# 第三十六話 見る
翌朝、ザートが来た。
南の小路の扉が開く前だった。まだ朝靄が丘陵に残っていた。丘陵から浜へ向かう草地に、細い道の跡ができていた。二ヶ月前にはなかったものだった。漁村と店を行き来する足が、草を踏んで作った道だった。
誉が外に出た瞬間、短く刈った頭が見えた。
「——帰ってきたのか」
ザートだった。腕を組んで、南の小路の前に立っていた。日焼けした顔。ぶっきらぼうな声。一ヶ月前と同じだった。
誉はニッと笑った。
「生きて帰ってきたぞ」
ザートは鼻を鳴らした。誉の顔を見ていた。痩せたか、日に焼けたか、じっと見ていた。
「ふうん」
それだけだった。だが、ザートの肩の力が少しだけ抜けた。
凪が出てきた。ザートが凪を見た。凪はザートに軽く頭を下げた。ザートは顎を引いただけだった。距離があった。誉を通じて知っている、それだけの関係だった。
「調査隊の時——子供たちは」
誉が聞いた。
「全員、東の家に入れた。出るなって言った。出なかった」
ザートの声は短かった。それだけで十分だった。
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日が過ぎた。
硬矢は南の小路を手伝っていた。毎朝、大庭より先にカウンターに入った。器を出した。並べた。布巾で拭いた。棚に戻した。別の器を出した。大庭と同じことを繰り返した。
大庭は硬矢が持ち帰った大麦を煎った。炭火で、ゆっくりと。コーヒー豆と同じ要領だった。香ばしい匂いが店に広がった。湯を注いだ。薄い琥珀色の液体が器に落ちた。
麦茶だった。
大庭は一口飲んだ。何も言わなかった。もう一口飲んだ。棚に、煎った大麦の袋をしまった。
今までの南の小路はコーヒーと緑茶の二本立てだった。コーヒー豆は残り少なかった。いずれなくなる。消費を散らすために、麦茶もヒゲ茶も出すことにした。
ただし、バタタのヒゲ茶は期間限定だった。バタタの実は漁村にはなかった。仕入れなければ手に入らない。しかもヒゲだけでは売ってくれない。実を買い、食べて消費し、そこから出るヒゲで茶を作る。量に限りがあった。大麦も漁村では採れなかった。
鉄瓶の湯が沸いた。大庭は茶葉を出した。東の森で摘んだ葉。炒って、揉んで、乾かしたもの。コーヒー豆が減ってから、茶を出す日が増えていた。
湯を器に移した。少し冷ました。茶葉に注いだ。
硬矢は手元を見ていた。
湯の量。温度。注ぐ速さ。待つ時間。全部が同じだった。昨日と同じ。一昨日と同じ。三十年前から同じ動きだった。
大庭は硬矢に茶を出した。何も言わなかった。
硬矢は飲んだ。軽かった。口の中がさっぱりした。
——うまい。
大庭はもう次の器を拭いていた。
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ガーズが来た。午後だった。
漁から戻った後、いつものように南の小路に寄った。カウンターに座った。大庭が茶を出した。
ガーズは茶を飲んだ。穏やかな顔だった。
「……いい茶だ」
大庭は頷いた。
硬矢はカウンターの端にいた。ガーズの飲み方を見ていた。一口目で匂いを嗅ぐ。二口目で味を確かめる。三口目から、ただ飲む。
ガーズの剣と同じだった。最初に構える。次に間合いを測る。それから、振る。
無駄がなかった。
大庭の茶の淹れ方にも、無駄がなかった。
——同じだ。
繰り返す。毎日、同じことを繰り返す。その中に全部がある。ガーズの剣も、大庭の茶も、同じ場所から来ていた。
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ディアンは壁際にいた。
南の小路の入口の壁に背を預けて、腕を組んでいた。三日目も、四日目も、同じ場所にいた。
