第十二話 物見櫓
城の西の端の物見櫓からは、谷の底が一望できた。蓮丸は、櫓の梯子を上りきったところで足を止めた。
先客がいた。櫓の手すりにもたれて、少女がひとり、谷を見下ろしていた。薄桃色の小袖。肩で切り揃えた黒髪が、谷から吹き上げる風に揺れている。
「早苗さま」
少女は振り返り、蓮丸を見て、小さく笑った。
「蓮丸。また、殿に打たれたのね」
「……見ていたのですか」
「ここからだと、奥庭が丸見えなの」
手すりの脇に少しずれて、早苗が蓮丸の場所を空けた。黙って、その隣に立った。
谷の底の河原では、男たちが迎え火の薪を組み上げていた。河原の中央には、大人の背丈ほどもある青銅の大香炉が据えられている。その周りに、桟敷が組まれ、幔幕が張られ、篝火の台が並べられていた。刑部の宴の支度だった。
「たくさん、集まったわね」
早苗が、河原を囲む人の群れを見下ろして言った。死合いの名乗りを上げに来た剣客たち。それを見物に来た町の者たち。夕暮れの河原は、人で黒く埋まり始めていた。
「あの中の誰かが、勝つのね」
早苗の声は、平らだった。
「そして、わたしはその人に嫁ぐ」
手すりを握る指に、力がこもった。死合いの勝者に、家督を譲る。そして、城主の娘を娶らせる。高札に書かれた掟だった。
早苗は、そのことを一度も嫌だと言ったことがない。言ったところで、何も変わらないことを、知っているからだ。蓮丸も、同じだった。この城で、刑部の決めたことに逆らえる者はいない。
「俺が、勝ちます」
言ってから、蓮丸は自分の声に驚いた。早苗が、こちらを見た。
「蓮丸が勝ったら、蓮丸が家督を継ぐのね」
「……そうなります」
「そして、わたしは、蓮丸に嫁ぐ」
返す言葉が、蓮丸には見つからなかった。早苗も、口をつぐんだ。二人はしばらく黙って、谷を見下ろしていた。谷から吹き上げる風に、硫黄の匂いが混じっていた。
やがて、早苗が小さな声で言った。
「姉上さまのこと、まだ夢に見るの?」
蓮丸の肩が、強張った。
五年前、城に連れてこられたばかりの頃。毎晩うなされて泣いていた蓮丸の枕元に、そっと座っていてくれたのは、まだ十一だった早苗だった。その頃、蓮丸は何度も、姉の名を呼んでいたらしい。今はもう、その名すら思い出せない。
「……あの人は、俺を置いて逃げたそうです」
「白妙さまが、そう言ったの?」
「はい」
早苗が、何か言いかけた。だが、その言葉は、谷から響いてきた太鼓の音にかき消された。
どん、と腹の底に響く音。迎え火の、始まりの合図だった。
河原に組まれた薪に、次々と火が入っていく。炎が立ち上がり、谷の底が赤く照らし出された。人の群れが、どよめく。蓮丸は、ぼんやりとその光景を見下ろしていた。
河原へ続く坂道を、ひとりの若侍が下りてくるのが見えた。細い。背は高くない。旅塵にまみれた袴に、腰の一本差し。どこにでもいる、食い詰めた浪人の一人だった。
なのに――
気づけば、手すりから身を乗り出していた。目が、離せなかった。
若侍の歩き方。肩を揺らさず、腰から先に足を送る、あの独特の運び。地を擦るような、音のない足取り。
蓮丸の胸の奥で、何かが軋んだ。
(あの歩き方を、俺は、どこかで――)
若侍の姿は、すぐに人の群れに呑まれて見えなくなった。迎え火の炎が、高く、高く燃え上がっていた。




