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# 第三十二話 船

 街道を歩いた。




 今回は道草をしなかった。丘陵を越え、草原を抜け、来た道をそのまま戻った。




 五日目の夜、丘陵地帯で野営した。火を焚いた。狼の話を誰かがした。行きに聞いた話だった。群れで動く。夜に出る。火を焚いていれば来ない。




 来なかった。




 遠くで一度、遠吠えが聞こえた。誉が棒を握った。凪が杖を構えた。ディアンが火の近くに寄った。




 それだけだった。遠吠えは二度目がなかった。




 硬矢は火を見ていた。炎の色が安定していた。薪が乾いていた。




「——寝よう。交代で見張る」




 六日目。七日目。歩いた。




---




 八日目の昼過ぎ、オーヴホールの外壁が見えた。




 港の匂いがした。潮と、魚と、石の匂い。来た時と同じだった。




 誉が伸びをした。




「着いたー」




「まだ門を通ってない」




「気持ちの問題だって」




 門番にギルドカードを見せた。ディアンは神殿の門弟証を出した。門番はちらりと見て、通した。




---




 蔵書庫に向かった。




 硬矢は通りを歩きながら、建物の影を見ていた。路地の奥。壁と壁の隙間。窓の下。




 足を止めた。




 路地の奥に、人影があった。壁に背を預けて、本を読んでいた。




「——イザーナ」




 人影が顔を上げた。




「……え」




 イザーナが本を閉じた。目を丸くしていた。




「なんで分かったの。ここ、蔵書庫じゃないよ」




「なんとなく」




 ディアンが硬矢の横で足を止めていた。路地の奥を見た。暗かった。人がいるとは思わなかった。




「……どうして分かるんですか」




「なんとなく」




 ディアンの眉が寄った。




「前にも、市場で人を見つけた時、同じことを言ってましたよね」




「ああ」




「その前も。宿坊で、シュプリが裏庭にいた時も」




「……そうだったか」




「そうでした。——なんとなく、で三回目です」




 硬矢は少し考えた。




「人がいそうな場所が、分かる。理屈じゃない。目が勝手にそっちを見る」




 ディアンは黙った。納得していない顔だった。だが、それ以上は聞かなかった。




---




 イザーナが五人を蔵書庫に案内した。いつものテーブルだった。本が積まれていた。読みかけの付箋が何枚も挟まっていた。




「——帰ってきたんだ」




「帰ってきた」




 硬矢はテーブルに座った。イザーナが向かいに座った。




「ウィステリア、どうだった」




「長い話になる」




「いいよ。時間はある」




 硬矢は話した。神殿のこと。ギュンターのこと。テストのこと。成長速度のこと。結果が「ちょっとデキる一般人」だったこと。




 イザーナは黙って聞いていた。時々、目が動いた。何かを考えている目だった。




「停滞という言葉が出た。この世界が停滞していて、転移はその節目に起きる、と」




「……停滞」




 イザーナが繰り返した。声の色が変わっていた。




「それは、ここの本にも書いてあった。断片的だけど。——神殿で、もっと詳しいことが分かった?」




「少しだけ。変化神という神がいる。商売神の元の名前だ」




 イザーナの目が光った。




「変化神——」




 立ち上がった。棚に向かった。本を一冊引き抜いた。古い革表紙だった。




 テーブルに戻った。ページをめくった。指が速かった。




「——ここ」




 開いたページを硬矢に向けた。神々の系譜が描かれていた。四柱の主神の名前が上に並んでいた。その下に、枝分かれした線があった。




 線の先に、小さな文字があった。




「前に言ったでしょう。古い書体で読めない名前があるって。——これだ」




 イザーナの指が、その文字を指した。




「変化神。ここにちゃんといる。四柱の後に生まれた神。系譜に名前がある」




 硬矢は文字を見た。読めなかった。だが、イザーナの目が確信していた。




