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# 第二十三話 狼

 六日目。




 硬矢たちは丘陵地帯を歩いた。勾配が続いた。道は広かった。イザーナが言った通り、ところどころ石畳の跡が残っていた。昔は荷馬車が行き来していた道。今は草が割れ目から生えていた。




 織物を背負った商人とすれ違った。ウィステリアの方から来ていた。道を訊くと、「真っ直ぐだ。迷いようがない」と笑った。




---




 七日目。




 丘陵を抜けた。道が下り始めた。遠くに、壁が見えた。




 イザーナの話では、七日目にウィステリアの外壁が見えるはずだった。一日遅れている。あの丘で止まった分だった。




 でも、壁は見えた。




「——あれ、ウィステリアか?」




 誉が目を細めた。




「まだ遠い。明日だな」




 硬矢が言った。




 食料は七日分だった。リトバルクで少し買い足したが、予備はもう残り少なかった。八日を過ぎたら現地で何か調達するしかないと思っていた。だが、明日着くなら問題ない。




 誉が伸びをした。




「なんだかんだ、山越えより楽だったな」




「……それ、フラグに聞こえるんだけど」




「は? フラグって何だよ」




「嫌な予感がするってこと」




「縁起でもないこと言うなよ」




---




 それは、昼過ぎだった。




 道の先に、馬車が見えた。止まっていた。




 馬が暴れていた。荷台が傾いていた。馬車の周りに、灰色の影が動いていた。




 六つ。




 狼だった。狼型の魔物だった。普通の狼より一回り大きかった。毛が逆立っていた。低い唸り声が、風に乗って聞こえた。




 馬車の前に、二人の男が剣を構えていた。護衛だった。革鎧を着ていた。




 四人は足を止めた。




 硬矢は誉を見た。




「——ほら来た」




 誉が顔をしかめた。




「縁起でもないこと言うなよって言っただろ。——狼だ」




 声が低かった。さっきまでの軽口が消えていた。




「六体。多いな」




 凪が杖を握った。顔が強張っていた。




「……水塊は、一発しか撃てない。外したら、溜まるまで何もできないよ」




 誉が腰の小剣に手をかけた。ガーズに借りた短い剣。毎晩の素振りは棒でやっていた。小剣は抜いたことがなかった。




「六体を俺たちで相手にするのは——無理だろ」




 誉が自分で言った。分かっていた。




 硬矢も腰の剣に触れた。ガーズが「持っていけ」と渡してくれた、あの剣。旅の途中、誉と凪が毎晩練習するのを見て、硬矢も少しだけ振るようになっていた。




誉のように無心に型をこなすのではなかった。硬矢は想像の中に敵を立てた。こう来たらこう動く。こう避けたらこう返す。頭の中で相手を動かしながら、剣を振った。ガーズの教えを思い出しながら。




 だが、それは練習だった。目の前の狼は六体いた。




 正面からぶつかれば、死ぬ。四人とも、分かっていた。




 誉が言った。




「……でも、あのまま放っておいたら」




 馬車の護衛は二人。狼は六体。護衛は馬車の横に立って動けなかった。守るものがあるから、攻めに出られない。狼たちはそれを分かっているように、じりじりと間合いを詰めていた。




