# 第三十四話 居場所
南の小路は、広場から少し離れた場所にあった。
集落を出て、丘を登った先。草地の上に、ぽつんと建っている。看板はない。窓が二つ。木の扉。
一行は無言で丘を登った。草を踏む音だけがあった。誰も、口を開かなかった。
草地の上に、南の小路が見えた。変わらない姿だった。壁も、屋根も、ガラス戸も。周りの景色だけが、いつもと違う顔ぶれで囲まれていた。
大庭が先に入った。扉を開けたまま、中に消えた。
ユネイラが続いた。ガーズが続いた。
隊長格の男が、扉の前で足を止めた。
中を見た。
薄暗かった。窓から差す光が、木のカウンターを照らしていた。椅子が四つ。テーブルが二つ。棚に並んだ器。布巾がかけてある。
——店だった。
本当に、店だった。
隊長は副隊長を見た。副隊長は肩をすくめた。二人は中に入った。
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硬矢は入口の近くに立った。
誉と凪と梓乃が、その後ろにいた。ディアンは外にいた。
大庭は窓際のテーブルを動かした。二人席を二つ、寄せた。椅子を移動した。何も言わなかった。
ユネイラとガーズが片側に座った。隊長と副隊長が向かいについた。さっきまで刃を向け合っていた四人が、寄せたテーブルを囲んでいた。空気が重かった。
広場から戻って、大庭はエプロンを直した。布巾をポケットから出した。カウンターを拭いた。
いつもの動きだった。何も変わっていなかった。
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大庭は棚から袋を取った。
豆だった。焙煎した豆。硬矢は匂いで分かった。深煎り。煙の匂いが残っている。鉄の鍋で焙った豆。
大庭は豆を石臼に入れた。ゆっくり挽いた。乾いた音がした。
隊長が眉をひそめた。
「——何をしている」
大庭は答えなかった。挽き続けた。
粉になった。大庭は布で濾す準備をした。湯を沸かしていた。炭火の上の鉄瓶から、細い湯気が立っていた。
湯を注いだ。
黒い液体が、布を通って器に落ちた。
匂いが広がった。
苦い匂い。深い匂い。焦げた木の匂いとは違う。甘さの奥に、煙がある。
隊長の目が、器に向いた。
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大庭は五つの器に注いだ。
ユネイラの前に一つ。ガーズの前に一つ。隊長の前に一つ。副隊長の前に一つ。
最後の一つを、自分の前に置いた。
黒かった。底が見えなかった。
隊長は器を見た。持ち上げなかった。
「——毒か」
大庭は自分の器を持ち上げた。一口飲んだ。
ユネイラが飲んだ。ガーズが飲んだ。
隊長は器を見ていた。黒い液体の表面に、窓の光が映っていた。
副隊長が先に手を伸ばした。器を持ち上げた。匂いを嗅いだ。一口含んだ。
顔をしかめた。
「——苦い」
大庭は何も言わなかった。
隊長は副隊長を見た。副隊長は死んでいなかった。顔をしかめていたが、もう一口飲んでいた。
隊長は器を持ち上げた。
一口。
苦かった。舌の奥に、重い味が残った。だが、その奥に何かがあった。甘さではなかった。温かさだった。喉を通った後に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
隊長は器を置いた。
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沈黙があった。
ユネイラが口を開いた。
「——さっき広場で聞いた話を、もう一度、ここで聞く」
声は太かった。だが、広場の時とは違っていた。銛を握っていた時の声ではなかった。
隊長は器を見ていた。まだ半分残っていた。
「ジェネラル級リザードマンを討伐した者がいると聞いた。事実か」
「事実だ」
ユネイラは即答した。
「誰が倒した」
ユネイラはガーズを見た。ガーズは黙っていた。器を両手で包んでいた。
「——うちの亭主だ」
隊長がガーズを見た。ガーズは器から目を上げなかった。
「先ほどの剣。あれが全力か」
「——ああ。全力だった」
ガーズが初めて口を開いた。声は穏やかだった。誇張もなかった。卑下もなかった。
