# 第二十一話 街道
草原だった。
道は一本。轍の跡がうっすら残っていた。左右に背の低い草が広がっていた。風が吹くと、草が波のように揺れた。
四人は歩いた。
硬矢が先頭。梓乃が隣。少し後ろに誉と凪。凪は杖を腰の帯に差していた。先端の魔石が、歩くたびに揺れた。
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一日目は何もなかった。
道は平坦だった。オーヴホールを出た先の平野は広かった。遠くに山の稜線が見えた。空が広かった。オーヴホールでは建物と港に囲まれていた。ここには何もなかった。
誉が振り返った。オーヴホールの街はもう見えなかった。
「……広いな」
「ああ」
硬矢は前を見た。道は真っ直ぐだった。どこまでも続いていた。
日が傾いた頃、街道沿いに井戸があった。石を積んだ簡素なものだった。水を汲んだ。冷たかった。革袋に詰めた。
井戸の近くに焚き火の跡があった。旅人が使ったものだった。石を円く並べた跡。灰が残っていた。
「ここで泊まろう」
硬矢が言った。
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火を起こした。梓乃が干し肉を切った。パンと一緒に食べた。硬い。だが腹は膨れた。
食事の後、凪が杖を取り出した。
「練習していい?」
硬矢は頷いた。
凪は立ち上がった。焚き火から少し離れた。杖を構えた。的はなかった。地面に向けた。
押し出す。
水が弾けた。地面に当たった。土が跳ねた。教習所で初めて撃った時より、少し強かった。
魔石が暗くなった。瞬発型。溜まるまで待つしかない。
凪は杖を膝に置いて座った。待った。
誉が立ち上がった。
「俺もやるか」
誉は荷物の中から布に包んだものを取り出した。ガーズに教わった素振りの型。木の棒を一本、オーヴホールで買っていた。剣の代わりだった。
焚き火の明かりの中で、誉が棒を振った。ゆっくり。一つずつ。ガーズが教えた基本の三つ。上段から振り下ろす。横に薙ぐ。突く。
ぎこちなかった。でも、止めなかった。
凪が誉を見ていた。魔石が溜まるのを待ちながら、誉の素振りを見ていた。
硬矢は焚き火の前に座っていた。二人を見ていた。
火が爆ぜた。星が出ていた。風が草を揺らしていた。
——コーヒーがあったら。
思った。この空気に、一杯のコーヒーがあったら。火の前で、二人が練習して、梓乃が本を読んでいて、自分がコーヒーを淹れている。そういう夜があったら、最高だった。
豆はある。じいちゃんが焙いている。ゼスの裏口で、炭火と鉄の鍋で。でも今、手元にはない。道具もない。
硬矢は火を見た。炎の色を見た。焙煎の色に似ていた。中煎りの、少し深いところ。じいちゃんが二十五日かけて辿り着いた、あの色だった。
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梓乃は焚き火の近くに座っていた。膝の上に紙を広げていた。
イザーナがくれた文字表だった。この世界の文字が五十ほど並んでいた。横に、イザーナが書いた発音の注釈。梓乃が分かるように、硬矢たちの世界の文字で音を書き添えてくれていた。
梓乃は指で文字をなぞった。一つずつ。声に出した。小さな声で。
「ア……ル……セ……ティ……」
もう一枚、紙があった。イザーナがくれた絵本だった。薄い冊子。子供向けのものだった。絵が多かった。文字は少なかった。
梓乃はそれを開いた。絵を見た。文字を見た。文字表と照らし合わせた。
一つの単語を読んだ。
「……みず」
絵は、川だった。青い線が描いてあった。その下に文字が一つ。文字表で確認した。水を意味する文字だった。
梓乃は小さく笑った。一つ読めた。
次のページを開いた。
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二日目。
歩いた。道は変わらなかった。草原が続いた。時々、木が数本まとまって生えていた。鳥が鳴いていた。虫がいた。蛇を一匹見た。誉が飛び退いた。
昼過ぎ、向こうから人が来た。荷を背負った男が二人。すれ違いざまに軽く頭を下げた。硬矢も下げた。それだけだった。
夕方にもう一人。革鎧を着た女が一人、剣を腰に差して歩いていた。冒険者だった。目が合った。女は何も言わずに通り過ぎた。
街道は使われていた。人は少ないが、いないわけではなかった。
夜になると、凪が練習した。誉も棒を振った。二人の練習が、夜の決まりごとになっていた。
