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# 第二十八話 街の匂い

 神殿を出ると、五人とも黙っていた。




 石畳を歩いた。誉が最初に口を開いた。




「……ボコボコだったな」




「知ってる」




 硬矢が言った。誉が笑った。




「木剣、重かった。俺が買った木棒と全然違う」




「お前は形が荒いって顔されてたぞ」




「分かってるよ。力任せだって、自分でも分かってた」




 凪が杖を握り直した。




「私は……三回しか振れなかった」




「剣は向いてないだろ。魔法がある」




 硬矢が言った。凪は少し黙って、頷いた。




 梓乃が息を吐いた。




「私は立ってただけでした。打ち込まれて、下がって——それだけ」




「梓乃さんは別のところで強い。計算、速かっただろ」




「計算ができても、剣は振れません」




 梓乃の声は平らだった。だが、自分を責めている声ではなかった。事実を確かめている声だった。




 ディアンは少し後ろを歩いていた。いつもの距離だった。




 誉が振り返った。




「お前、止めてくれたな」




 ディアンの足が一瞬止まった。




「……任務です」




「任務で止めたのか?」




 ディアンは答えなかった。前を向いた。歩き始めた。




 誉は追わなかった。だが、少しだけ笑っていた。




---




 その日から、ギュンターの調査に付き合った。




 半日ほど、神殿の部屋で質問を受けた。元の世界のこと。暮らし。食べ物。道具。乗り物。硬矢が答え、梓乃が補い、誉が脱線し、凪が訂正した。ディアンが書き取った。




 記録係の若い神官が隣で筆を走らせていたが、ディアンの方が速かった。




 ギュンターは時折、質問の手を止めた。硬矢たちの答えに、考え込むことがあった。「全員が文字を読める国」「身分のない社会」「誰でも学校に通える」——そのたびに、紫の帯に手を触れた。




 宿と食事は神殿が手配していた。神殿の裏手にある小さな宿坊だった。質素だが、清潔だった。路銀が減る心配がなかった。それだけで、肩の力が抜けた。




 夜、宿坊の部屋で誉が言った。




「なんか、試験受けてるみたいだな。毎日」




「試験だろ、実際」




「でも、答えがないんだよな。俺たちが何のために来たか——ギュンターさんも一緒に探してくれてる感じだけど」




 硬矢は天井を見ていた。




「分かってないけど、調べてる。それだけで、ゼスにいた時より前に進んでる」




---




 三日目の午後、調査が早く終わった。




「——街を歩こう」




 硬矢が言った。ウィステリアに来てから、神殿と宿坊の往復しかしていなかった。




 五人で通りに出た。ディアンは少し後ろを歩いた。




 市場があった。




 オーヴホールより広かった。布、革、干し肉、果物、香辛料。色が多かった。声が多かった。人がぶつかるほどではなかったが、活気はあった。




 硬矢は足を止めた。香辛料の屋台だった。小さな壺が並んでいた。蓋を開けると、甘い匂いがした。




「——シナモンに似てる」




 呟いた。コーヒーに合う香辛料を、体が覚えていた。店主に名前を聞いた。「カッシュ」と言った。聞いたことのない名前だった。だが、匂いは知っていた。




「買うのか?」




「いや……まだいい。覚えておく」




 硬矢は壺の位置を目に焼きつけた。いつか使う日が来るかもしれなかった。




 誉は干し肉の屋台で足を止めた。試食を差し出された。一口食べて、もう一口食べた。




「うまい。これ、ゼスの干物より味が濃い」




「塩が違うんだろうな」




「塩かあ。じいちゃんに食わせたいな、これ」


 硬矢は少し笑った。いつの間にか、誉も「じいちゃん」と呼んでいた。




 凪は布の店の前で立ち止まった。染めた布が吊るされていた。青、緑、赤紫。凪は青い布に手を伸ばしかけて、やめた。




「……見てるだけ」




 梓乃が隣で笑った。




 梓乃は店の並びを見ていた。目が動いていた。どの店が繁盛しているか、どの店が暇そうか。営業の目だった。自分でも気づいていないかもしれなかった。




---




 服を買った。




 硬矢が言い出した。ゼスを出てから同じ服だった。洗ってはいたが、くたびれていた。




 仕立て屋ではなく、古着を扱う店だった。この世界の旅人が着るような、丈夫な上着と下衣。硬矢と誉はすぐに選んだ。凪は少し迷った。梓乃は自分の体に合うものを三着試して、二着目を選んだ。




