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# 第三十話 ヒゲ茶

 一ヶ月、見させてもらう。




 ギュンターがそう言ったのは、最初のテストの翌日だった。




「毎週一回、同じ内容のテストを行う。成長の速度を記録したい」




 硬矢は頷いた。




「テストのない日は、半日は練習に充てろ。走ること、木剣を振ること。同じことを、同じだけ」




 ギュンターの目は静かだった。だが、その奥に、何かを確かめたがっている光があった。




 一ヶ月。長いとも短いとも思わなかった。ここにいる理由があるなら、いればいい。




---




 一週目のテストが終わった日の夜、硬矢は手紙を書いた。




 書いた、というのは正確ではなかった。硬矢が口で言い、ディアンが書いた。




 宿坊の小さな机だった。ディアンは筆を持って、紙に向かっていた。硬矢は向かいに座っていた。




「——全員無事です。神殿のテストを受けました。結果は一般人でした」




 ディアンの筆が止まった。




「……そのまま書くんですか」




「そのまま書いてくれ」




 ディアンは少し間を置いて、書いた。




「ウィステリアは大きな街です。市場があります。藤の木がありますが、花の色が薄いです」




 書いた。




「コーヒーに似たものを探しましたが、見つかりませんでした。大庭さん、すみません」




 ディアンの筆が、また止まった。




「……大庭、というのは」




「じいちゃんだ。ゼスにいる」




「ゼスの人ですか」




「俺たちと一緒に来た人だ。コーヒーっていう飲み物を作る人で——」




 硬矢は少し考えた。




「——大事な人だ」




 ディアンは何も言わなかった。筆を動かした。




「あと、もう一つ。日本語で書いてほしいものがある」




「日本語」




「俺たちの国の字だ。読めなくていい。俺が書いた通りに写してくれ」




 硬矢は紙の端に、日本語で書いた。字は下手だった。だが読めた。




 ——じいちゃん、コーヒー見つからなかった。でも何か考える。八千代さんも元気で。




 ディアンは硬矢の字を見た。見たことのない文字だった。形が違った。この世界のどの文字とも似ていなかった。




「……これを、そのまま写すんですか」




「そのまま」




「読めないものを書くのは、初めてです」




「頼む」




 ディアンは筆を取った。硬矢の字を、一画ずつ、丁寧に写した。




 時間がかかった。だが、出来上がった字は、硬矢の字より綺麗だった。




「……俺より上手いな」




「字の意味は分かりません」




「それでいい」




 硬矢は紙を畳んだ。封をした。






---






 二週目。




 テストがあった。走った。木剣を振った。魔石を握った。集団で動いた。




 記録係のシュプリが数字を書いた。ギュンターが紙を見た。




「——伸びている」




 短かった。




「走る速度。木剣の振り。反応。全て、先週より上がっている」




 硬矢は息を整えながら聞いた。




「どのくらい」




「一般人の成長速度の、三倍から四倍」




 誉が目を丸くした。




「すげえじゃん」




「速度は、な」




 ギュンターの声は平らだった。




「到達点は、まだ一般人の範囲だ。速く伸びているが、伸びた先がまだ低い」




 誉の顔が少し曇った。硬矢は頷いた。分かっていた。




---




 テストがない日は、半日を練習に使った。走って、木剣を振って、同じことを繰り返した。残りの半日は自由だった。




 硬矢は市場に通った。




 コーヒーを探していた。似た匂い、似た豆、似た実。何でもよかった。見つからなかった。ハーブ茶はあった。花を乾かしたもの、葉を煮出したもの。どれもコーヒーとは違った。




