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# 第二十五話 転移者

 神官が戻ってきた。別の神官を連れていた。年配の男だった。髭があった。目が鋭かった。




「こちらへ」




 案内されたのは、本殿の裏手だった。石の廊下を歩いた。天井が高かった。壁に、古い文字が刻まれていた。読めなかった。だが、一つ一つが丁寧に彫られているのは分かった。何百年も前のものだろうと思った。燭台の火が、文字の溝に影を落としていた。




 角を曲がった。空気が変わった。表の喧騒が、完全に消えた。足音だけが響いた。硬矢の後ろを、三人が黙ってついてきた。誰も口を開かなかった。




 奥まった場所に、部屋があった。




 木の扉を開けた。




 広い部屋だった。中央に長い机があった。椅子が並んでいた。窓が高い位置にあった。光が斜めに差し込んでいた。




 机の向こう側に、四人の神官が座っていた。




 硬矢は数えた。四人。こちらも四人。数が合っていた。偶然かもしれなかった。だが、そうは見えなかった。




 壁際に、若い門弟が二人立っていた。




 一人は背が高かった。もう一人は——小さかった。十四、五歳に見えた。痩せていた。髪が短かった。目が大きかった。その目が、硬矢を見ていた。




 見ている、というより、測っていた。




 硬矢は椅子に座った。三人も座った。椅子は硬かった。背もたれが真っ直ぐだった。くつろぐための椅子ではなかった。




 正面の神官——中央に座っている年配の男が、口を開いた。白い衣の上に、紫の帯を巻いていた。位が高いのだろうと思った。




「——転移、と言ったそうだな」




「はい」




「どこで、その言葉を知った」




「オーヴホールの蔵書庫で。イザーナという司書に教わりました」




 神官たちの間に、視線が走った。イザーナの名前に反応していた。




「イザーナが——」




 左端の神官が呟いた。中央の神官が手で制した。




「続けてくれ。お前たちは、何者だ」




 硬矢は話した。




 南の小路のこと。店ごと飛ばされたこと。漁村ゼスに降りたこと。オーヴホールで文字を学び、ギルドに登録したこと。転移の手がかりを求めて、ここまで歩いてきたこと。




 話しながら、硬矢は自分でも驚いた。整理して話せるようになっていた。ゼスに降りた日のことを、もう遠い出来事のように語っている自分がいた。




 誉は黙って聞いていた。時々、小さく頷いていた。凪は膝の上で手を握っていた。梓乃は背筋を伸ばしたまま、正面を見ていた。




 話している間、神官たちは一言も挟まなかった。




 だが、表情は変わっていた。最初は警戒だった。途中から、別のものに変わった。驚きではなかった。もっと深い何かだった。




 硬矢が話し終えた。




 沈黙があった。




 中央の神官が、隣の神官と目を合わせた。小さく頷いた。




「——お前たちの服を、見せてもらえるか」




 硬矢は袖を差し出した。神官が手に取った。縫い目を指でなぞった。布を摘んだ。ボタンを見た。裏地を確認した。




「……この縫製は、見たことがない」




 隣の神官も身を乗り出した。




「糸が細すぎる。織りが均一すぎる。人の手では——」




「機械です」




 硬矢が言った。




「俺たちの世界では、機械が布を織ります。服も機械で縫います」




 神官たちが黙った。意味が分からないのではなかった。意味は分かっている。だが、それを受け入れるための枠が、彼らの中にまだなかった。




 壁際の門弟——あの小さい方が、わずかに身じろぎした。硬矢はそれを見た。目が合った。門弟はすぐに目を逸らした。だが、逸らし方が不自然だった。全部聞いていた。




 中央の神官が、深く息を吐いた。




「——我々が祀る神は、本来、変化神と呼ばれる」




 声が低かった。




「変化そのものを司る神だ。ものの形を変え、場所を変え、価値を変える。発展も、衰退も、出会いも、別れも——全て、この神の領分だ」




 神官は少し間を置いた。




「だが、民にとって『変化』は広すぎる。掴みどころがない。だから我々は、人々が最も馴染みやすい一面——商いと交易——を表に出し、商売神として祀ってきた。信仰とは、そういうものだ。神の全てを拝むのではなく、人が必要とする顔を拝む」