大庭はディアンには茶を出した。コーヒーではなく、いつも茶だった。ディアンは飲んだ。だが、自分から何かを言うことはなかった。
五日目の朝、硬矢がディアンの前に立った。
「暇だろ。手伝え」
ディアンは硬矢を見た。
「……何を」
「器、拭いてくれ」
硬矢は布巾を渡した。それだけだった。頼み方も、気の遣い方も、何もなかった。
ディアンは布巾を受け取った。壁から背を離した。カウンターの端に立って、器を拭いた。
大庭は何も言わなかった。茶を淹れていた。
ディアンは硬矢を見ていた。硬矢が大庭の手元を見ているのを、見ていた。器を拭きながら、茶の淹れ方を見ていた。
何をしようとしているのか、分からなかった。だが、何かをしようとしていることは分かった。
一週間が過ぎた。
硬矢が大庭の代わりに茶を淹れた。大庭は何も言わなかった。見ていた。
硬矢の手が止まった。湯の温度が分からなかった。
「——じいちゃん。これ、何度くらい?」
「触って分かるだろう」
短かった。それだけだった。
硬矢は器に手を当てた。熱かった。だが、沸騰直後ではなかった。少し冷めていた。
注いだ。
緑色の液体が器に落ちた。大庭の時より、色が薄かった。
大庭は一口飲んだ。
「……薄い」
「分かってる」
「もう一回」
硬矢はもう一回淹れた。
ディアンはカウンターの端で器を拭いていた。手は動いていた。だが、目は硬矢の手元を追っていた。
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十日目。梓乃がオーヴホールに発った。
漁が落ち着いた後の干物売りの船に乗せてもらった。ミヤイナが舵を握っていた。
「オーヴホールまで半日だ。帰りの船は三日後に出る」
梓乃は頷いた。鞄を肩にかけた。いつものスーツではなかった。ゼスで仕立てた麻の上着。動きやすかった。
硬矢が浜まで見送った。
「イザーナに、転移の続きがあれば聞いてきてくれ。あと——」
硬矢は少し考えた。
「街を歩いてほしい。茶を出してる店があるか。酒場じゃなくて、誰でも入れる場所。——あったら、どんな店か見てきてくれ」
梓乃は硬矢を見た。
「……茶を出す店?」
「うん。あるかどうかだけでいい。——それと、大麦を一袋買ってきてほしい。穀物屋にあるはずだ」
梓乃は少し首を傾げた。だが、聞き返さなかった。
「分かった。見てくる」
船が出た。帆が風を受けた。梓乃の姿が小さくなっていった。
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十三日目。梓乃が戻ってきた。
干物売りの帰りの船だった。浜に降りた梓乃は、まっすぐ南の小路に来た。鞄の他に、麻の袋を一つ提げていた。
「硬矢くん」
梓乃は麻の袋をカウンターに置いた。大麦だった。それから、鞄から紙を出した。オーヴホールで書いたメモだった。
「茶を出す店は、なかった」
硬矢は紙を受け取った。
「酒場が七軒。ギルドの食堂が一つ。宿屋の食事処が三つ。——全部、酒か食事がメイン。茶を出す店は、一軒もなかった」
硬矢は頷いた。
「井戸端で女の人たちが集まってる場所はあった。でも、それは知り合い同士の場所。知らない人が行ったら、入れない」
梓乃の声は落ち着いていた。営業の報告をする時の声だった。
「イザーナにも聞いた。『茶を飲むための店? 聞いたことがない』って」
硬矢は紙を見ていた。梓乃の字は細かかった。通りの名前、店の名前、場所、特徴。全部書いてあった。
「……ありがとう、梓乃さん」
「それと——」
梓乃が少し笑った。
「ギルドの受付の子が言ってた。『そういう場所があったら、私は行きたい』って」
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十四日目の朝。
