# 第十七話 情報交換
イザーナはカップを置いた。
「少し待って」
立ち上がった。棚の間に消えた。足音が遠ざかった。
硬矢は梓乃を見た。梓乃が小さく頷いた。信じてもらえた。それだけで、少し楽になった。
誉が椅子の背にもたれた。
「信じてくれたな」
「事実を見てる、って言ってた」
凪が小さく言った。
棚の奥から音がした。本を引き抜く音。何冊か続いた。
イザーナが戻ってきた。両腕に本を抱えていた。五冊。テーブルに並べた。どれも古かった。革の表紙が乾いていた。背表紙の文字がかすれているものもあった。
「前に読んだことがある。気になって、場所を覚えてた」
イザーナは一冊目を開いた。付箋が挟んであった。紙が黄ばんでいた。インクの色も褪せていた。
「この世界には、商売神っていう神がいる。知ってる?」
硬矢は首を振った。誉も首を振った。凪は梓乃を見た。梓乃も首を振った。
「商人が信仰してる神。交易の守護神。市場の入口に祠があったり、商船の船首に紋章を彫ったり。この大陸では一番身近な神」
イザーナはページをめくった。指先が慣れていた。古い紙を傷めない力加減を知っていた。
一冊目を閉じた。二冊目を手に取った。三冊目、四冊目と開いては閉じた。
五冊目に手を伸ばした。他の本とは明らかに違った。革の表紙がひび割れていた。背表紙は剥がれかけていた。ページの端が崩れていた。触れるだけで欠片が落ちそうだった。
「——これだけ、桁が違う」
イザーナは慎重にページを開いた。紙が茶色く変色していた。インクが滲んで、文字の輪郭がぼやけていた。
「写本の写本かもしれない。書体が古すぎて、他の四冊とは時代が全然違う」
指先がページの一点で止まった。
「ここに、商売神とは別の呼び方が出てくる。ただ——」
イザーナは眉を寄せた。
「その名前が読めない。古い書体で、しかも一箇所しか出てこない。写本の過程で欠けたのか、意図的に伏せたのか。この著者は『今日商売神と呼ばれる神は、かつて別の名で知られていた』とだけ書いてる」
「元の名前が……」
梓乃が呟いた。
「この蔵書庫の本では、ここが限界。商売神が昔は別の神格だったこと、今の呼び名は人間が後からつけたこと——それは分かる。でも、元が何の神だったかは、ここの文献には書かれてない」
イザーナはその本を閉じた。崩れないように、両手で支えた。
別の一冊を引き寄せた。さっきの四冊のうちの一つだった。
「こっちは三百年くらい前の写本。原本はもっと古い」
ページを指でなぞった。
「ここに、転移の記述がある」
硬矢の背筋が伸びた。誉が椅子から身を起こした。凪が硬矢の方を見た。
「——別の世界から人が来た、という記録。短い。数行だけ」
イザーナは本を硬矢の方に向けかけた。途中で手が止まった。
「——そうだった。読めないんだっけ」
本を自分の方に戻した。指で行をなぞりながら、声に出して読み始めた。
「『異なる理の地より、人来たる。言葉は通じれど、文字を知らず——』」
硬矢は顔を上げた。文字を知らず。自分たちと同じだった。
「これだけ。詳しいことは書いてない。『神殿の記録に詳しきことあるべし』——つまり、この著者も全部は知らなかった」
「神殿って、どこの」
硬矢が訊いた。
「商売神の神殿。この大陸にいくつかある。一番大きいのは——」
イザーナは壁の地図を指した。オーヴホールから西に離れた場所。平野部に描かれた都市の印。
「ウィステリア。シャンリアナの王都。ここに商売神の本殿がある」
硬矢は地図を見た。オーヴホールからの距離を目で測った。遠かった。
「本殿なら、もっと古い文献がある。転移の記録も、神の元の名前も、ここよりは詳しく残ってるはず」
イザーナは三冊目を手に取った。開かなかった。表紙を撫でた。
