い切った。




 だが、帆は来ていた。




 夕日の中で、少しずつ大きくなっていった。




 南の小路が続いていく未来を、その船は運んでいるように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。