# 第三十一話 帰り道
五週目に入った頃、コーウェンに会った。
市場の外れだった。硬矢が一人でバタタの実を買いに来ていた。ヒゲ茶を作るためだった。
「——また会ったな」
声がした。振り返ると、濃い青の外套が立っていた。
「コーウェンさん」
「師団長、でいい。——一人か」
「買い物です」
コーウェンは硬矢の手元を見た。バタタの実を三本抱えていた。
「バタタか。食うのか」
「実は食います。ヒゲは茶にします」
「……ヒゲを」
「煮出すと飲めるんです」
コーウェンは少し黙った。それから、小さく笑った。
「副師団長の教え子は、変わった奴だな」
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二人で歩いた。コーウェンが歩調を合わせた。
「一ヶ月、神殿にいたと聞いた」
「テストを受けてました。毎週一回」
「結果は」
「ちょっとデキる一般人です」
コーウェンが足を止めた。硬矢を見た。
「——自分でそう言えるのか」
「事実ですから」
コーウェンは歩き出した。しばらく黙っていた。
「——神殿の中は、どうだ。慌ただしくないか」
硬矢は少し間を置いた。世間話にしては、聞き方が具体的だった。
「静かですよ。テストの日以外は、特に何も」
「よそよそしい者は」
「……いません。ギュンターさんも、記録係の子も、普通にしてくれてます」
コーウェンは頷いた。それ以上は聞かなかった。
硬矢は前を向いたまま、少し考えた。師団長が、神殿の空気を気にしている。聞きたいのは自分の居心地ではなく、神殿の内側のことだろう。
だが、嘘をつく理由はなかった。見たままを答えた。
「副師団長も、最初はそうだった」
硬矢が顔を上げた。
「ガーズさんが?」
「入隊した時、あの方は特別じゃなかった。体が大きいわけでもない。魔法も使えない。剣の才能があると言われたこともなかった」
コーウェンの声は静かだった。
「ただ、毎日振った。朝と夜。同じ素振りを、同じ回数。雨の日も、怪我をした日も。3年経った頃には、師団で一番無駄のない剣を振る男になっていたそうだ」
硬矢は黙って聞いた。
「才能じゃない。あの方の剣は、積み重ねだ。——お前の成長速度が速いなら、積み重ねる時間が短くて済むということだ」
硬矢は頷いた。言葉が、腹の底に落ちた。
「……ガーズさんに、よろしく伝えます」
「ああ。——漁師をやっていると聞いた。剣は、まだ振っているか」
「手入れだけは、やめられないみたいです」
コーウェンは前を向いた。目が少し細くなった。
「そうか。——あの方らしい」
少し歩いた。コーウェンが、独り言のように言った。
「……私は若かった。酒の飲み方も知らなかった。あの方は任務の後にエールを飲んでいた。私はそれを、見ているだけだった」
コーウェンの目が、遠くを見ていた。
「——いつか、あの方と飲み交わしたいと思っていた」
硬矢は何も言わなかった。だが、「エール」という言葉が、頭の隅に残った。
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宿坊に戻ると、誉が中庭で素振りをしていた。
木剣ではなかった。ウィステリアの市場で買った、安い練習用の剣だった。刃はついていなかった。
誉の素振りは、一ヶ月前より変わっていた。力任せではなくなっていた。まだ荒かったが、足の幅が安定していた。ガーズに教わった基本が、体に入り始めていた。
凪は中庭の隅で、杖を構えていた。新しい杖だった。魔石を一つだけ嵌めていた。水弾を的に向けて撃っていた。三発に一発、当たった。
梓乃は部屋にいた。紙に何かを書いていた。市場の店の名前と、扱っている品物と、値段だった。
「何してるんですか」
「癖です。営業先のリストを作るのと同じで——」
梓乃は少し笑った。
「この世界でも、やることは変わらないみたいです」
硬矢はリストを覗き込んだ。店の名前が並んでいた。布屋、革屋、薬草屋、穀物屋——
足が止まった。
「梓乃さん。穀物屋、どこにあった」
「港通りの角です。大きな袋が積んであるから、すぐ分かります。——どうしたんですか」
硬矢は答えなかった。バタタの実を置いて、部屋を出た。
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走った。
港通りの角に、穀物屋はあった。梓乃の言った通り、大きな袋が積んであった。
「——これ、何の穀物ですか」
店主が袋を開けた。黄色い粒が見えた。
「大麦だ。エールの原料だよ」
硬矢は袋を見つめた。エール。コーウェンの声が頭の中で鳴った。——エールを飲み交わしたい。エールの原料。大麦。
大麦を煎れば、麦茶になる。
「一袋ください」
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宿坊の炊事場を借りた。
袋から一掴みだけ取り出した。鍋に入れて、火にかけた。粒が小さい。コーヒー豆より火の回りが早い。弱火にして、鍋を揺すり続けた。じいちゃんが豆を煎る時の手つきが、手に残っていた。
粒が少しずつ色づいた。香ばしい匂いが立った。——知っている匂いだった。
湯を沸かした。煎った大麦を入れた。
