第六話 研ぎ場
七月十三日、卯の刻。谷は、乳色の朝霧に沈んでいた。
結局、一睡もできなかった。千早は夜明け前に木賃宿を抜け出し、谷川で顔と首筋を洗った。山の水は肌を刺すように冷たく、それがかえってありがたかった。晒の下に溜まった汗だけは、拭えない。誰が見ているか分からない川辺で、帯を解くわけにはいかなかった。
(今夜は、迎え火だ)
刀の研ぎを頼まねばならない。この五年、ろくな手入れもできずに振るってきた刀だった。名乗りを上げる前に、せめて刃を整えておきたい。
町外れの研ぎ場は、宿の亭主に聞けばすぐに分かった。川沿いの坂を下りきったところに、小さな板屋根の小屋がある。軒先に吊るされた木札には、ただ「とぎ」と墨で書かれていた。
霧の中で、竹箒の音がしていた。店先を掃いているのは、八つか九つほどの男の子だった。
男の子は千早に気づくと、箒を構え直した。両手で柄を握り、腰を落とし、千早に穂先を向ける。
「やあっ!」
小さな掛け声とともに、箒が空を切った。千早は思わず足を止めた。男の子は、得意げに鼻をこすった。
「お侍さん、死合いに出るの?」
「……ああ」
「強い?」
答えに詰まった。男の子は、千早の腰の刀を食い入るように見つめている。その目は、谷の大人たちのうつむいた目とは違い、まっすぐに光っていた。
口元が、少しだけ緩みかけた。そして、無意識に袖を口元へ持ち上げかけて――止めた。
男の仕草ではない。千早は咳払いをひとつして、腕を下ろした。
「太一。お客さまに無礼だろう」
小屋の奥から、低いしわがれた声がした。現れたのは、腰の曲がった小柄な老人だった。煤けた前掛けをかけ、両手の指先は砥石の粉で白く染まっている。太一と呼ばれた男の子は、首をすくめて箒を抱えた。
「研ぎを頼みたい」
千早が言うと、老人は黙って手を差し出した。千早は腰から刀を抜き、鞘ごと老人に渡した。
老人は刀を受け取ると、まず鞘から刀身を半ばまで引き出し、霧越しの薄明かりにかざした。刃に目を走らせる。棟を指でなぞる。それから目釘を抜き、柄を外しにかかった。研ぎには柄を外す。それは千早も知っていた。
だが、茎が現れた瞬間――
老人の手が、止まった。
ほんの一呼吸。千早でなければ、気づかなかったかもしれないほどの、わずかな間だった。
茎には、刀工の銘が刻まれている。その脇に、目を凝らさなければ見えないほど小さく、三筋の煙が立ちのぼる形の刻みがあった。
千早の家の、印だった。
老人は何も言わなかった。茎を布で包み、千早の顔を一度だけ見上げ、それから目を伏せた。
「……日の暮れまでに」
それだけ言って、老人は刀を抱えて奥へ下がっていった。その背中を見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
(今のは――)
問いただすべきか。だが、何を問えばいい。
「じいちゃんはね、与平っていうんだ。谷でいちばんの研ぎ師なんだよ」
太一が、千早の袖を引いた。そのとき、霧の向こうから、琵琶の音が聞こえた。昨夜と同じ、低く、ひとつきりの音。
「あ、法師さまだ」
太一が、町外れの山の方を指さした。
「荒れ寺に住んでる、目の見えない法師さまだよ。見えないのに、なんでも聞こえるんだって。おいらが寺の裏で転んだときも、ちゃんと名前を呼んでくれたんだ」
霧の奥へ、目を凝らした。何も見えない。ただ、琵琶の余韻だけが、谷の朝に細く震えていた。
研ぎ場を離れる前に、千早は一度だけ振り返った。薄暗い小屋の奥で、与平がまだ、布に包んだ茎を両手で捧げ持つようにして座っていた。身じろぎひとつしない。
それはまるで、祈っているようにも見えた。