硬矢は南の小路の扉を開けた。カラン、とベルが鳴った。毎日開けていた扉だった。毎日鳴っていたはずだった。——久しぶりに、聞こえた気がした。
大庭はカウンターの中にいた。いつもと同じだった。
硬矢は席に座った。カウンターの席。いつもの場所に、座った。
「じいちゃん」
大庭が顔を上げた。
「みんなに集まってほしい」
大庭は硬矢を見た。しばらく見ていた。
「……ああ」
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午後。南の小路に人が集まった。
大庭。誉。凪。梓乃。ユネイラ。ガーズ。八千代。ディアン。
誉と凪がボックス席にいた。ユネイラとガーズが窓際の二人席に座った。八千代がもう一つの窓際席にいた。梓乃はカウンター席。ディアンはカウンター席の端にいた。ザートは外にいた。
硬矢はカウンター席に座っていた。大庭の前だった。
全員の顔を見た。
「——俺、この世界で喫茶店をやりたい」
沈黙が落ちた。
ユネイラが眉を上げた。ガーズが硬矢を見た。八千代が器を持ったまま、硬矢を見た。
「ウィステリアを歩いて、気づいたことがある。酒場はある。ギルドはある。神殿はある。——でも、誰でもただ座っていい場所がない」
硬矢の声は静かだった。
「酒場は飲む人の場所だ。ギルドは登録した人の場所だ。井戸端は知り合いの場所だ。全部、入るのに理由がいる」
梓乃が頷いた。小さく。
「でも、喫茶店は違う。南の小路がそうだったように、来る理由がなくても来ていい場所だ。用がなくても座っていい。知り合いがいなくても入れる」
八千代が茶を一口飲んだ。
「転移のことを調べた。この世界には停滞っていう現象がある。世界が行き詰まった時に、外から人が来る。——俺たちがここにいるのは、たぶんそれだ」
誉が硬矢を見ていた。真剣な目だった。
「帰りたい気持ちはある。今でもある。——でも、何かをしなきゃ帰れないなら、俺にできることをやりたい」
硬矢は大庭を見た。
「じいちゃんは、ここでコーヒー豆を見つけた。茶葉も見つけた。商人が噂を聞いて船を出すほどのものを作った。——俺も、同じことがしたい」
大庭は布巾を持ったまま、硬矢を見ていた。表情は変わらなかった。
「この世界に、喫茶店を広めたい。茶屋でもいい。誰でも来ていい場所を、もっと作りたい」
硬矢は息を吸った。
「一人じゃできない。みんなの力がいる」
沈黙があった。
ユネイラが腕を組んだ。目が細かった。
「——喫茶店、か」
「はい」
「お前は、それで世界が変わると思ってるのか」
硬矢は少し考えた。
「変わるかどうかは分からない。——でも、じいちゃんの店は、俺を変えた」
ユネイラは腕を解かなかった。
「気持ちは分かった。——で、どうやるんだ。店を広めるには金がいる。場所もいる。お前、当てはあるのか」
硬矢は正面からユネイラを見た。
「全部はまだない。——でも、梓乃さんがオーヴホールで場所の候補を見てきてくれた。茶を出す店は一軒もなかった。でも、欲しいって言った人はいた」
ユネイラは硬矢を見ていた。しばらく、何も言わなかった。
それから、ガーズを見た。ガーズは穏やかな目だった。
ユネイラは小さく息を吐いた。
「——お前たちらしいな」
八千代が言った。
「いいわねえ」
いつもの声だった。七十年生きてきた人の、変わらない声だった。
誉が立ち上がった。
「俺、手伝う」
凪が頷いた。小さく。
梓乃が紙を広げた。オーヴホールのメモだった。
「場所の候補、いくつか見てきた」
硬矢は梓乃を見た。梓乃は少し笑った。
「聞かれた時に、なんとなく分かった。硬矢くんが何を考えてるか」
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ディアンは壁際にいた。