隊長の目が、わずかに動いた。侮辱の色を探していたが、見つからなかった。ガーズの声には、そういうものが最初からなかった。
「——なるほど」
隊長は器を持ち上げた。もう一口飲んだ。
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硬矢は壁際に立っていた。
見ていた。
隊長の肩が、少しだけ下がっていた。広場では上がっていた。構えていた。今は違った。
副隊長は二杯目を飲んでいた。大庭が黙って注いでいた。
店の中の空気が、変わっていた。変わったのではなかった。南の小路の空気が、そのまま流れていた。大庭がカウンターの中にいて、器を出して、黒い飲み物を注いでいる。それだけのことだった。
だが、剣を抜く気にはならない空気だった。
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隊長が大庭を見た。
しばらく、見ていた。
「——あの時。お前が来た」
大庭はカウンターを拭いていた。手を止めなかった。
「俺たちは、剣を振り上げたまま止まった。——お前が歩いてきた時だ」
大庭は何も言わなかった。布巾を畳んだ。新しい布巾を出した。
隊長は、それ以上聞かなかった。聞いても答えが返ってこないと分かっていた。ただ、目の奥に、小さな引っかかりが残っていた。
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隊長が店の中を見渡した。
カウンター。棚。器。布巾。窓から差す光。木の壁。天井の染み。
戦場ではなかった。砦でもなかった。武器庫でもなかった。
店だった。
老人が一人で切り盛りしている、小さな店だった。
「——この飲み物は何だ」
「コーヒーだ」
大庭の声は短かった。
「この辺りでは見ない」
「ああ」
「どこの飲み物だ」
「遠いところだ」
大庭はそれ以上言わなかった。隊長もそれ以上聞かなかった。
ユネイラが身を乗り出した。
「聞きたいことは聞いた。——次はこっちだ」
隊長がユネイラを見た。
「うちの漁師が三人、動けなくなった。骨が折れてる。何ヶ月も漁に出られない。漁村で漁に出られないのが何を意味するか、分かるか」
隊長は黙った。
「生活が壊れるんだ。家族がいる。子供がいる。——お前たちは手加減したつもりだろう。だが、この村にとっては十分な暴力だ」
ユネイラの目が据わっていた。声は抑えていた。だが、重かった。
隊長は答えなかった。器を見ていた。
「……それについては、認める」
短かった。だが、目を逸らさなかった。
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沈黙が落ちた。
大庭が動いた。棚から別の器を出した。小さな器だった。蓋がついていた。
蓋を開けた。中に、魚の切り身が並んでいた。薄く切って、塩をして、茶の葉の煙で燻したもの。表面が飴色に光っていた。
皿に並べた。テーブルの真ん中に置いた。
誰も頼んでいなかった。
ユネイラが一切れ取った。口に入れた。噛んだ。
ガーズが一切れ取った。
副隊長が手を伸ばした。一切れ取った。噛んだ。塩気と、茶の煙の香りがあった。コーヒーの苦味の後に、軽かった。口の中が重くならなかった。
隊長は燻し魚を見ていた。
手を伸ばした。一切れ取った。
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硬矢は見ていた。
大庭は何もしていなかった。コーヒーを淹れた。燻し魚を出した。それだけだった。
だが、テーブルの上で、同じものを食べていた。敵も味方もなかった。ユネイラの燻し魚と、隊長の燻し魚は、同じ皿から取ったものだった。
——じいちゃんは、いつもこうだった。
南の小路で。現世で。三十年間。
客が来る。座る。コーヒーが出る。何も聞かない。何も言わない。ただ、同じ空間にいる。同じ空気を吸う。同じカップから注がれたコーヒーを飲む。
それだけで、人は少しだけ変わる。肩の力が抜ける。声が柔らかくなる。帰り際に「また来ます」と言う。
大庭は、それがあった。
居場所を作る力。
この人を害そうという気が起きなくなる。それは、攻撃を無効化する力ではなかった。この場所を壊したくないと思わせる力だった。