 三日目に、穀物の屋台で足が止まった。




 黄色い実が並んでいた。皮を剥くと、粒が並んでいた。とうもろこしに似ていた。名前を聞いた。「バタタの実」と言った。




 硬矢は一本買った。実を見た。粒の並び方、色、大きさ。とうもろこしとほぼ同じだった。




 皮を剥いた。実の先端に、細い糸のようなものが束になっていた。ヒゲだった。




 硬矢はヒゲを引き抜いた。匂いを嗅いだ。青臭かった。だが、乾かせば変わるかもしれなかった。




 宿坊に持ち帰った。ヒゲを窓辺に広げて、乾かした。




 誉が見た。




「何やってんの」




「茶を作る」




「……ヒゲで?」




「乾かして煮出すと飲める。元の世界にあった」




 誉は首を傾げた。だが、何も言わなかった。硬矢がやると言ったことは、大体うまくいくと知っていた。




---




 四日後。




 ヒゲが乾いた。茶色くなっていた。硬矢は宿坊の台所を借りた。鍋に水を入れ、乾いたヒゲを入れた。火にかけた。




 煮出した。湯が薄い黄金色に変わった。香ばしい匂いが立った。




 硬矢は椀に注いだ。一口飲んだ。




 ——悪くない。




 ほんのり甘かった。香ばしかった。コーヒーではなかった。茶でもなかった。だが、温かくて、飲めた。




 もう一杯、注いだ。




 ディアンを探した。中庭にいた。壁に背を預けて、本を読んでいた。




「——飲んでみてくれ」




 ディアンが顔を上げた。硬矢が椀を差し出していた。




「……何ですか、これ」




「バタタのヒゲを煮出した」




 ディアンの目が椀を見た。黄金色の液体だった。湯気が立っていた。




「ヒゲ。……捨てるところでは」




「煮出すと飲める」




 ディアンは椀を受け取った。匂いを嗅いだ。警戒していた。だが、匂いは悪くなかった。




 一口、飲んだ。




 少しの間、黙っていた。




「……甘い」




「だろ」




「本当に変な人ですね」




 声に棘はなかった。硬矢は少し笑った。




 ディアンは椀を両手で持ったまま、もう一口飲んだ。




---




 三週目のテスト。




 数字は伸びていた。走る速度。反応速度。木剣の振りの正確さ。凪の魔法の出力。全て、前の週より上がっていた。




 だが、門弟との集団戦闘では、まだ一方的だった。




 硬矢は三回倒された。誉は四回倒されて、四回立った。凪は魔法を二発撃ったが、一発も当たらなかった。梓乃は後ろに下がるだけだった。




 シュプリが記録を渡した。ギュンターがそれを見た。




「成長速度は変わらず高い。だが——」




「到達点が低い」




 硬矢が先に言った。ギュンターは頷いた。




「ちょっとデキる一般人、というところだ」




 誉が苦笑した。




「ちょっとデキる一般人か。……まあ、一ヶ月前は何もデキない一般人だったから、マシか」




---




 梓乃は市場で顔を覚えられ始めていた。




 最初は硬矢と一緒に歩いていただけだった。だが、梓乃は店主と話した。値段を聞いた。品物を比べた。別の店の値段を引き合いに出した。




 営業だった。




「——こっちの店では同じものが銅貨二枚だったんですけど、こちらは三枚なんですね。何か違いがあるんですか」




 店主は最初、面食らった。だが、梓乃の聞き方には嫌味がなかった。本当に知りたがっている声だった。




「うちのは乾燥が違う。三日余分に干してる。持ちが違うんだ」




「なるほど。じゃあ、長い旅をする人にはこちらの方がいいんですね」




 店主が頷いた。梓乃が笑った。




 三週目には、梓乃が通ると声をかける店主が三人いた。




「——あの姉ちゃん、また来たぞ」




「値切られるから気をつけろ」




「値切ってないです。聞いてるだけです」




 梓乃は笑っていた。この世界で初めて、自分の得意なことが役に立っていた。




---




 四週目。最後のテスト。




 結果は、三週目とほぼ同じだった。成長の曲線は緩やかになっていた。




 シュプリが四週分の記録を並べた。ギュンターがそれを広げた。数字が、紙の上に並んでいた。




「——成長速度は確かに異常だった。通常の三倍から四倍。これは記録に値する」




 硬矢は黙って聞いた。




「だが、一ヶ月で到達した地点は、この国の兵士の入隊基準に届かない。冒険者で言えば、駆け出しの下だ」




 誰も何も言わなかった。




「速度は興味深い。だが、これ以上はここでは測れない。成長が続くのか、頭打ちになるのか——それは時間が答えを出す」




 ギュンターは紙を畳んだ。




「一ヶ月、付き合ってもらった。礼を言う」




 硬矢は頭を下げた。




---




 その夜、四通目の手紙を書いた。




 ディアンが書いた。硬矢が言った。




「テストが終わりました。結果は、ちょっとデキる一般人でした」




 ディアンの筆が止まった。




「……また、そのまま書くんですか」




「そのまま」




 ディアンは書いた。




「もう少しだけウィステリアにいます。そろそろ帰ります」




 書いた。




「バタタのヒゲで茶を作りました。コーヒーじゃないけど、飲めます。帰ったら淹れます」




 書いた。




 硬矢が日本語を書いた。ディアンが写した。三通目より、写す速度が上がっていた。読めない文字の形を、手が覚え始めていた。




 ——じいちゃん、ヒゲ茶作った。コーヒーには遠いけど、悪くない。もうすぐ帰る。




 ディアンは筆を置いた。




「……これで四通目ですね」




「ああ」




「毎週書くんですね。ゼスの人たちに」




「待ってる人がいるから」




 ディアンは何も言わなかった。紙を畳んだ。封をした。




 手が、少しだけ丁寧だった。

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