「この蔵書庫は、オーヴホールが栄えていた頃の蔵書が中心。学者や商人が持ち込んだ本が多い。神学の専門書は少ない。神殿の内部文献は、神殿にしかない」
「つまり、ここでは限界がある」
「うん。ここで分かるのは、転移が過去にあったこと。商売神が関わっていること。でも、なぜ起きるのか、どうすれば帰れるのか——それは、ここの本には書いてない」
硬矢は地図を見た。ゼスからオーヴホールまでの山越えが五日。その先に、さらに道が続いている。
「どのくらいかかる?」
「歩いて七日くらい。街道はあるけど、整備は良くない」
硬矢は指で地図をなぞった。オーヴホールからウィステリアまで。長い道だった。
誉が口を開いた。
「ウィステリアに行けば、何か掴めるかもしれないってことか」
イザーナはカップを持ち上げた。冷めたハーブ茶を一口飲んだ。
「——何か、あるかもね」
軽い言い方だった。だが、目は笑っていなかった。真剣だった。
イザーナはカップを置いた。
硬矢たちを見た。一人ずつ。
「——私の番」
「番?」
「情報交換。あなたたちは自分のことを話した。私は知ってることを話した。でも、まだ足りない」
イザーナは椅子に座り直した。膝の上で手を組んだ。
「別の世界から来たって言ったよね。その世界のこと、教えて」
硬矢は少し驚いた。帰る方法を探しに来たのに、逆に質問されている。
「何が知りたい?」
「全部」
即答だった。
誉が小さく笑った。
「全部って——」
「地理。文明。技術。歴史。言語。食べ物。何でもいい。私はこの蔵書庫の本を全部読んだ。でも、別の世界の本は一冊もない。あなたたちは、私が読めない本そのもの」
硬矢は考えた。どこから話せばいいのか、迷った。
世界の形から始めた。地理を話した。技術を話した。魔法がないこと。機械のこと。空を飛ぶ乗り物のこと。
イザーナは黙って聞いていた。時々、目が大きくなった。時々、指が止まった。一度だけ、天井を見上げた。
窓から差す光が傾いた。
気がつくと、長い時間が経っていた。
「——たくさん聞いた」
イザーナが言った。テーブルの上に、紙が何枚も広がっていた。いつの間にか書き留めていた。あの模様のような文字が、紙を埋め尽くしていた。硬矢には一文字も読めなかった。ただ、自分たちが話したことがそこに全部あるのだろうと思った。
「お釣りが多すぎる」
「お釣り?」
「情報交換のつもりだった。私は蔵書庫の本から分かることを話した。あなたたちは、別の世界の話をした。——釣り合ってない。私の方が、もらいすぎてる」
イザーナは紙の束を揃えた。丁寧に重ねた。
「この世界はまだ発展できる。あなたたちの話を聞いて、そう思った。知らないことが、まだこんなにある」
声が静かだった。だが、目が光っていた。
硬矢は少し笑った。
「お釣りが多いなら、もう少し教えてもらえないか」
「何を」
「実用的なこと。俺たちはこの世界のことを何も知らない。本に書いてあることなら、何でも助かる」
イザーナは少し考えた。それから、頷いた。
「——いいよ。何から?」
「まず、金の話」
硬矢はポケットから革の袋を出した。ギルドで受け取った硬貨だった。テーブルに並べた。
銅貨が数枚。銀貨が二十枚。それから、一枚だけ色の違う硬貨。
イザーナの手が止まった。
「——金貨?」
一枚を手に取った。裏返した。光に透かした。
「……これ、どうやって稼いだの」
「リザードマンの鱗を換金した」
イザーナの目が変わった。
「ジェネラル種?」
「ああ」
「——人が死んでるでしょう」
硬矢は頷いた。ゼスの浜を思い出した。足跡の大きさ。鱗の厚さ。あの個体は人を殺していた。
「ジェネラル種の討伐報酬は高い。でも、人的被害が出た個体は別枠になる。危険度が跳ね上がるから、報酬も跳ね上がる」
イザーナは金貨をテーブルに戻した。
