第十話 残り香
千早は、動かなかった。振り返れば、顔を見られる。走れば、追われる。道の端に寄ったまま、目を伏せ、ただ息を殺していた。
背後で、鉄漿丸がもう一度、鼻を鳴らした。それから――
笑った。
「どこぞの女郎の残り香か。湯屋の前を通っただけで、これだ」
下駄の音が、遠ざかっていく。
「おう、お志乃! 今夜は迎え火だ、店を開けろ!」
遊女屋の暖簾が揺れる音。女たちの返事。千早は、鉄漿丸の背中が暖簾の向こうへ消えるまで、身じろぎひとつしなかった。消えてから、ようやく息を吐いた。晒の下で、湯で温まったはずの肌が、すっかり冷えきっていた。
(あの男は、鼻が利く)
お紺の言葉が、耳に蘇った。
――わたくしのように鼻の利く者は、谷にほかにもおりますから。
◇
研ぎ場に着いたとき、日は谷の縁に沈みかけていた。与平は、黙って刀を差し出した。
受け取った刀を、鞘から半ばまで引き出した。夕陽を受けて、刃が濡れたように光った。五年分の曇りが、拭い去られている。刃文が、谷川の流れのように白く浮かび上がっていた。
千早は刀を腰に差した。左の腰に、重みが戻る。身体の芯に、一本、柱が通った。
代金を受け取ると、与平はやはり何も言わずに奥へ下がっていった。
◇
その日の昼下がり。谷を見下ろす尾根の上、黄泉沢城の奥庭では、木刀が打ち合う乾いた音が響いていた。
蓮丸は、両の手にそれぞれ木刀を握っていた。右に長く、左に短く。息が上がっている。汗が、目に入る。
向かい合う刑部は、汗ひとつかいていなかった。大柄な身体に、同じく大小の木刀を構えている。だが、その構えは蓮丸のものとは違っていた。
重い。山がそのまま立っているような、揺るぎのない構えだった。
「来い」
刑部が言った。蓮丸は踏み込んだ。右で面を狙い、左で胴を払う。二本の木刀が、ほとんど同時に走る。速さなら、負けない。この五年、それだけを磨いてきた。
だが――
刑部の右の木刀が、蓮丸の二本をまとめて受け止めた。受けた、のではない。叩き落とされた。手首に、骨まで響く衝撃が走る。蓮丸の左の木刀が、手から飛んだ。
次の瞬間、刑部の左の木刀の切っ先が、蓮丸の喉元にぴたりと止まっていた。
「速いだけでは、届かぬ」
静かな声だった。
「速い刃は、重い刃に折られる。覚えておけ」
「……はい、殿」
蓮丸は膝をつき、頭を下げた。殿、と呼ぶ。五年間、ずっとそうしてきた。本当は、別の呼び方をしてみたいと思ったことがある。だが、一度も口にしたことはない。
刑部は木刀を小姓に渡し、縁側に腰を下ろした。
「明日から、お前は本物の血を見る」
「はい」
「斬るときに、迷うな。迷えば、お前が斬られる」
「迷いません」
顔を上げると、刑部が、じっとこちらを見ていた。その目には、褒める色も、叱る色もなかった。ただ、何かを測るような、冷えた光があった。
「蓮丸」
「はい」
「今宵、香守が大香炉に香を焚く」
刑部の目が、尾根の下に広がる谷へ向いた。
「その煙を見て、お前は――何か、感じるか」
答えに詰まった。毎年、何度も聞かれる問いだった。そして毎年、同じ答えしか返せなかった。
「……いいえ。何も」
返事はなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、刑部が目を細めた。
それが失望なのだということを、蓮丸はもう、五年前から知っていた。