「それ以上は書いてない?」




「書いてない。名前と、系譜上の位置だけ。でも——」




 イザーナは本を閉じた。少し笑った。




「いるんだ。ちゃんと、いる。あなたたちをここに連れてきた神が、記録に残ってる。——それだけで、少し違う」




 硬矢は頷いた。帰れる保証にはならない。だが、手がかりが一つ増えた。




 イザーナは本を大事そうに棚に戻した。




---




「——それと、一人増えた」




 硬矢がディアンを見た。ディアンは入口の近くに立っていた。テーブルには座っていなかった。




「ディアン。神殿の門弟で、俺たちに付いてきた」




 イザーナがディアンを見た。ディアンが小さく頭を下げた。




「……ディアンです」




 声が硬かった。目が泳いでいた。人見知りだった。




「イザーナ。蔵書庫の司書。——本の虫って呼ばれてる」




「知ってます。噂は聞いたことがあります」




「噂?」




「オーヴホールの蔵書庫に、全部読んだ司書がいると」




 イザーナが少し照れた。




「全部じゃないよ。まだ三割くらい残ってる」




「七割読んだんですか」




「……うん」




 ディアンは黙った。何か言いたそうだったが、言葉が出なかった。代わりに、棚を見た。天井まで積まれた本を見た。目が少しだけ広がった。




---




 硬矢は台所を借りた。




 荷物から布袋を出した。乾いたバタタのヒゲだった。鍋に水を入れ、ヒゲを入れた。火にかけた。




 煮出した。薄い黄金色。香ばしい匂いが立った。




 椀に注いだ。五つ。イザーナの分も。




「——何これ」




「ヒゲ茶。バタタの実のヒゲを乾かして煮出した」




 イザーナが椀を受け取った。匂いを嗅いだ。一口飲んだ。




「……おいしい。甘い」




「バタタは年中採れるだろ。オーヴホールにもあるはずだ」




「あるよ。市場で売ってる」




「今度やってみて。ヒゲを取って、四日くらい干して、煮出すだけだ」




 イザーナは椀を両手で包んだ。もう一口飲んだ。




「——これ、あなたが考えたの?」




「元の世界にあった。とうもろこしっていう、似た植物のヒゲで作る茶だ」




「とうもろこし」




「バタタとほぼ同じ。粒の並び方も、ヒゲの付き方も」




 イザーナは椀を見た。黄金色の液体を見た。




「別の世界の知識が、この世界の捨てるところから飲み物を作った」




「大げさだな」




「大げさじゃないよ。——これが、あなたたちがここにいる意味かもしれない」




 硬矢は何も言わなかった。椀を持ち上げた。飲んだ。




---




 再会の話に花が咲いた。




 イザーナは硬矢たちがいない間のオーヴホールの話をした。ダンジョンの中層が少し落ち着いたこと。新しい冒険者が二人来たこと。蔵書庫に寄贈された本が三冊あったこと。




 誉はウィステリアの市場の話をした。凪は新しい杖の話をした。梓乃は市場の店主たちの話をした。




 ディアンはテーブルの端に座っていた。話には加わらなかった。だが、聞いていた。




 日が傾いた。




「——泊まっていきなよ。宿より蔵書庫の方が広い」




「いいのか」




「本の間に寝袋を敷けば寝られる。私はいつもそうしてる」




 誉が笑った。




「本当に本の虫だな」




 イザーナも笑った。




---




 夜。




 蔵書庫の灯りが落ちた。魔石の灯りが一つだけ残っていた。




 ディアンは本棚の間に寝袋を敷いていた。眠れなかった。




 硬矢たちの笑い声が、まだ耳に残っていた。イザーナとの会話。誉の冗談。凪の小さな笑い。梓乃の穏やかな声。




 ゼスに早く帰りたいのだろう、と思っていた。硬矢たちは。ゼスに大庭がいる。八千代がいる。ユネイラがいる。ガーズがいる。帰る場所がある人たちだ。




 だが、オーヴホールに着いた途端、この空気だった。イザーナが笑って、ヒゲ茶を飲んで、本の話をして、泊まっていけと言った。硬矢たちは当たり前のようにそれを受け入れた。