「金貨一枚で銀貨百枚。銀貨一枚で銅貨百枚。普通の人は金貨を一年に数枚しか見ない。商人か貴族の通貨」
硬矢は硬貨を見た。ギルドで受け取った時は、重さしか気にしていなかった。
「銅貨一枚でパンが一つ。宿の一泊が銅貨五枚から十枚。街道沿いの宿で一泊二食なら銀貨一枚」
イザーナは銀貨を一枚ずつ数えた。
「銀貨二十枚と金貨一枚。——道中は野営が基本でしょう? 宿に泊まるのは道中の一か所くらい。四人で一泊しても銀貨四枚。食料を足しても、道中は銀貨十枚あれば足りる。ただ、ウィステリアは宿が高い。長く滞在するなら金貨を崩すことになる」
硬矢は頷いた。
イザーナが首を傾げた。
「——ところで。これだけ持ってて、勘定も知らずに?」
「……ああ」
「村ではどうしてたの。買い物とか」
「金は使ってない。漁を手伝って、食わせてもらってた」
イザーナは少し目を丸くした。
「一ヶ月?」
「一ヶ月」
「……なるほど。それで勘定を知らないんだ」
イザーナは少し笑った。納得した顔だった。
「次。ウィステリアまでの道」
イザーナは壁の地図を指した。
「オーヴホールから西に街道がある。三日目に宿場がある。リトバルクという集落。宿屋が一軒あるだけの小さな場所だけど、水と食料はここで補充できる」
指が地図の上を動いた。
「五日目に丘陵地帯に入る。ここが一番きつい。勾配が続く。街道自体は広い——昔は荷馬車が行き来してた道だから。ところどころ石畳の跡が残ってる。ただ、今は手入れされてない。草が割れ目から生えてる」
「魔物は?」
「街道沿いには滅多に出ない。ただ——」
イザーナは少し間を置いた。
「丘陵地帯には、狼型の魔物がいる。群れで動く。夜に出る。火を焚いていれば近づかない。でも、火が消えたら来る」
硬矢は頷いた。
「七日目にウィステリアの外壁が見える。門で身分を確認される。ギルドカードがあれば通れる」
「ギルドカードは持ってる」
「なら大丈夫。ウィステリアは商業都市だから、旅人には慣れてる。ただ、宿は高い。銀貨二枚は見ておいた方がいい」
硬矢は地図を見た。七日間の道のりが、線になって見えた。
「——あと、リザードマン」
イザーナの声が少し低くなった。
「ゼスで出たんでしょう。ギルドにも報告が来てるはず」
「ああ。浜に足跡があった。討伐にも参加した」
イザーナは棚から一冊の本を引いた。薄い本だった。
「これは三十年前の記録。オーヴホールの南の海岸で、ダンジョンの深層から出てきたリザードマンが確認されたことがある。その時は冒険者ギルドが討伐した。——でも、それ以前の記録がない」
「三十年前が初めて?」
「この蔵書庫の記録では、そう。それ以前にリザードマンの記述はない。つまり——」
イザーナは本を閉じた。
硬矢は黙った。ゼスの浜を思い出した。あの足跡の大きさ。あの深さ。鱗の鎧と、空の鞘。どこかで戦って剣を失い、流れ着いた個体だった。
「ウィステリアまでの街道に出る可能性は?」
「低い。リザードマンはダンジョンの深層から来る。海岸沿いに出ることが多い。内陸の街道には出ない——今のところは」
イザーナはカップを持ち上げた。冷めたハーブ茶を一口飲んだ。
「私が知ってるのは、本に書いてあることだけ。でも、本に書いてないことが増えてる。それが、少し気になってる」
窓から差す光が、赤みを帯び始めていた。
硬矢は立ち上がった。
「——ありがとう。助かった」
「お釣りを返しただけ。まだ足りないくらい」
イザーナは紙の束を大事そうに抱えた。硬矢たちの世界の話を書き留めた紙だった。
「明日も来て。昼過ぎに。——教えたいことがある。魔法のこと」
硬矢は顔を見た。意味を掴みかねた。だが、イザーナの目は真剣だった。
硬矢は頷いた。誉が手を上げた。凪が小さく頭を下げた。梓乃が笑った。
蔵書庫を出た。夕暮れの光が、石畳を橙色に染めていた。