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三日目の夕方。
遠くに煙が見えた。
一本ではなかった。何本も。細い煙が、夕空に昇っていた。
「——街だ」
誉が言った。
道の先に、建物が見えた。小さかった。オーヴホールより、ずっと小さかった。
リトバルク。イザーナが言っていた宿場町だった。
宿屋が一軒。井戸が一つ。あとは数軒の民家と畑、干し肉を売る小さな店があるだけだった。
宿屋に入った。銀貨四枚で四人分の一泊二食。部屋は二つ。硬矢と誉。梓乃と凪。壁は薄かった。隣の部屋の声が聞こえた。
誉が床に寝転がった。
「風呂! 風呂あるかな!」
「聞いてくる」
硬矢が宿の主人に訊いた。裏に井戸がある。水を汲んで浴びろ、と言われた。
「……水か」
「贅沢言うな」
誉は渋い顔をしたが、水を浴びた。冷たかった。でも、汗が流れた。
宿の主人が言った。
「ウィステリアに行くなら、丘を越えるだろう。あそこからの眺めはいいぞ。旅人はみんな足を止める」
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宿の食堂で夕飯を食べた。干し肉の煮込みとパン。温かい食事は三日ぶりだった。
隣の卓に、男が一人座っていた。荷物が多かった。行商人のようだった。ウィステリアから来たと言った。
「ウィステリアからでね。最近、北の方が不穏だって話が広まってる」
硬矢は手を止めた。
「不穏?」
「魔族を見たって噂さ。北の街道で、尻尾のある奴を見かけたとか」
誉がパンを噛みながら訊いた。
「魔族って、このへんにもいるのか?」
行商人は首を振った。
「いないよ。少なくとも、俺が生きてる間は聞いたことがない。——昔話だがね。数百年前に、北の孤島から大陸に攻めてきたことがあったらしい。退けたそうだが」
「退けた?」
「ああ。それ以来、大陸が違うから音沙汰がない。それに、このあたりは大陸の南側だ。魔族なんて来なかったと思うがね」
凪が小さな声で訊いた。
「……じゃあ、なんで魔族って分かるんですか」
行商人は肩をすくめた。
「一部、交流があるのさ。商人の中にはな。魔族ってのは見た目が違う。尻尾があったり、耳が尖ってたり、動物に似てたり。様々だと聞く」
硬矢は黙って聞いていた。
「まあ、噂は噂だ。ただ、ウィステリアはシャンリアナの王都だからな。噂が集まる。人も集まる。物騒な話も増える。俺はオーヴホールみたいな静かな街の方が性に合ってるよ」
行商人はそう言って、煮込みを啜った。
硬矢は誉を見た。誉も硬矢を見た。何も言わなかった。
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三日目の夜。凪の水は、明らかに変わっていた。
宿の裏手の空き地で練習した。
最初はコップ一杯だった。今は、もっと多かった。密度が違った。オーヴホールで初めて撃った時は水が弾けるように散っていた。今は、塊になっていた。丸い。重い。ボウリングの玉くらいの大きさで、ぎゅっと詰まっていた。
イザーナがくれた魔石だった。三つの中で一番小さくて、一番地味な石。瞬発型。魔石屋の老人は「クズだな。純度一」と言っていた。教習所の受付は「瞬発型なら、一週間は見てください」と言っていた。枝を折るような威力は、この小さな石では本来出ないはずだった。
凪は空き地の端に生えていた木に向けた。腕くらいの太さの枝だった。
撃った。
枝が折れた。
乾いた音がした。折れた枝が地面に落ちた。断面が濡れていた。
「——折れた」
誉が駆け寄った。折れた枝を拾った。断面を見た。
「すげえ。水でこれか」
凪は杖を見た。魔石が暗くなっていた。でも、前より早く溜まるようになっていた。身体が覚えていた。
誉も負けていなかった。
素振りは毎晩やった。ガーズの三つの型。上段。横薙ぎ。突き。最初はぎこちなかった。三日目には、音が変わっていた。棒が空気を切る音。鋭くなっていた。
凪が枝を折ったのを見て、誉の目が変わった。荷物から棒を取り出した。いつもより速く振った。力が入っていた。
誉は型を終えると、凪の隣に座った。汗をかいていた。
「凪が魔法で、俺が剣か」
「剣じゃないよ。棒だよ」
「いいんだよ。気持ちの問題だ」
凪が笑った。誉も笑った。
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その夜。