 行く先々に、こういう場所がある。




 ディアンには、なかった。神殿にはあったが、それは居場所ではなかった。役割があっただけだった。




 ——取り決めだから、ここにいる。




 そう思おうとした。だが、今日の空気が、胸の奥に残っていた。温かくて、少しだけ苦しかった。




 ディアンは寝返りを打った。本の背表紙が、薄い灯りに照らされていた。




---




 翌朝。




 五人はギルドに顔を出した。




 受付を通ると、奥のテーブルに見覚えのある背中があった。太い腕。革の鎧。壁に盾を立てかけている。




「——ウェイン」




 硬矢が声をかけた。ウェインが振り返った。




「おう。帰ってきたか」




 ロットが軽く頷いた。トリスが水を飲んでいた。パーヴァルが穏やかに微笑んだ。




「ウィステリアはどうだった」




「長い話になる」




「また長い話か。お前、いつも長い話だな」




 ウェインが笑った。硬矢も少し笑った。




 座った。簡単に話した。神殿のこと。テストのこと。帰ることにしたこと。




 ウェインは黙って聞いていた。パーヴァルが一つだけ聞いた。




「成長速度が異常、というのは——魔法もか」




「凪の水は伸びてる。俺は適性がない」




 パーヴァルは頷いた。凪を見た。凪の腰に、新しい杖があった。古い杖も、まだ持っていた。




「——二本持ちか。いい判断だ」




 凪が少し驚いた顔をした。パーヴァルが微笑んだ。




---




「そういえば——」




 ウェインが思い出したように言った。




「昨日、妙な連中が港にいた。六人。船で来て、南に向かうと言ってた」




「南?」




「ゼスの方だ。——えらく強そうだった。装備が違う。この辺りの冒険者じゃない」




 硬矢は少し気になった。だが、それ以上は聞かなかった。




「それと、ゼスに行く船が今港にいるぞ」




 硬矢が顔を上げた。




「船?」




「昨日入ってきた。沿岸を南に下る商船だ。ゼスにも寄ると言ってた」




「何の用で」




「さあな。——ただ、船主が言ってたのは、ゼスで変わった茶が飲めるって噂を聞いたらしい。見たことのない茶を出す店があると」




 硬矢の手が止まった。




「……茶」




「ああ。南の漁村に、変わった飲み物を出す店があると。苦い黒い飲み物と、もう一つ、緑色の茶。どっちもこの辺りじゃ見ない代物だと。商人が興味を持って、買い付けに行くんだとさ」




 硬矢は黙った。




 緑色の茶。大庭が見つけたのか。自分たちがいない間に。




 コーヒーだけじゃない。新しいものを作った。それが噂になって、商人を動かすほどになっている。




「——船なら、半日だ。歩けば五日のところが」




 ウェインがそう言った。




 誉が立ち上がった。




「マジか!」




「マジだ。港に行ってみろ。まだ停泊してるはずだ」




 五人はギルドを出た。




---




 港だった。




 大きな船が一隻、停泊していた。帆を畳んでいた。甲板に人影があった。荷を運んでいた。




 硬矢は桟橋を歩いた。船に近づいた。甲板の男に声をかけた。




「ゼスまで乗せてもらえないか」




 男は五人を見た。ギルドカードを見せた。男は頷いた。




「構わん。荷の邪魔にならなければ。——昼に出る」




---




 船に乗った。




 帆が上がった。風が入った。船が動き出した。




 港が遠ざかった。オーヴホールの外壁が小さくなっていった。




 誉が甲板に寝転がった。




「楽だ……」




「五日歩くところが半日だからな」




「最高だ。船、最高」




 凪が船縁に立っていた。海を見ていた。風が髪を揺らしていた。




 梓乃が甲板の端に座った。海を見ていた。静かだった。




 ディアンは船室の入口に立っていた。海を見ていなかった。甲板にいる四人を見ていた。




 硬矢は船縁に肘をついた。海を見ていた。




 緑色の茶。じいちゃんが見つけた。




 コーヒーの豆は限りがある。補充できない。一杯ごとに減っていく。それは硬矢も分かっていた。だから大庭は考えたのだろう。コーヒーの代わりになるものを。




 見つけた。そして、それが噂になるほどのものを作った。




 硬矢は少し笑った。誰にも見えないくらいの、小さな笑みだった。




 ——じいちゃんは、ちゃんとやってる。




 海が広かった。風が吹いていた。帆が膨らんでいた。




 半日後には、ゼスの入江が見える。




 大庭がいる。八千代がいる。ユネイラがいる。ガーズがいる。




 硬矢は荷物の中の布袋に手を触れた。二つあった。乾いたバタタのヒゲ。百杯分。大麦の実。百杯分。




 ——じいちゃん、土産がある。




 船が、南へ走った。

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