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# 第十六話 本の虫

 蔵書庫は、中央通りの突き当たりにあった。




 石造りの大きな建物だった。入口の上に、本を開いた形の彫刻があった。扉は開いていた。




 中に入ると、本の匂いがした。紙と革と、古い埃の匂い。




 広かった。天井が高い。壁一面に棚が並んでいた。棚には本が詰まっていた。革の背表紙。布の背表紙。巻物もあった。棚が上まで続いていた。梯子がかかっていた。




 梓乃が入口の近くに立っていた。硬矢を見て、少し笑った。




「硬矢さん」




 奥の棚の間から、誉と凪が出てきた。




 誉が硬矢の後ろを見た。




「ザートは?」




「帰った。明日の朝には発つって」




 誉は少し黙った。それから、小さく頷いた。




「——そっか」




 短かった。だが、声に重さがあった。誉は村での生活を殆ど一緒にいた相手だった。




「見つからないんです」




 梓乃が言った。




「本の虫?」




「ええ。司書の方に聞いたんですけど、『今日はどこにいるか分からない』って。棚の間を探したんですけど——」




 誉が首を振った。




「こんだけ棚あんのに、人一人見つかんねえのかよ」




 硬矢は蔵書庫の中を見回した。棚が何列も並んでいた。棚と棚の間は狭い。人一人がやっと通れる幅だった。奥の方は薄暗かった。




「一緒に探しましょう」




 梓乃が言った。誉と凪には別の列を見てもらい、硬矢と梓乃で奥に向かった。




 三列目。誰もいなかった。本の匂いだけが濃くなった。




 五列目。老人が一人、椅子に座って本を読んでいた。硬矢が会釈すると、老人は目だけで頷いた。




 七列目。




 本が積んであった。




 棚の前の床に、本が山のように積まれていた。十冊、二十冊。いくつかは開いたまま重ねてあった。付箋のような紙片が挟まっているものもあった。




 その山の向こうに、人がいた。




 床に座っていた。壁に背を預けて、膝の上に本を開いていた。




 若かった。硬矢より年下に見えた。髪が長い。肩にかかっていた。服は地味だった。袖が少しほつれていた。裾にインクの染みがあった。




 本を読んでいた。目が動いていた。速かった。一行ずつではなかった。ページ全体を見ているような目の動きだった。




 硬矢は立ち止まった。




 梓乃も止まった。二人とも、同じものを見ていた。




 本の山を見た。積まれた本の背表紙を読んだ。地理、航路、海流、大陸の形状。




 開いたままの本が一冊、一番上にあった。見出しが見えた。




 ——世界周航の可能性について。




 硬矢は少し驚いた。この世界が丸いことを、この娘は調べている。




 硬矢は声をかけた。店員の経験がある。集中している客に話しかけるのは慣れていた。邪魔にならない声の大きさ、間合い、タイミング。体が覚えていた。




「すみません。少しいいですか」




 反応がなかった。




 ページをめくる手が止まらなかった。硬矢の声が聞こえていないのか、聞こえた上で無視しているのか。どちらとも取れた。




 硬矢は梓乃を見た。梓乃が小さく笑った。




 梓乃は一歩前に出た。硬矢のように正面から声をかけるのではなく、娘の視界の端に入るように、棚の本に手を伸ばした。それから、独り言のように言った。




「世界の形について調べてるんですか?」




 娘の指が止まった。ページの上で。




「……うん」




 顔を上げないまま、答えた。自分でも気づかないうちに、声が出ていた。




「この人は、世界は球体だって書いてる。海流の向きと、星の見え方の違いから」




 梓乃が少し身を屈めた。




「星の見え方?」




「南に行くほど、北の星が沈む。逆に、南の空に新しい星座が現れる。平面じゃ説明がつかない」




 娘は本を持ち上げた。梓乃に見せるように。まだ顔を上げていなかった。




「でも、証明した人はいない。一周した船がないから。この人は理論だけ。それが悔しかったんだと思う。文章に出てる」




 棚の端から、凪が覗いていた。いつの間にか来ていた。誉はその後ろにいた。




 凪が小さな声で言った。




「……文章に出てるって、どういうこと?」




 娘は凪の方を見なかった。本のページを指でなぞった。




「最後の方、推測が断定に変わってる。証拠がないのに。悔しいから、言い切りたくなったんだと思う」




 凪は少し目を見開いた。本の内容ではなく、書いた人間の感情を読んでいる。凪はそういうことをする人に会ったことがなかった。




 硬矢は黙って聞いていた。




 そこで、ようやく娘が顔を上げた。




