第八話 二階の密約
二階の座敷は、思いのほか簡素だった。派手な屏風も、金の襖もない。磨き込まれた板の間に、古びた文机がひとつ。壁際の棚には、帳面が几帳面に積み重ねられている。
窓辺に座っていた女が、振り返った。四十に届くか届かないか。地味な藍の小袖に、髪を簡素な櫛巻きにまとめている。遊女屋の女将というより、どこかの商家の内儀のようだった。
「紺と申します。どうぞ、楽になさいまし」
勧められた座布団の上に、腰を下ろした。お紺は、湯気の立つ茶碗を千早の前に置いた。白湯だった。
「暑うございましょう。どうぞ」
茶碗を、手に取った。左の掌で底を支え、右の指を添えて、両手で包むように持ち上げる。
口元へ運ぶ前に、ふと、お紺の視線に気づいた。お紺は、千早の手元を見ていた。それから、視線を上げ、千早の首筋に目を留めた。
「お武家の娘さまは、白湯をそのように受けるものでございますね」
千早の手が、止まった。
「懐かしい手つき。わたくしも昔、そういうお嬢さま方を、たくさん見てまいりました」
穏やかな微笑みだった。
「それに、その首。男の方にしては、細うございますよ」
千早の右手が、反射的に腰へ伸びた。
何もない。刀は、ない。指先が、空の腰帯を掴んだだけだった。
その仕草を見ても、お紺の表情は少しも変わらなかった。
「ご安心なさいまし。ここでは、女が女を売ったりは――」
そこで言葉を切り、お紺は小さく苦笑した。
「いいえ。売っておりますわね、毎晩。わたくしが、この手で」
茶碗を、膝の前に置いた。指先が、かすかに冷えていた。
「……何が、望みだ」
「話が早くて助かります」
答える代わりに、お紺は文机の上の帳面を一冊、手元に引き寄せた。
「あなたさまは、死合いに出るおつもりでしょう。そして、城の中のことを知りたがっておいでだ。違いますか」
千早は、答えなかった。その沈黙を待っていたかのように、お紺が小さく頷いた。
「城の噂は、ここに集まります。お侍も、鉄砲衆も、城の小者も、酔えばみな同じ。わたくしは、それを全部、この帳面に書きつけてまいりました」
「それを、売るというのか」
「差し上げましょう。それから、この家の湯殿も。人目を気にせず汗を流せる場所は、谷にここしかございませんよ。いざというときの隠れ場所も、ご用意いたします」
「代わりに」
「勝ってくださいまし」
お紺の声が、わずかに低くなった。
「勝ち残って、賞金を手になさったら、お糸を身請けしていただきたい。あの子は、まだ客を取っておりません。旦那さまは、盆明けに初めての客をつけるおつもりです」
お紺の目を見た。その奥にあるものは、読めなかった。情けなのか。打算なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
「なぜ、それがしに賭ける」
「昨夜、あなたさまは柄に手をかけておいででした」
お紺の目が、窓の外の通りへ向いた。
「この通りで、あの子のために柄に手をかけた方は、ほかに一人もおりませんでしたよ」
膝の上で、拳を握った。手をかけた。だが、抜かなかった。それを、この女は見ていたのだ。
「……蓮丸、という者のことを、知っているか」
お紺の眉が、ほんのわずかに動いた。
「城の若さまですね。五年前に、刑部さまがどこからか連れてこられた男の子。焼けた家の子だと、噂では聞いております」
焼けた家。
息が、止まった。お紺は、それ以上は語らず、立ち上がって襖を開けた。
「さあ、まずはお湯を。そのままでは、汗の匂いでいずれ見破られますよ。わたくしのように鼻の利く者は、谷にほかにもおりますから」




