# 第二十六話 宛先
神殿を出ると、日が傾いていた。
石畳の道に、影が長く伸びていた。藤の木の下を通った。花はやはり色が薄かった。誰も、それには触れなかった。
誉が伸びをした。
「疲れたな……なんか、頭使った」
「頭は使ってないでしょ」
凪が言った。誉が「使ったよ」と返した。
ディアンは少し後ろを歩いていた。距離が一定だった。近すぎず、遠すぎず。監視の距離だった。
硬矢は振り返った。
「飯、行くか。昼の酒場、まだやってると思う」
ディアンが足を止めた。
「——私も、行くのですか」
「見て、聞いて、覚えろって言われただろ」
硬矢は軽く言った。
「飯食ってるとこも、見といた方がいいんじゃないか」
ディアンは少し考えて、頷いた。表情は変わらなかった。だが、断らなかった。
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酒場は昼と同じ場所だった。太った主人が、四人と一人を見て、少し目を丸くした。
「連れが増えたな」
五人分の席を作った。昼に座った窓際の卓だった。ディアンは端に、少し体を斜めにして座った。すぐ立てるような座り方だった。
硬矢と梓乃がエールを頼んだ。誉と凪には果実水。ディアンには水が出された。
沈黙があった。誰も、何から話せばいいか分からなかった。
硬矢が口を開いた。
「——自己紹介、してなかったな」
ディアンが顔を上げた。
「名前は聞いています。青輝硬矢。宮川誉。水瀬凪。柊梓乃」
「そうだけど、それだけだろ」
硬矢は少し笑った。
「俺は、店をやってた。祖父の喫茶店。十年、手伝ってた」
「きっさてん」
ディアンが繰り返した。神官たちの部屋で聞いた時と同じ、聞き慣れない言葉を確かめるような口調だった。
「飲み物を出す店だ。コーヒーっていう」
「知りません」
「だろうな。この世界にはない」
誉が続いた。
「俺は高校生。学校に通ってた。凪と同じ学校」
「がっこう」
「勉強する場所。俺は、まあ、あんまり真面目じゃなかったけど」
凪が小さく言った。
「私も、学校。あと——喫茶店の常連だった。硬矢さんの店の」
梓乃が最後だった。
「私は、大学を出て、就職したばかりでした。会社員です。営業の仕事をしていました」
ディアンは何も言わなかった。だが、聞いていた。目の動きで分かった。一人ずつ、確かめるように見ていた。
誉が言った。
「で、お前は?」
ディアンの目が止まった。
「……私は、任務で来ています。それだけです」
「名前は知ってる。ディアンだろ。それ以外のこと」
「それ以外は、ありません」
短かった。壁のような答えだった。誉は少し口を開きかけたが、やめた。硬矢が小さく首を振ったのを見たからだった。
「——質問していいですか」
「どうぞ」
「その、がっこう、というのは、誰でも通えるのですか。身分に関係なく」
「関係ないよ。義務教育っていって、みんな通う」
「みんな」
ディアンの眉が、わずかに動いた。
「貴族も、平民も」
「そもそも貴族がいない。俺たちの国には」
ディアンは黙った。少しの間、何かを考えているようだった。それから、また訊いた。
「文字は。誰が読み書きできるんですか」
「ほとんどの人。子供の頃に習うから」
「……ほとんど」
ディアンの声が、少しだけ小さくなった。
硬矢はそれを見ていた。数字や身分で測れない何かが、ディアンの中で引っかかっているようだった。
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料理が来た。煮込みとパン。誉が最初に手をつけた。凪も食べ始めた。ディアンは水だけを飲んでいた。
「食わないのか」
「任務中です」
「食っても任務だろ。見て、聞いて、覚えろって言われたんだから」
誉がパンを一切れ、ディアンの方に押した。ディアンはしばらくそれを見ていた。それから、手に取った。一口かじった。何も言わなかった。だが、二口目を食べた。
硬矢はエールを一口飲んだ。それから、ずっと考えていたことを口にした。
「——ここまで来て、何も分からなかった」
三人が硬矢を見た。
「帰る方法も、なぜ来たのかも。神官さんたちも、答えを持ってなかった。『分からない』って言ってた」
誉が頷いた。
「勇者は世界が滅びかけてたから来た。商人は交易の仕組みがなかったから来た。——俺たちは、何でだろうな」
「この国は、衰えてる。でも滅びかけてはいない」
梓乃が言った。
「藤の木も、衰えてる」
「停滞、って言葉を使ってた」
硬矢は、神官の言葉を思い出しながら言った。
「勇者の時も、商人の時も、何かが行き詰まってた時に、外から人が来た。——今回も、そうなんじゃないかと思う」
「行き詰まってる、何が」
凪が訊いた。
硬矢は少し考えた。
「この国全体。……あるいは、もっと小さい、何か。ゼスかもしれないし、この街かもしれない。分からないけど——」
硬矢は自分の言葉を、自分で確かめるように話した。
「もし、その『停滞』を何とかすることが、俺たちがここに来た理由だとしたら」
「帰れる条件かもしれない、ってこと?」
誉が言った。硬矢は頷いた。
確証はなかった。ただの推測だった。でも、口に出すと、何か形になった気がした。
ディアンが、水の入ったカップを見つめていた。何も言わなかった。だが、聞いていた。
