# 第二十二話 帰る場所
大庭は裏口に立っていた。炭を熾していた。鉄の鍋を火にかけた。生豆を入れた。振った。
煙が上がった。豆が爆ぜた。色が変わっていく。薄い茶色から、深い茶色へ。
二十五日かけて辿り着いた色。大庭が見つけた色。目で覚えていた。手で覚えていた。
鍋を火から下ろした。笊に移した。豆が冷めていく音がした。
大庭はカウンターに戻った。布巾でカウンターを拭いた。カップを並べた。いつもと同じだった。
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硬矢たちが発って九日目の夕方、ザートが帰ってきた。
浜の方から歩いてきた。日に焼けていた。荷物は軽かった。
「送ってきた。オーヴホールまで」
大庭は頷いた。
「四人とも元気だった。宿に一泊して、朝に別れた。蔵書庫に行くと言っていた」
「そうか」
「行きは五日かかったが、帰りは四日で戻れた。道を覚えたからな」
ザートは水を飲んだ。大庭がカウンターに置いた水を、一気に飲んだ。
「——あの蔵書庫、でかかった。本の量が尋常じゃない。いくら本の虫に会ったって、相当かかるだろう」
大庭の手が止まった。カウンターを拭いていた手が、一拍だけ。
それから、また動いた。同じ速さで、同じように拭いた。
「まあ、大丈夫だろう。村長にも報告する」
ザートはそう言って、帰っていった。
大庭はカウンターを拭いた。
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十日目。
朝の焙煎を終えて、大庭は店を開けた。ガラス扉を開けた。潮の匂いがした。
ユネイラが来たのは、その前日の夕方だった。カウンターに座って、「ザートから聞いた。無事に着いたそうだな」と言った。
大庭は頷いた。ユネイラはコーヒーを一杯飲んだ。
苦い顔をして、もう一口飲んで、「悪くない」と言って帰った。
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十一日目の夕方。
八千代が来た。酒場の娘のレヒーナが付き添っていた。レヒーナは入口で「また迎えに来ますね」と言って帰った。
八千代はいつものように、窓際の席に座った。大庭がコーヒーを出した。八千代は「ありがとう」と言って、一口飲んだ。
「酒場はどうだ」
「忙しいよ。漁師たちが毎晩来る。私は皿を洗ってるだけだけど」
「楽しそうだな」
「楽しいよ。人がいるから」
八千代はカップを置いた。
「ねえ、大庭さん。今日ね、お店に漁師が駆け込んできたの」
「何があった」
「食あたりだって。仲間が一人、腹を壊して動けないって。毒消しの薬草を分けてくれって言うんだけど、ちょうど切らしてて」
大庭は黙って聞いていた。
「それで、レヒーナに東の森まで摘みに行ってもらったの。谷の奥の斜面に生えてるんだって。海風が当たらない、日当たりのいい場所」
「戻ってきたか」
「うん。薬草は間に合った。漁師も落ち着いたみたい」
八千代はそこで、懐から葉を数枚取り出した。カウンターに置いた。
「これ、レヒーナが薬草と一緒に摘んできたの。毒消しに使う葉の一つなんだけど——」
八千代は葉を指で触った。
「私、これ見た時にね。お茶の葉に似てるなって思ったの」
大庭は葉を手に取った。
細長い。少し厚みがある。縁がぎざぎざしている。表面に艶がある。
指で揉んだ。青い匂いが立った。爽やかで、少し渋い。
「——椿に似てるな」
「椿?」
「茶の木は椿の仲間だ。葉の形が近い。この艶と、縁の鋸歯」
大庭は葉を鼻に近づけた。もう一度嗅いだ。
「……お茶になるかもしれない」
「本当に?」
「やってみないと何とも言えない。試してみないと」
八千代は少し身を乗り出した。
「でも、これ毒消しの薬草だよ。お茶にしちゃっていいの?」
「少しだけでいい。明日、もう少し摘んできてもらえるか。レヒーナに頼んで」
「いいよ。場所は覚えてるって言ってたから」
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翌日の昼過ぎ、レヒーナが葉を届けてくれた。両手に抱えるほどの量だった。
「八千代さんに頼まれました。谷の奥の斜面に、たくさんたくさん生えてました」
大庭は礼を言った。レヒーナは不思議そうな顔をして帰った。
大庭は裏口に出た。葉を広げた。水で洗った。布で水気を拭き取った。
鉄の鍋を火にかけた。
生の葉をそのまま煮ても、大した味は出ない。大庭はそれを知っていた。茶葉の細胞壁は硬い。熱を加えて酸化を止め、揉んで細胞を壊す。そうして初めて、湯を注いだ時に成分が出る。
紅茶なら、萎凋させて、揉んで、発酵させる。時間がかかる。温度と湿度の管理が要る。
まずは緑茶だった。
鍋が温まった。油は引かない。葉を入れた。
手で混ぜた。熱い。だが、焙煎で鍋を振る手だった。熱さは知っていた。
