第十一話 香の間
城の東の端に、香の間と呼ばれる一室がある。蓮丸は、その部屋が好きではなかった。嫌いだ、というのとも違う。ただ、襖の前に立つたびに、胸の奥がざわつくのだった。
「お入りなさいませ、若さま」
襖の向こうから、涼やかな声がした。蓮丸は、襖を開けた。
薄暗い座敷に、細い煙が幾筋も漂っていた。香炉がいくつも並び、それぞれから違う色の煙が立ちのぼっている。その真ん中に、白妙が座っていた。
刑部の側室。そして、この城の香守。白い小袖に、白綾の打掛。目尻にほんのわずかな紅を差した、細面の女だった。白妙は、膝の前に並べた線香の束を、一本ずつ指で選り分けていた。今宵、大香炉に立てる線香なのだろう。
「殿が、宴の支度を見てまいれと」
「ご苦労さまでございます。もうすぐ、整います」
部屋の隅に膝をついた。
ある匂いが、鼻をかすめた。白妙の衣から立ちのぼる、香の匂いだった。懐かしいのに、胸の奥を締めつけてくる匂いだった。
思わず目を閉じた。頭の奥が、きりきりと痛んだ。瞼の裏に、何かが閃く。
――炎。
赤い光。崩れ落ちる梁。煙で何も見えない。誰かが、自分の手を引いている。細い、温かい手。
「――れん」
誰かが、呼んでいる。
「れん、離しちゃだめ――」
「若さま」
白妙の声で、蓮丸は目を開けた。炎は、消えていた。薄暗い香の間と、漂う煙と、こちらを見つめる白妙の顔があるだけだった。
「どうなさいました。お顔の色が」
「……いや。少し、煙にむせただけだ」
白妙が、蓮丸の顔をじっと見ていた。その目が、何かを探っているように見えた。やがて、ふっと微笑んだ。
「何か、思い出されましたか」
「何も」
短い答えだった。本当に、何も思い出せなかった。手の温かさと、誰かの声の切れ端と、炎の色だけ。いつも、そうだった。この匂いを嗅ぐと、決まって同じものが見える。そして、決まってその先が見えない。
廊下に、重い足音がした。襖が開き、刑部が入ってきた。手に、古びた冊子を携えている。表紙は煤け、角は焼け焦げていた。刑部はそれを、白妙の前に置いた。
「どうだ。何か、分かったか」
冊子が、開かれた。中には、細かな文字と、無数の図が描かれていた。渦を巻く煙。枝分かれする煙。地を這う煙。蓮丸には、何が描かれているのか、まるで分からなかった。
しばらく頁をめくっていた白妙が、やがて首を振った。
「調合までは、分かります。この香も、ここに書かれたとおりに合わせたもの」
白い指が、衣の袖をそっと持ち上げた。
「ですが、煙の読み方は――書かれた言葉だけでは、どうにも」
言い終えると、白妙は冊子を閉じた。閉じる指先に、ほんの少しだけ、余計な力がこもっていた。
刑部の顎に、力が入るのが分かった。
「五年だ」
低い声だった。
「五年、この書を手元に置いて、まだ一行も読めぬ」
刑部の目が、部屋の隅の蓮丸に向いた。蓮丸は、その目を受け止めることができなかった。視線を落とす。自分の膝の上で握りしめた、二つの拳が見えた。
刑部は何も言わずに部屋を出ていった。廊下の先、居室のほうで、小姓が灯明に火を足す音がした。刑部の部屋の灯は、夜通し消されることがない。それは、城の誰もが知っていることだった。
理由を知る者は、いない。
◇
香の間を辞す前に、蓮丸は一度だけ、白妙を振り返った。
「白妙どの」
「はい」
「俺の――家の者のことを、何か聞いているか」
白妙の、線香を選り分ける手が止まった。ほんの一瞬だった。
「お父上も、お母上も、あの火事で亡くなられたと聞いております」
「姉が、いたはずだ」
白妙が、顔を上げた。その微笑みは、少しも揺らいでいなかった。
「姉君さまは――家が焼けたあの夜、若さまを置いて、一人で逃げられたそうですよ」
香の煙が、白妙の顔の前を、細く横切った。
「家を捨てた方のことなど、もうお忘れなさいませ」