 梓乃が立っていた。硬矢が立っていた。棚の端に凪と誉がいた。知らない人間が四人、自分の前にいた。




 娘は少し目を瞬いた。




「——あれ。私、なんで喋ってたんだろう」




 梓乃が笑った。敵意のない、ただ面白がっている笑い方だった。




「面白い本だったから、つい聞きたくなって」




 娘は本を閉じて、膝の上に置いた。改めて四人を見た。




 誉が本の山を見て、口を開きかけた。凪が誉の袖を引いた。誉は口を閉じた。




「——あなたたち、誰?」




「旅をしています。調べたいことがあって、蔵書庫に来ました」




 梓乃が答えた。




「宿の店主さんに聞いたんです。蔵書庫に詳しい人がいるって。本の虫って呼ばれてる人」




 娘は少し目を細めた。




「……それ、私のこと」




「やっぱり」




 梓乃が笑った。




「私は梓乃。こっちが硬矢さん、誉くん、凪ちゃん」




 誉が片手を上げた。




「よろしく」




 凪が小さく頭を下げた。




 娘は立ち上がった。本を棚に戻さず、脇に抱えた。




「イザーナ」




 短く名乗った。




---




 蔵書庫の奥に、小さな談話室があった。テーブルと椅子が四つ。窓から光が入っていた。壁に地図が貼ってあった。大陸の形が描かれていた。




 椅子が足りなかった。イザーナが隣の部屋から一つ持ってきた。誉が「俺が行く」と言ったが、イザーナの方が速かった。片手で椅子を持って戻ってきた。軽々と。




 イザーナが棚から陶器の壺を出した。中に乾燥した葉が入っていた。湯を注いだ。薄い緑色の液体がカップに落ちた。




「ハーブ茶。蔵書庫で育ててる」




 硬矢はカップを受け取った。口をつけた。草の匂いがした。苦くはなかった。甘くもなかった。ただ、温かかった。




 誉もカップを受け取った。一口飲んで、少し首を傾げた。




「……草だ」




「草だよ」




 イザーナが答えた。表情が変わらなかった。




 凪がカップを受け取った。両手で包むように持った。一口飲んで、少し目を閉じた。




「……あったかい」




 イザーナが凪を見た。一瞬だけ。それから自分のカップを見た。




 イザーナも両手で包んでいた。同じ持ち方だった。




「——で、何を調べたいの」




 硬矢は梓乃を見た。梓乃が小さく頷いた。




 硬矢は少し迷った。それから、口を開いた。




「信じないかもしれないけど——俺たちは、この世界の人間じゃない」




 イザーナの目が動いた。誉を見た。凪を見た。それから硬矢に戻った。




「別の世界から来た。気がついたら、ゼスの近くにいた。一ヶ月前のことだ」




 イザーナは黙っていた。表情が変わらなかった。




 誉が口を開いた。




「俺たちも最初は分かんなかった。店にいたんだ、普通に。そしたらベルが鳴って——気がついたら、知らない空の下にいた。店ごと」




 イザーナは誉を見た。誉は目を逸らさなかった。




「帰る方法を探してる。この世界のことも、自分たちがなぜここにいるのかも、分からない」




 硬矢が続けた。




 沈黙があった。




 イザーナはカップを置いた。硬矢を見た。誉を見た。凪を見た。梓乃を見た。一人ずつ、順番に。




「……あなたたちの服」




 イザーナが言った。




「この大陸のどの地域の様式とも一致しない。縫製の技術が違う。糸の撚り方も、染めの方法も。私が読んだ文献のどこにも、こういう布の記述はない」




 硬矢は自分の服を見た。元の世界から着てきたシャツだった。一ヶ月で擦り切れかけていた。




「言葉も変。文法は合ってるのに、音が違う。抑揚が、この地域のどの方言とも合わない」




 誉が少し驚いた顔をした。




「方言って——そこまで分かるのか」




「本で読んだ。各地域の言語特徴をまとめた文献がある。あなたたちの話し方は、どの地域にも当てはまらない」




 イザーナは少し首を傾げた。




「嘘をつくにしては、辻褄が合いすぎる」




 誉が口を開きかけた。イザーナが先に言った。




「——事実は書物より奇妙なもの、って誰かが書いてた」




 イザーナはハーブ茶を一口飲んだ。




「信じる。というか、否定する根拠がない」




 誉が息を吐いた。肩の力が抜けていた。




「——よかった。信じてもらえないかと思った」




 イザーナは誉を見た。




「信じるかどうかは感情の問題。私は事実を見てる。事実が矛盾しないなら、否定する理由がない」




 硬矢は少し笑った。この娘は、本の読み方と同じやり方で人を見ている。

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