第九話 湯殿
湯殿は、遊女屋の裏手の、小さな板葺きの小屋だった。戸口には、お志乃が腕を組んで立っている。
「誰も通しゃしないよ。さっさと浸かってきな、お嬢さま」
お志乃の声には、さっきまでのからかいとは違う、どこかぶっきらぼうな温かさがあった。
脱衣の板間で、千早は帯を解いた。袴を下ろし、小袖を脱ぐ。そして、胸の晒に手をかけた。幾重にも巻いた布を、一巻きずつほどいていく。
最後の一巻きが外れたとき、千早は思わず、長い息を吐いた。肺の底まで、空気が入ってくる。こうして、誰の目も気にせずに息をするのは、いつ以来だろう。
肩から脇腹にかけて、晒の跡が赤く筋になって残っていた。湯に身を沈めると、その跡がしみて、ひりひりと痛んだ。千早は男髷の元結を解き、髪を湯に落とした。黒い髪が、水面に広がっていく。
湯の中で、膝を抱えた。泣くつもりはなかった。泣いたことは、五年間、一度もない。だから、ただ目を閉じて、湯の温かさだけを感じていた。
◇
湯から上がり、借りた単衣を羽織って髪を拭いていると、脱衣の戸が、小さく叩かれた。
「あの……手拭い、お持ちしました」
か細い声だった。戸が細く開き、少女が顔をのぞかせた。十四ほど。痩せた頬に、昨夜の涙の跡がまだうっすらと残っている。
お糸だった。
お糸は、手拭いを差し出しかけて――千早の顔を見て、息を止めた。背に垂れた、長い黒髪。湯上がりの、素顔。お糸の唇が、震えた。
「昨夜の……お侍さま……?」
髪を拭く手が、止まった。逃げ場は、なかった。
「……女の、ひと?」
お糸の目が、大きく見開かれていく。千早は、小さく頷いた。それから、お糸の前に膝をついた。目の高さを、少女に合わせる。
「昨夜は」
声が、かすれた。
「昨夜は、すまなかった」
しばらく、お糸は黙って千早を見つめていた。やがて、ぽつりと言った。
「……おとうも、同じ顔してた」
「え?」
「おいらがここに連れてこられた日。おとう、何もできなかったって。今のお侍さまと、おんなじ顔してた」
喉の奥が、熱く詰まった。
手拭いを千早の膝に置くと、お糸は小さな右手を差し出した。小指だけを、立てて。
「内緒にする」
まっすぐな目が、千早を見ていた。昨夜、格子戸の向こうへ引きずられていく間際に見せた、あの目だった。
「お侍さまが女の人だってこと、誰にも言わない。指切り」
少女の細い小指を、じっと見つめた。それから、自分の小指を、そっと絡めた。冷たく、小さな指だった。
「勝つ」
千早は言った。
「勝って、お前を、ここから出す」
お糸は何も答えなかった。ただ、絡めた小指に、ぎゅっと力を込めた。
◇
日が傾き始めた頃、千早は再び晒を巻き、髷を結い直して、遊女屋を出た。研ぎ場へ、刀を受け取りに行かねばならない。通りの提灯に、ひとつ、またひとつと火が入り始めていた。夜の遊里が、目を覚まそうとしている。
通りの角を曲がったとき、千早は足を止めた。
向こうから、大柄な男が歩いてくる。上等な絹の小袖。腰の朱鞘。顎の張った顔に貼りついた、薄い笑み。
鉄漿丸だった。城から戻ってきたのだ。
千早は目を伏せ、道の端に寄った。鉄漿丸は、千早に目もくれずにすれ違っていく。
その肩が、千早の肩と並んだ瞬間――
鉄漿丸が、すん、と鼻を鳴らした。
「……妙だな」
足音が、止まった。晒の下で、心の臓が跳ね上がった。
「湯上がりの、女の匂いがしやがる」