色が出た。薄い茶色だった。
口に含んだ。
——麦茶だ。
煎りにムラはあった。でも、麦茶だった。
ヒゲ茶と、麦茶。同じ日にできた。
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ギュンターに呼ばれたのは、その翌日だった。
「テストは終わった。記録は取れた」
ギュンターは椅子に座っていた。紫の帯が、窓からの光に照らされていた。
「これ以上は、ここでは測れない。成長が続くかどうかは、時間の問題だ」
硬矢は頷いた。
「——帰ります。ゼスに」
「そうか」
ギュンターは短く答えた。引き留めなかった。
「停滞のことは、引き続き調べる。何か分かれば、知らせよう」
「ありがとうございます」
硬矢は頭を下げた。ギュンターは頷いた。
硬矢が立ち上がりかけた時、ギュンターが言った。
「——ディアンを、連れていくか」
硬矢は足を止めた。
「取り決めでは、門弟は転移者に付く。お前たちがゼスに帰るなら、ディアンも付いていくのが筋だ」
「ディアンは、どう思ってるんですか」
ギュンターは少しの間、黙った。
「あの子に聞いてみるといい」
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中庭だった。
ディアンは壁際に立っていた。いつもの場所だった。本を持っていたが、読んでいなかった。
「——ゼスに帰ることになった」
硬矢が言った。ディアンは顔を上げた。
「……聞きました」
「お前は、どうする」
ディアンは黙った。長い沈黙だった。
「取り決めでは、私はあなたたちに付くことになっています」
「取り決めのことは聞いてない。お前がどうしたいか、聞いてる」
ディアンの目が揺れた。
一ヶ月。この四人と過ごした。手紙を書いた。ヒゲ茶を飲んだ。読めない文字を写した。名前を呼ばれた。飯を一緒に食った。
壁は、まだあった。だが、一ヶ月前より薄くなっていた。自分でも分かっていた。
「——行きます」
小さな声だった。
「取り決めだからではなく?」
硬矢が聞いた。ディアンは少しの間、硬矢を見ていた。
「……取り決めだからです」
声は硬かった。だが、目が違った。
硬矢は笑った。
「分かった」
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出発の朝。
宿坊の前に、五人が立っていた。荷物は少なかった。
ギュンターが見送りに来ていた。シュプリが隣にいた。記録用の紙を抱えていなかった。今日は、ただ立っていた。
「——道中、気をつけろ」
ギュンターの声は短かった。だが、硬さはなかった。
ディアンがギュンターの前に立った。頭を下げた。
「大神官。お世話になりました」
「ああ」
ギュンターはディアンを見ていた。一ヶ月前と、少しだけ違う顔をしていた。
「——元気でやれ」
短かった。ディアンは頷いた。
硬矢はシュプリの方を見た。
「一ヶ月、ありがとう。毎回ちゃんと記録してくれて」
シュプリは少し目を丸くした。それから、小さく頭を下げた。
「……お気をつけて」
声は小さかった。だが、はっきり聞こえた。
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ウィステリアの門を出た。
街道が伸びていた。来た時と同じ道だった。だが、景色が違って見えた。一ヶ月前は知らない街に入っていく道だった。今は、知っている街を出ていく道だった。
誉が伸びをした。
「帰るぞー」
「まだ十二日あるぞ」
「分かってるって。でも、帰るって思うだけで足が軽い」
凪が誉の隣を歩いた。新しい杖が腰にあった。古い杖も、まだ持っていた。
しばらく歩いて、凪が空を見上げた。
「……もう二ヶ月くらい、こっちにいるんだよね」
誰に言うでもなかった。誉が横を向いた。
「そうだな。——思ったより長いな」
「うん」
凪の声は小さかった。友達に何も言えてない。お母さんにも。スマホも鳴らない。そういうことを、普段は考えないようにしていた。でも、歩いていると、ふと浮かぶ。
誉が前を向いたまま言った。
「まあ、何とかなるだろ」
軽かった。いつもの誉だった。だが、凪は知っていた。誉も時々、朝、目が少し赤いことを。
「——うん。何とかなるよね」
凪は杖の柄を握り直した。誉がいるから、そう思えた。
梓乃が振り返った。ウィステリアの門が小さくなっていた。
「……また来ることも、あるんですかね」
「あるだろうな」
硬矢が言った。
ディアンは五人の後ろを歩いていた。いつもの距離だった。
だが、硬矢が振り返ると、ディアンは目を逸らさなかった。
「——行くぞ」
「はい」
五人が歩いた。街道の先に、丘陵が見えた。あの丘を越えて、オーヴホールを通って、山を越えて、ゼスに帰る。
大庭がいる。八千代がいる。ユネイラがいる。ガーズがいる。
帰る場所がある。それだけで、足が前に出た。
硬矢の荷物の中に、布袋が二つあった。一つは乾いたバタタのヒゲ。一ヶ月、バタタの実を買うたびにヒゲを取って、干して、貯めた。百杯分はあった。もう一つは、大麦だった。こちらも、百杯分。
——じいちゃん、コーヒーじゃないけど。二つもできた。
歩いた。五人で、歩いた。