 このまま見ていれば、いずれ崩れる。




 梓乃が硬矢を見た。何も言わなかった。でも、目が言っていた。




 硬矢は答えなかった。走らなかった。




 見ていた。




 場を見ていた。




 狼六体の位置。馬車。護衛の二人。風向き。草の高さ。馬車の荷台の影。護衛が立っている位置。狼が詰めている方向。




 護衛の二人を見た。




 構えに隙がなかった。剣の握り方。足の置き方。体の軸。——強い。あの二人は強い。




 なのに動けない。馬車を離れられない。守るものがあるから。




 硬矢は考えた。




 あの二人が動ければ、六体でも捌ける。構えで分かる。問題は、馬車を離れられないこと。




 凪の水塊。一発。一発で仕留めなくていい。一発で、流れを変えればいい。




 馬車の左側。狼が三頭固まっている。うち二頭が重なるように並んでいる。風下。こちらから回れば気づかれにくい。




 あの二頭に凪の一発を入れる。外しても後ろに当たる。一頭でも崩せば、狼の注意がこちらに割れる。護衛が動ける。動ければ、終わる。




 ——勝てなくていい。流れを変えればいい。




 硬矢は振り返った。




「行こう」




 三人が硬矢を見た。




「護衛の二人は強い。構えで分かる。あの二人が動ければ終わる。動けないのは、馬車を離れられないからだ」




「……じゃあ、どうする」




「凪の一発で狼の注意を割る。護衛が馬車を離れられるようにする。俺たちが狼を倒す必要はない」




 凪が硬矢を見た。




「……一発で、いいの?」




「一発でいい。馬車の左側、狼が二頭重なってるところを狙おう。一頭目を外しても、後ろの二頭目に当たる」




 凪は頷いた。




「誉。俺と並んで前に立て。来たら威嚇しろ。殴らなくていい」




「——分かった」




 誉は棒を構えた。小剣ではなく、毎晩振ってきた棒を選んだ。手に馴染んでいた。




「梓乃さん。後ろにいてくれ。離れて、動かないで」




 梓乃は頷いた。




 三人は風下から回った。草を踏む音を殺した。狼たちは馬車に集中していた。護衛の二人がこちらに気づいた。目が合った。護衛の一人が小さく頷いた。




 狼が三頭、馬車の左側に固まっていた。二頭が重なるように並んでいた。




「——凪。あの二頭」




 凪は杖を構えた。手が震えていた。




 押し出した。




 水塊が飛んだ。




 一頭目の横を抜けた。外れた。




 ——後ろの一頭に、当たった。




 鈍い音がした。水を叩きつけられた狼が横に吹き飛んだ。転がった。起き上がれなかった。




 狼たちが振り返った。こちらを見た。




 誉が立っていた。棒を構えて、狼の前に立っていた。声は出さなかった。ただ、立っていた。毎晩振ってきた棒を、両手で握って、前に突き出していた。硬矢がその隣にいた。剣の柄に手をかけて、並んで立っていた。




 狼が一頭、誉に向かって唸った。




 誉は動かなかった。




 硬矢は剣を抜いていた。ガーズの言葉が頭にあった。構えてから振るまでに、考えるな。考えるのは構える前だ。——もう考えた。あとは構えるだけだった。




 狼は、来なかった。




 その隙に、護衛が動いた。




 馬車を離れた。一人が踏み込んだ。剣が閃いた。水で弱った狼を一太刀で仕留めた。もう一人が横から回り込んだ。狼の群れが崩れた。




 残りの狼は、人間が増えたことと一頭倒されたことで怯んだ。一頭が後ずさった。もう一頭が続いた。三頭が、四頭が、草原の中に走り去った。




 終わった。




 硬矢は剣を鞘に戻した。一度も振らなかった。




---




 護衛の一人が剣を収めた。額の汗を拭った。




「助かった。——あんたら、旅人か?」




「ああ。ウィステリアに向かってる」




「こっちはオーヴホールに向かう護衛だ。狼が出るとは聞いてなかったんだがな」




 もう一人の護衛が馬を落ち着かせていた。馬車の荷台から、人が降りてきた。




 女だった。三十代くらい。旅装だが、質がよかった。革の手袋をしていた。腰に小さな革袋をいくつも下げていた。




「ありがとう。おかげで助かったわ」




 女は四人を見た。それから、凪の手にある杖を見た。




「あなたが撃ったの?」




 凪は頷いた。




「魔法使い?」




「……まだ、始めたばかりです」




 女は凪の杖に近づいた。先端の魔石を見た。目が変わった。




「——これ、純度一の魔石よね」




「はい」




「今の水塊を、この石で?」




 凪は頷いた。女は凪の顔を見た。それから、もう一度魔石を見た。




「……嘘でしょう」




 女は腰の革袋に手を入れた。小さな石を取り出した。光にかざした。




「私は魔石商なの。オーヴホールに仕入れに行く途中。魔石は毎日触ってる。純度一の石で小枝を折るくらいなら分かる。でも、今のは違う。あの水塊の密度、純度一で出せる威力じゃない」




 硬矢が訊いた。




「どういうことですか」




 女は凪を見た。




「特性持ち。魔石の力を増幅できる体質。魔法使いの中でも一握りよ。百人に一人いるかいないか」




 凪は黙っていた。杖を握る手が、少し震えていた。




「才能とは別なの。魔力の量じゃなくて、魔石との相性。石の力を引き出す特性。だから純度の低い石でも、普通の魔法使いが純度三や四の石で出すような威力が出る」




 女は革袋から別の石を取り出した。凪の魔石より一回り大きかった。淡い青色をしていた。




「これ、純度四の魔石。魔法使い向けの標準的な石よ。私からすると高価なものじゃないけど、あなたが使えば化けるわ」




 凪は石を見た。




「……もらえるんですか」




「命を助けてもらったんだもの。魔石の一つくらい安いものよ」




 女は凪の手に石を置いた。




「将来が楽しみね。——ご贔屓に」




 女は笑った。名刺代わりに、革袋から小さな札を取り出した。店の名前と、ウィステリアの住所が書いてあった。




「ウィステリアにも店があるの。寄ってちょうだい」




 馬車が動き出した。護衛の二人が手を上げた。硬矢も上げた。




 馬車が遠ざかっていった。




---




 凪は手の中の魔石を見ていた。淡い青色。今まで使っていた石より、明らかに質が違った。




「……特性持ち」




 凪が呟いた。




「すごいじゃん」




 誉が凪の肩を叩いた。




「俺なんか棒持って立ってただけだぞ」




「……でも、狼、来なかったよ」




「そうだな。威圧だけは効いたらしい」




 誉は笑った。少し悔しそうだった。でも、嫌な顔ではなかった。




 硬矢は前を見た。ウィステリアの壁が、さっきより近くなっていた。




 四人は歩いた。夕日が背中にあった。影が長く伸びていた。




 ウィステリアまで、あと一日。

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