 硬矢は黙って聞いた。商売神と呼ばれているものの正体が、もっと大きなものだった。




「転移は——その変化神の御業だ。場所を変え、世界を変える。最も大きな変化の一つだ」




 神官は言葉を選ぶように、少し間を置いた。




「記録は古い。最も古いものは八百年以上前だ。それから数えて、転移者が現れたのは——片手で足りる。ただし、記録に残った数だ。残らなかったものは、いくつもあろう」




 八百年で、片手。硬矢はその数字を噛んだ。途方もなかった。自分たちが、その片手の一つに数えられるかもしれないという実感は、まだなかった。




「八百年前——人と魔族の戦が膠着していた時代だ。どちらも動けず、どちらも変わらなかった。その節目に、外から一人の人間が来た。後に勇者と呼ばれた者だ」




 勇者。硬矢は黙って聞いた。




「四百年前には、はるか西の国に商人が来た。ギルドを作り、ギルドカードの仕組みを作った。——お前たちが門で見せた、あれだ」




 硬矢は息を呑んだ。ギルドカードを作ったのが、転移者だった。




 誉が隣で小さく息を吐いた。自分のポケットに手を当てていた。ギルドカードが入っている場所だった。




「共通しているのは一つだけだ。転移は、停滞の節目に起きる。世界が行き詰まった時に、外から何かが来る。——記録は、そう語っている」




中央の神官は、しばらく黙っていた。


「——一つ、分からんことがある」


硬矢は顔を上げた。


「勇者が来た時は、世界が滅びかけていた。商人が来た時は、この大陸に交易の仕組みそのものがなかった。——どちらも、それだけの理由があった」


神官は硬矢たちを見た。一人ずつ。


「だが、お前たちは違う。この国は、確かに衰えてはいる。だが滅びかけてはいない。飢えてもいない。剣を持っているわけでも、強い魔法を使えるわけでもない。——それなのに、なぜ来た」




沈黙が落ちた。




 誉が口を開きかけて、やめた。凪が隣の梓乃を見た。梓乃は唇を引き結んでいた。答えを持っている顔ではなかった。




硬矢は答えられなかった。考えたこともなかった。ただ、光があって、気がついたらここにいた。それだけだった。


「俺たちにも、分かりません」




「……そうか」




神官はそれ以上、追及しなかった。ただ、その目には、これまでとは違う何かが浮かんでいた。失望ではなかった。むしろ——分からないという答えを、正直だと受け取ったような目だった。




 神官は藤の木がある方角を見た。窓の外は見えなかったが、方角を知っていた。




「あの木を見たか」




「はい。元気がないように見えました」




「あの木は、変化神の力を映す。木が弱れば、神殿の力も弱る。——ここ数年、あの木は衰え続けている」




 硬矢は黙って聞いた。




「だが——」




 神官の声に、苦いものが混じった。




「我々は、いつも後手だった」




 左端の神官が目を伏せた。




「転移が起きたことを、我々が知るのは、いつも後だ。転移者がどこかに降りて、何かをして、噂が届いて——記録に残るのは、事後の話ばかりだ。何が起きたのか。誰が来たのか。何をもたらしたのか。全て、終わった後に聞いた話だ」




 沈黙があった。




「今回は違う」




 神官は硬矢を見た。




「お前たちは、自分から来た。転移者が神殿の門を叩いたのは、記録にない。初めてだ」




 部屋の空気が変わった。敵意ではなかった。恐れでもなかった。




 ——今度こそ、という切実さだった。八百年、ずっと後手だった者たちの、静かな必死さだった。




「記録を調べる。——しばらく、この街にいられるか」




「はい」




 硬矢は頷いた。ここに来るために、十二日歩いた。すぐに帰るつもりはなかった。




「それと——」




 中央の神官が、三人の神官を見回した。




 左端の神官が口を開きかけた。何か言いたそうだった。中央の神官が、首を振った。




 右端の神官は目を閉じていた。腕を組んでいた。賛成とも反対とも取れない顔だった。




 隣の神官だけが、小さく頷いた。




「——古い取り決めがある」




 中央の神官が言った。




「転移者には、門弟を一人付ける。それ以上は、しない。神の御業に、人が群がれば、変化の道筋を歪める。——我々はそう定めた」




 左端の神官の唇が、わずかに動いた。異論がある顔だった。だが、声にはしなかった。




 中央の神官が、壁際に目を向けた。あの小さな門弟を見た。




「ディアン」




 門弟が一歩前に出た。小さかった。神官たちの前に立つと、余計に小さく見えた。だが、背筋は真っ直ぐだった。




「お前が付け。この四人と共にいろ。なぜこの者らがここに来たのか。見て、聞いて、全て覚えろ。——今度は、後から聞いた話にはさせん」




 ディアンと呼ばれた門弟は、頷いた。表情は変わらなかった。迷いもなかった。命じられたことを、そのまま受け取る顔だった。




 中央の神官が、硬矢を見た。




「——構わんか」




 命令ではなかった。確認だった。




 硬矢は三人を見た。誉が小さく頷いた。凪も頷いた。梓乃は少し間を置いてから、頷いた。




「構いません」




 ディアンが硬矢を見た。誉を見た。凪を見た。梓乃を見た。一人ずつ、順番に。




 信用していない目だった。




 甘い言葉を信じない目だった。裏を読む目だった。十四歳の子供の目ではなかった。




「——よろしく」




 硬矢が言った。手は出さなかった。この世界に握手の習慣があるかどうか、まだ分からなかった。




 ディアンは答えなかった。




 ただ、小さく頭を下げた。それだけだった。




 部屋を出た。石の廊下を戻った。来た時と同じ道だった。だが、空気が違った。行きは緊張だった。帰りは——まだ名前のつかない何かだった。




 硬矢は歩きながら、振り返らなかった。だが、後ろに足音が一つ増えていることは、分かっていた。

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