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「——これ、じいちゃんと八千代さんにも聞いてもらった方がいい」
硬矢が言った。
「二人とも、ゼスにいる。俺たちだけで考えてても、多分足りない。じいちゃんは三十年、店をやってきた。俺より、こういうことに勘が働くと思う」
誉が頷いた。
「連絡、どうする」
硬矢は少し考えた。
「——スマホがあれば」
言ってから、自分でおかしくなった。誉が笑った。
「ないんだよなあ」
ディアンが眉を寄せた。
「すまほ?」
「遠くにいる人と、すぐに話せる道具。声も、顔も」
「顔まで?」
「そう」
ディアンは信じられないという顔をした。
「——そんなもの、この世界にはありません」
「知ってる」
硬矢は苦笑した。
「じゃあ、狼煙は」
誉が言った。半分、冗談のつもりだった。
ディアンが即座に答えた。
「駄目です」
声が硬かった。
「狼煙は、戦時に、国が使うものです。軍の合図です。個人の連絡に使うなど、言語道断です」
誉が両手を上げた。
「分かった分かった。冗談だよ」
ディアンは真顔だった。冗談だと分かっていても、訂正せずにはいられないようだった。
「——手紙、しかないな」
梓乃が言った。
硬矢は頷いた。分かってはいた。だが、少し引っかかった。
「手紙って、誰が書くんだ。俺、この世界の文字、まだ書けない」
「代筆を頼めばいい。ギルドに行けば、代筆をしてくれる人がいるはずです」
ディアンが言った。初めて、自分から情報を出した。
「商人の中には、字が書けない者も多いので、ギルドには代筆を頼める窓口があります。手数料はかかりますが」
「——助かる」
硬矢は少し驚いた。ディアンが、こんなに早く協力的な言葉を出すとは思っていなかった。
「私が、書きます」
ディアンが続けた。
「代筆でもいいですが、私が書いた方が早い。あなたたちの言葉を、そのまま書き取ります」
「なんでだ」
「見て、聞いて、覚えろと言われています。あなたたちが何を伝えたいのか、それを書き取ることも、任務のうちです」
硬矢は少しの間、ディアンを見た。理屈は分かった。だが、それだけではない気がした。ディアンの目に、さっきまでとは違う色があった。興味、というのに近いものだった。
「頼む」
硬矢は頭を下げた。
「——住所は」
ディアンが訊いた。硬矢は言葉に詰まった。
「……ゼスに、住所ってあるのか」
誉が首を傾げた。梓乃も同じ顔をした。
「ないと思う」
「じゃあ、どうするんだ」
ディアンが少し考えた。
「村長宛てにするのが普通です。地方の小さな村なら、村長が窓口になります」
「ユネイラさん、か」
硬矢は納得した。ユネイラなら間違いなく届く。あの人は、外部とのやり取りを一手に引き受けている。
「——『シャンリアナ、漁村ゼス、村長ユネイラ様方』」
ディアンが呟いた。頭の中で、宛先を組み立てているようだった。
「これで、届くはずです」
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手紙の内容は、硬矢が話した。ディアンが書き取った。この世界の文字だった。硬矢には読めなかった。だが、ディアンのペン先は迷いなく動いた。
大庭へ。停滞という言葉のこと。硬矢の推測。神殿での話。無事でいること。
書き終えると、ディアンは紙を丁寧に畳んだ。
「明日、ギルドで手続きします」
「ありがとう」
硬矢は、それでもまだ、何かが足りない気がしていた。
手紙は文字だ。声じゃない。顔も見えない。じいちゃんが読む時、どんな顔をするのか、硬矢には分からない。
——本当は、直接話したい。
カウンターの向こうに立つ大庭を思い浮かべた。エプロンをつけて、カップを拭いている。硬矢が何を言っても、黙って聞いている、あの背中を。
手紙で足りるとは、思えなかった。でも、今はこれしかなかった。
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翌朝、四人とディアンは神殿に戻った。
昨日と同じ部屋だった。中央の神官——ギュンター大神官が、椅子に座っていた。他の三人はいなかった。
硬矢が口を開こうとした。
「——あの子のこと、教えてもらえますか」
誉が先に言った。硬矢が言おうとしていたことではなかった。だが、硬矢も聞きたかった。
ギュンターは少し間を置いた。ディアンの方を見た。ディアンは壁際に立っていた。表情は変わらなかった。
「孤児だ。五つの時に神殿に引き取った。読み書きを教えた。よく覚えた」
それだけだった。それ以上は言わなかった。ディアンも、何も付け加えなかった。
誉が小さく頷いた。それ以上は訊かなかった。聞くべきことは聞いた、という顔だった。
硬矢が口を開いた。
「——一つ、伝えておきたいことがあります」
「調べものが終わったら、俺たちはゼスに戻ります。じいちゃんと、八千代さんが待っているので」
ギュンターは少しの間、硬矢を見ていた。
「——当然だ。お前たちの行き先を、我々が決めることはない」
短い答えだった。
だが、ギュンターの目がわずかにディアンに向いた。すぐに戻った。硬矢はそれを見た。
——巻き込んでいる、という自覚がある目だった。
ギュンターは紫の帯に手を触れた。
「明日から、いくつか調べさせてもらう。お前たちの技能、知識——どれほどのものか、把握しておきたい」
硬矢は頷いた。
窓の外、藤の木が、風もないのに、わずかに揺れた気がした。




