第七話 昼の遊里
七月十三日、巳の刻。昼の遊里は、眠っていた。
昨夜あれほど赤々と灯っていた提灯は、どれも火を落とされ、軒先でだらりと垂れている。格子戸はすべて閉ざされ、三味線の音もない。聞こえるのは、蝉の声と、どこかの井戸で釣瓶が軋む音だけだった。
千早は、通りの入り口で一度足を止めた。
腰が、軽い。刀は、与平の研ぎ場にある。日の暮れまで戻らない。五年のあいだ、刀を手放して歩いたことは一度もなかった。腰帯の左側に、何もない。それだけで、身体の芯が一本抜けたように心許なかった。
(それでも、来なければならなかった)
昨夜、闇の中で聞いた名が、耳の奥にこびりついて離れない。
蓮丸さま。
城の噂を知りたければ、遊里へ行け。旅の途中、どこの宿場でもそう聞かされてきた。男たちは、酒と女の前では口が軽くなる。
千早は通りの奥へ歩を進めた。
井戸端に、女たちが集まっていた。五、六人。みな洗い髪を背に垂らし、色の褪せた浴衣を引っかけただけの姿で、盥に浸した襦袢を揉んでいる。白粉の落ちた素顔は、夜に見た女たちとは別人のようだった。頬にそばかすの浮いた娘。目の下に濃い隈を作った女。欠伸を噛み殺しながら、煙管をくわえている女。
誰もが、ただ疲れていた。そして、その口元からのぞく歯は、やはり揃って黒かった。
千早が近づくと、女たちの手が一斉に止まった。
「おやまあ」
声を上げたのは、煙管の女だった。二十四、五か。切れ長の目に、どこか人を食ったような光がある。女は煙管の灰を盥の縁で叩き落とすと、千早を頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと眺め回した。
「昼間っから若いお侍が、こんなところに何の用だい。こっちは寝てる時分だよ」
「人を、訪ねてきた」
「へえ、誰をさ。言っとくけど、昼の床は高くつくよ」
周りの女たちが、くすくすと笑った。千早は眉ひとつ動かさなかった。
煙管の女の目が、千早の腰に落ちた。
「おや。丸腰かい」
女の口の端が、面白そうに吊り上がった。
「死合いの谷に、刀も差さずに遊里へ来るとはねえ。度胸が据わってるのか、それとも、ただの阿呆なのか」
「研ぎに出している」
「研ぎ、ねえ」
千早の顔をのぞき込むように、女が首を傾けた。近い。白粉の匂いはしない。代わりに、洗い髪から安い椿油の香りがした。思わず、半歩だけ退いた。
「昨夜、この通りで娘がひとり、連れ戻された」
女たちの笑い声が、ぴたりと止んだ。
「お糸、という名だった。あの子に会いたい」
煙管の女の顔から、からかいの色が消えた。代わりに浮かんだのは、警戒と、それから、ほんのわずかな疲れだった。
「……あんた、昨夜の見物人かい」
喉の奥で、言葉が詰まった。
女はしばらく黙って千早を見ていたが、やがて、ふっと鼻から息を抜いた。
「あの子の知り合いってわけでもなさそうだね。何の用か知らないけど、帰んな。鉄漿丸の旦那に見つかったら、あんたも、あの子も――」
「お志乃」
頭の上から、声が降ってきた。
見上げると、通りでいちばん大きな遊女屋の二階の窓が、細く開いていた。簾の向こうに、女の影がある。
「旦那さまなら、迎え火の支度で朝から城に詰めておいでですよ。日の暮れまでは戻りません」
落ち着いた、よく通る声だった。遊里の女の声にしては、言葉の運びがどこか折り目正しい。
「そのお方を、お通しなさいまし」
お志乃、と呼ばれた煙管の女は、二階を見上げて小さく舌打ちした。それから、千早に向き直り、顎で遊女屋の暖簾を指した。
「……女将さんがお呼びだよ。運がいいのか悪いのか、知らないけどね」
千早は二階の窓を見上げた。簾の向こうの影は、もう動かなかった。ただ、胸の奥で、何かが小さく鳴っていた。
――見られている。
それも、ずっと前から。