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隊長が口を開いた。
「——報告は出す」
ユネイラの目が鋭くなった。
「ジェネラル級を単独で倒せる戦士がいる。それは事実だ。報告しないわけにはいかない」
ガーズが顔を上げた。穏やかな目だった。だが、奥に光があった。
「報告の中身は、お前が決めるのか」
「……ああ」
「なら、好きに書け」
ガーズは器を置いた。
「俺はここの漁師だ。剣はもう関係ない。——ただ、家族と村を守るために振っただけだ」
隊長はガーズを見ていた。長い間、見ていた。
「……漁師か」
「ああ」
隊長は器の中の黒い液体を見た。底が見えなかった。
飲み干した。
「——脅威の報告にはならない」
ユネイラが目を細めた。
「ジェネラル級を倒した者がいるのは事実だ。だが、この村が本国にとって脅威かと聞かれれば——」
隊長は店の中を見た。カウンター。棚。器。布巾。窓の光。燻し魚の皿。
「——違う」
短かった。
「ここは、そういう場所じゃない」
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大庭は何も言わなかった。
カウンターを拭いていた。
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隊長と副隊長が立ち上がった。
「部下を連れて発つ。——漁師の件は、すまなかった」
ユネイラは頷いた。許したわけではなかった。だが、これ以上は言わなかった。
隊長が扉に向かった。
扉の前で、足を止めた。振り返った。大庭を見た。
「——店主」
大庭が顔を上げた。
「この飲み物は、うまかった」
大庭は小さく頷いた。
「どうも」
隊長は扉に手をかけた。少し間があった。
「——次に来た時も、出るか」
大庭は棚を見た。豆の袋を見た。
「……ああ。出す」
隊長は出ていった。
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扉が閉まった。
草地に、足音が遠ざかっていった。丘を下りていく。
店の中に、七人が残った。ユネイラとガーズ。大庭。硬矢。
誉と凪と梓乃は、入口の近くに立っていた。
扉が開いた。
ディアンだった。外にいたまま、中に入ってこなかったディアンが、初めて店の中に足を踏み入れた。
一歩。二歩。立ち止まった。
店の中を見渡した。カウンター。棚。器。窓の光。コーヒーの匂いが残っている空気。
眉がわずかに上がった。
「——漁村に、似つかわしくないな」
大庭は振り返らなかった。棚を拭いていた。
ディアンはもう一度、店の中を見た。それから、入口の壁に背を預けた。何も言わなかった。
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ユネイラが息を吐いた。長い息だった。肩が落ちた。
「——終わったのか」
誰にともなく言った。
ガーズはユネイラに答えるように言った。
「終わった」
ユネイラは目を閉じた。銛を握っていた手を開いた。閉じた。また開いた。
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硬矢は荷物の中から布袋を二つ出した。
一つ目をカウンターに置いた。
「——じいちゃん。土産」
大庭は布袋を見た。開けた。中を見た。匂いを嗅いだ。
「……ヒゲか」
「バタタのヒゲ。煮出すと茶になる。甘い。百杯分ある」
大庭は袋を閉じた。棚にしまった。
硬矢は二つ目の布袋を置いた。
「大麦。煎れば麦茶になる。こっちも百杯分」
大庭は袋を開けた。粒を見た。指で一粒つまんだ。匂いを嗅いだ。
「……煎るのか」
「じいちゃんなら、コーヒーと同じ要領でいけると思う」
大庭は袋を閉じた。棚の、ヒゲの隣にしまった。
「ありがとう」
短かった。いつもと同じだった。
硬矢は少し笑った。
南の小路の空気が、そこにあった。異世界の、漁村の、路地の奥の小さな店に。三十年前から変わらない空気が。
窓から光が差していた。カウンターの木目が光っていた。コーヒーの匂いが残っていた。