葉がしんなりした。色が変わった。鮮やかな緑が、少し深くなった。酸化が止まった証だった。
鍋から下ろした。まな板の上に広げた。
手のひらで押した。揉んだ。力を込めて、葉同士をすり合わせた。
緑色の汁が滲んだ。まな板が濡れた。青い匂いが変わった。甘い匂いが混じった。細胞が壊れている。中の成分が出てきている。
もう一度鍋に戻した。今度はごく弱火。手で混ぜながら、水分を飛ばした。焦がさないように。ゆっくり。
葉が乾いていった。指で触ると、ぱりっとした。
大庭は鍋を火から下ろした。
乾いた葉を手に取った。匂いを嗅いだ。
——悪くない。
カウンターに戻った。湯を沸かした。カップに葉を入れた。湯を注いだ。
薄い緑色の液体。湯気が立った。
匂いを嗅いだ。草の匂い。でも、生の葉とは違う。火を通して、揉んで、乾かしたことで、匂いが変わっていた。丸くなっていた。
一口飲んだ。
苦い。渋い。でも、後味に甘みがあった。舌の奥に残る、かすかな甘み。
コーヒーとは違う。もっと軽い。もっと静かだ。
大庭はカップを置いた。
——使える。
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午後になると、ヨルグが来た。妻と一緒だった。
ヨルグは布に包んだものをカウンターに置いた。
「これ、今朝の漁で獲れた。食ってくれ」
開くと、小魚だった。銀色で、透き通っている。嵐の後に潮溜まりで見つけた、あのシラスに似た魚だった。
「ありがとう。——コーヒーでいいか」
「ああ。頼む」
大庭はコーヒーを二杯淹れた。ヨルグはカウンターに座って一口で顔をしかめた。妻は両手でカップを包んで、ゆっくり飲んだ。
大庭は小魚を裏口に持っていった。水で洗った。鉄の鍋を火にかけた。
油は引かない。そのまま小魚を入れた。弱火で、鍋を振った。
水分が飛んでいく。小魚が縮んだ。色が変わった。銀色から、薄い飴色へ。香ばしい匂いが立った。
塩をひとつまみ。鍋を振った。もうひとつまみ。
小魚がぱりっとした。指で一つつまんだ。噛んだ。——旨い。塩気と、魚の旨味と、香ばしさ。
皿に盛った。カウンターに出した。
「食ってみろ」
ヨルグは目を丸くした。自分が持ってきた魚が、見たことのない姿になっていた。
一つつまんだ。噛んだ。
「——旨いな。ぱりぱりしてる」
妻もつまんだ。旨そうに食べた。それからコーヒーを飲んだ。
少し顔をしかめた。
大庭はそれを見ていた。魚の塩気の後にコーヒーの苦味が来ると、口の中が重くなる。油分が残る。現世なら、ここは中煎りを出すところだった。
——茶がある。
「待ってくれ」
大庭は湯を沸かした。今朝作ったばかりの乾いた葉をカップに入れた。湯を注いだ。薄い緑色の液体。
「先にこれを一口飲んでから、魚を食ってみろ」
妻は不思議そうな顔をした。言われた通りに、緑色の湯を一口飲んだ。
「……あ」
口の中のコーヒーの重さが消えた。さっぱりした。それから小魚をつまんだ。
「おいしい。さっきより、おいしい」
ヨルグが覗き込んだ。
「俺にもくれ」
大庭はもう一杯淹れた。ヨルグは茶を飲んで、小魚を頬張って、また茶を飲んだ。
「——合うな。魚に合う」
ヨルグは食べ終わると、窓の外を見た。草地の向こうに海が光っていた。
「いい場所だよな、ここ」
「また来るよ」
二人はそう言って帰った。
大庭はカウンターを拭いた。
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夜になった。
大庭は店を閉めた。ガラス扉の鍵を回した。カウンターの灯りを消した。
裏口に出た。空を見上げた。星が出ていた。
コーヒーの豆は限りがある。補充はできない。一杯ごとに減っていく。
だが、茶葉は東の森にある。摘んで、炒って、揉んで、乾かせば、また作れる。
コーヒーを飲まない客に茶を出せるなら、豆の減りは遅くなる。
大庭はそこまで考えて、自分の考えの順番に気づいた。
——先に実利が来ている。
違う。そうじゃない。
ヨルグの妻が「おいしい」と言った。シラスと一緒に飲んで、「合う」と言った。コーヒーでは出せなかった一杯だった。
人が来て、座って、何かを飲んで、少し話して、帰っていく。その繰り返しが、南の小路だった。コーヒーだけが南の小路ではない。
紅茶も、いずれ試す。発酵の工程は難しい。温度と湿度と時間を見極めなければならない。だが、それは後でいい。
レヒーナが届けてくれた葉の中に、小枝が何本か混じっていた。折って捨てた時、指に残った匂いがあった。葉とは違う、木の匂い。乾いていて、少し甘かった。
——あの枝で魚を燻したら、どうなる。
大庭はその考えを、頭の隅に置いた。
まずは、この茶でいい。
大庭はカウンターを拭いた。もう一度。誰もいない店で、いつもと同じように。
明日も開ける。明後日も開ける。あいつらが帰ってくるまで、ずっと。