凪は宿の部屋で眠っていた。窓の外に月が出ていた。薄い光が、凪の顔に落ちていた。
何かが触れた気がした。
指先でもない。風でもない。もっと軽い、もっと遠い何かが、凪の額をそっと撫でた。
凪は寝返りを打った。夢の中で、誰かが笑った気がした。声は聞こえなかった。ただ、笑っていた。面白そうに。楽しそうに。
——おまけだったのに。
そんな言葉が、夢の底を通り過ぎた。
凪は何も覚えていなかった。朝になって目を覚ました時、少しだけ手が温かかった。それだけだった。
四日目の朝。
梓乃が絵本を閉じた。
「硬矢くん」
「ん」
「この絵本、半分くらい読めるようになった」
硬矢は梓乃を見た。三日で半分。文字表を照らし合わせながらだが、それでも早かった。
「すごいな」
「子供向けだから。絵があるから意味が分かる。文字は——パターンがある。覚えれば読める」
リトバルクを出た。
梓乃は歩きながら文字表を見ていた。時々、道端の石や木を指差して、文字表の中から対応する文字を探した。見つけると、その文字を指でなぞりながら小さく音読した。口から出てくるのはどう聞いても日本語だった。でも、文字は違った。梓乃はその違いを一つずつ埋めていた。
硬矢は前を向いた。
四人とも、何かをやっていた。凪は魔法。誉は剣。梓乃は文字。
自分は。
硬矢は歩いた。考えていた。自分にできることは何か。魔法の適性はなかった。剣を振る気もなかった。言葉は梓乃に任せた方がいい。
自分にあるのは——コーヒーだった。
コーヒーの淹れ方。豆の選び方。焙煎の見極め。味の組み立て方。それだけだった。
それだけで、何ができるのか。
まだ分からなかった。でも、硬矢は歩いた。
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四日目。
歩いた。草原はまだ続いていた。道は変わらなかった。遠くに丘の稜線が見え始めていた。
夜になると、凪が練習し、誉が棒を振った。いつもと同じだった。
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五日目の昼過ぎ。
道が少し登り始めた。丘陵地帯の入口だった。草原が終わり、低い丘が連なっていた。道の両側に木が増えた。
イザーナが言った通りだった。五日目に丘陵地帯に入る。予定通り。リトバルクの宿の主人が言っていた。丘からの眺めはいい、と。
丘を一つ越えた時だった。
視界が開けた。
丘の上から、平野が一望できた。遠くに草原が広がっていた。来た道が一本の線になって見えた。空が広かった。雲が低かった。夕方の光が、草原を金色に染めていた。
四人とも、足を止めた。
「——きれいだな」
誉が言った。
風が吹いた。草が波のように揺れた。遠くの方から、順番に。
凪が座った。丘の上の草の上に、そのまま座った。
「……ここ、いいね」
梓乃も座った。風を受けた。髪が揺れた。
硬矢は立ったまま、景色を見ていた。
日は傾いていた。もう少し歩けば、丘の向こうに出られるかもしれない。でも、三人はもう座っていた。
帰る当てがあるわけじゃない。誰かに急かされているわけでもない。ウィステリアの神殿が逃げるわけでもない。
硬矢は荷物を下ろした。
「今日はここにしよう」
誉が振り返った。
「もう少し行けるぞ?」
「いい。一日遅れても、何も変わらない」
誉は少し驚いた顔をした。それから、笑った。
「——お前がそういうこと言うの、珍しいな」
「そうか?」
「そうだよ。いつも先のこと考えてるだろ」
硬矢は草の上に座った。風が気持ちよかった。
「たまにはいい」
凪が杖を置いた。梓乃が絵本を開いた。誉が大の字に寝転がった。
誰も何も言わなかった。風の音だけがあった。
日が沈んでいった。空が橙から紫に変わった。星が一つ、二つと見え始めた。
火を起こした。四人で火を囲んだ。干し肉とパン。いつもと同じだった。でも、景色が違った。丘の上から見下ろす夜の平野は、暗くて広くて、星が近かった。
——コーヒーがあったら。
また思った。この景色に、この風に、この火に。一杯のコーヒーがあったら、完璧だった。
寄り道した分だけ、帰るのが遅くなる。じいちゃんは待っている。ゼスの裏口で、鍋を振っている。
でも、急かさないだろう。あの人はそういう人だ。硬矢が何日遅れても、カウンターを拭いて、カップを磨いて、炭を熾して、同じ顔で待っている。
硬矢は火を見た。炎の色を見た。