腕を組んでいた。全員の話を聞いていた。
喫茶店。誰でも来ていい場所。用がなくても座っていい場所。
ディアンは南の小路の中を見た。カウンター。棚。器。窓の光。茶の匂い。
——こういう場所を、増やすのか。
硬矢を見た。硬矢は梓乃のメモを見ていた。誉が横から覗き込んでいた。凪がザートを呼びに外に出ていた。
ディアンは壁に背を預けたまま、目を閉じた。
何も言わなかった。
だが、腕を組む力が、少しだけ緩んでいた。
大庭はカウンターの中にいた。
硬矢の話を聞いていた。全部、聞いていた。
何も言わなかった。
棚の奥に手を伸ばした。麻袋だった。口を開けた。中に、黒い豆が残っていた。少しだけ。最後の一握り。炭火で焙煎した、大庭の豆だった。
大庭は全部出した。残さなかった。
石臼で挽いた。ゆっくりと。いつもと同じ手つきだった。
湯を沸かした。布で濾した。細く、静かに。
匂いが広がった。
南の小路に、コーヒーの匂いが満ちた。
誉が顔を上げた。凪が目を開けた。梓乃が息を止めた。ユネイラが腕を解いた。ディアンが壁際で、鼻を動かした。
入口の外で、ザートが鼻を鳴らした。凪が呼びに行って、来ていた。中には入らなかった。扉の横に立っていた。
大庭は人数分の器を並べた。一つずつ、同じ量を注いだ。全員の前に、黒い液体を置いた。ザートの分も、入口の外に持っていった。
誰も何も言わなかった。
誉が最初に飲んだ。顔をしかめた。
「——にが」
ゼスに来てから何杯飲んでも、最初の一口でこの顔をする。
八千代が一口含んだ。目を細めた。何も言わなかった。もう一口飲んだ。
凪は器を両手で包んで、匂いを嗅いでいた。小さく一口。唇が少し動いた。
梓乃は静かに飲んだ。目を閉じた。初めてこの店に来た日を思い出しているような顔だった。カウンターで一口飲んで、肩の力が抜けた、あの一杯。
ガーズは一口で飲み干した。器を置いた。大庭を見た。
「——うまくなったな」
大庭は頷いた。
ユネイラは匂いを嗅いだ。一口だけ飲んだ。苦い顔をした。器を置いて、腕を組んだ。だが、匂いの中にはいた。
ザートは入口の外で飲んだ。何も言わなかった。器を空にして、地面に置いた。
ディアンは壁際で器を持っていた。一口飲んだ。眉が動いた。苦かった。知らない味だった。だが、もう一口飲んだ。
硬矢は最後に飲んだ。
苦かった。深かった。炭火で焙煎した、じいちゃんの豆の味だった。
——じいちゃん。
全員が同じものを飲んでいた。元の世界から来た人間も、この世界の人間も。同じ場所で、同じものを飲んでいた。
大庭はもう、布巾でカウンターを拭いていた。
いつもと同じだった。
麻袋は空だった。
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誉が外に出た。
夕方だった。海が赤かった。
浜に降りようとして、足を止めた。
海の向こうに、帆が見えた。
小さかった。夕日の中に、影のように浮かんでいた。
「——おい」
誉が振り返った。
「船だ。船が来てる」
硬矢が出てきた。梓乃が出てきた。ガーズが立ち上がった。
全員が浜に出た。
帆が近づいてきた。小さな交易船だった。夕日の中を、まっすぐこちらに向かっていた。
凪が隣にいた。海を見ていた。風が髪を揺らしていた。
「——なんだろう」
凪が小さく言った。
「なにかいいものを、運んできてる気がする」
誰にも聞こえないくらいの声だった。硬矢には聞こえた。
硬矢は大庭を見た。大庭は浜に立っていた。風が白髪を揺らしていた。
麻袋は空だった。豆は使い切った。
だが、帆は来ていた。
夕日の中で、少しずつ大きくなっていった。
南の小路が続いていく未来を、その船は運んでいるように見えた。