「——営業の時と同じだ。試着は三回まで」




 梓乃が言った。誉が笑った。




 ディアンは何も買わなかった。神殿の服があった。




 硬矢は古着の上着に袖を通した。肩幅が少し広かった。だが、動きやすかった。




「……なんか、こっちの人間みたいだな」




 誉が硬矢を見て言った。






---




 藤の木を見に行った。




 市場の先、広場の中央に立っていた。ウィステリアで最も大きな藤の木だと、ディアンが言った。




 花が咲いていた。だが、色が薄かった。神殿の前の藤と同じだった。枝の先が枯れかけていた。




 硬矢は木の下に立った。見上げた。




 花は咲いている。枯れてはいない。だが、盛りではなかった。盛りを過ぎたのか、盛りに届かなかったのか、分からなかった。




 根元に、老人が一人座っていた。背中を幹に預けて、目を閉じていた。眠っているのか、ただ座っているのか。




 通りがかりの女が、木を見上げて、小さく首を振った。何も言わなかった。ただ、首を振った。




「——きれいだけど、寂しいね」




 凪が言った。






 ディアンは木を見ていなかった。硬矢たちが木を見ている顔を、見ていた。




---




 魔石商の店は、市場の外れにあった。




 硬矢は革袋から札を取り出した。あの女性が渡してくれた札。店の名前と住所が書いてあった。




 店は小さかった。間口が狭く、奥に棚が並んでいた。魔石が大きさ別に並べられていた。光るもの、光らないもの。色も様々だった。




 店主は五十がらみの男だった。革のエプロンをしていた。硬矢が札を出すと、男は札を見て、裏を見た。


「——うちの娘の字だ」




 男は札を裏返した。小さな字が書いてあった。硬矢には読めなかった。ディアンが横から見た。




「……『この方たちによくしてあげて』」




 ディアンが読み上げた。声が少し柔らかかった。




 男は眉を寄せた。




「娘がこんなものを書くのは初めてだ。——あんたら、何があった」




 硬矢が話した。街道で狼に囲まれていた馬車を見つけたこと。娘さんが中にいたこと。護衛と協力して狼を退けたこと。




 男の顔が変わった。エプロンの裾を握っていた。




「——娘は今、オーヴホールに買い出しに出てる。狼なんて、何も聞いてない」




 しばらく黙った。それから、深く頭を下げた。




「——あんたらが助けてくれたのか。礼も言えてなかった」




 男は棚の奥から、長い棒状のものを取り出した。杖だった。木製で、先端に金属の留め具があった。留め具の周りに、小さな穴が三つ空いていた。




「中級の冒険者が使う杖だ。魔石を三つまで嵌められる。娘の名刺を持ってきた客に、定価は取れん」




 凪が杖を見た。今持っている杖より、一回り長かった。握りの部分に革が巻いてあった。




「——触ってみな」




 凪が手に取った。重さがあった。だが、バランスが良かった。




「穴が三つあるが、今のあんたが三つ全部使えるとは思わんでくれ」




 男は腕を組んだ。




「杖は持ち主に応じる。腕のある魔法使いが持てば、三つの石が連動して力を増す。だが、未熟な者が持てば——」




「初心者の杖と同じ、ですか」




 凪が言った。男は少し驚いた顔をした。




「分かってるなら、いい。今のあんたには、一つ嵌めて使うのが精一杯だろう。だが、腕が上がれば杖が応えてくれる。育てるつもりで持ちな」




 値段を聞いた。割安だった。それでも安くはなかった。硬矢が路銀から出した。




「——ありがとうございます」




 凪が頭を下げた。男は手を振った。




「礼は娘に言いな。俺は商売してるだけだ」




---




 店を出た。




 凪は新しい杖を両手で持っていた。古い杖は腰の帯に差した。




「……三つ、嵌められるようになりたい」




 凪が言った。小さな声だった。だが、はっきりしていた。




 誉が凪の肩を叩いた。




「なるよ。お前なら」




 硬矢は前を歩いた。市場の喧騒が遠くなっていた。夕日が石畳を染めていた。




 ウィステリアの街は、生きていた。人が歩いていた。声があった。匂いがあった。




 だが、どこかに隙間があった。空き店舗が目についた。人通りの少ない路地があった。藤の花の色が薄かった。




 ——止まっている。




 ギュンターの言葉を思い出した。動いていたものが、動かなくなった。




 街は生きている。だが、勢いがなかった。ゆっくりと、何かが抜けていくような——そんな空気だった。




 硬矢は振り返った。四人が後ろを歩いていた。誉と凪が並んでいた。梓乃が少し離れて歩いていた。ディアンが、いつもの距離にいた。




 五人で歩いていた。




 それだけのことが、少しだけ、良かった。

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